下川翔太郎の憂鬱
「下川!試合っていつだっけ?」
放課後、部活に向かおうとするとクラスの女子が話しかけてきた。
「試合じゃねーよ。スパー大会なら来月だけど」
翔太郎は苛立ちを隠して答えた。
「応援行ってやるよ!」
「別に面白いもんじゃないから・・・」
「いや、興味しかねーよ!オレらも行くから!」
男子達も乗って来る。みな自分たちと同じ1年生が上級生を倒すことを期待している。
「まぁ、頑張るよ。ありがとう」
翔太郎は、早くこの場を去りたくて無難な回答をして教室を出た。
「大変だねぇ、有名人は」
ボクシング部の級友が言った。
「まったくだよ。あいつら全員リングに上げてやりたい。どんだけ怖いか思い知れって」
翔太郎は周りに人がいないのを確認して毒を吐く。
「お前でも怖いの?」
友人が意外そうに聞いた。
「当たり前だろ!」
「でも、相手田中さんだろ?お前なら楽勝なんじゃない?」
「楽勝?なんで?」
翔太郎が聞き返す。
「悪いけどあの人、あんまり上手そうじゃないじゃん。フットワーク無いし、動き固いし、ガード固めてジャブとワンツー打つのしか見たことない。お前ならフットワークでかき回せるんじゃない」
級友は答えた。
「でも体力はすごいぞ、あの人」
「体力だけはね」
級友はカラカラと笑う。翔太郎はそれ以上話を広げなかった。
(フットワークか・・・)
翔太郎は最近そのことばかり考えていた。
フットワークは小学生の頃から父に仕込まれている。
ボクシングをやりたいと言った時、最初父は反対した。自身が網膜剥離で引退しており、危険なスポーツを子供にやらせたくないと言う、経験者ゆえの親心だった。
しかし、息子の決意が固いとみると、交換条件を出した。
それが、徹底して防御技術を身に着けることだ。
ボクシングの防御は、一般的なイメージとは少し違う。来たパンチを反射神経で避けるのではない。ボクサーのパンチのスピードは人間の反射神経より速い為、それでは間に合わないのだ。
だから、避ける場合は予測して避ける。相手の構えやリズム、クセから来るパンチを予測して避けるのだ。しかし、それも限界がある。初弾は予測出来ても連打で来られたら対応しきれない。
だから、一番の防御は、当たらない位置にいること。しかし、ただ離れるだけでは自分のパンチも当たらない。だから絶えず動きつつ、相手のパンチが届かず自分は少し踏み込めば当たるようなポジションを取るフットワークが重要になる。
翔太郎はそれを父に徹底的に仕込まれている。
(しかし、あの人に通用するんだろうか・・・)
そんなことを考えながらジムに着く。
挨拶をし、縄跳びをはじめつつ、チラリと既に来ていた田中孝則のサンドバッグ打ちを見た。
いや、正直見たくはないのだが、どうしても目に入ってしまう。
基本よりも高く上げたガード、基本よりも顎を引いて上目遣い。基本よりも半身で猫背な窮屈な構えだ。
スパン!と、そこから意外にもキレの良いジャブを放つ。
続いてワンツー。続いてジャブ、ジャブ、ジャブ、ワンツー、ワンツー、ワンツースリーフォー。
ストレート系のパンチばかり連打する。あの窮屈な構えからはスムーズなフックもアッパーも出せない。いや、孝則は、端からストレート以外を打つ気が無いようにすら見える。
「オレ、これしか出来ないからさ」
と孝則が自虐的に話していたのを、翔太郎は聞いたことがある。
自分の不器用さを悟り、他を切り捨てることでストレートと連打、そしてフルラウンド連打し続ける体力だけを、徹底して磨いているのだ。
連打即ち防御と言わんばかりで、孝則がディフェンスの練習をしているのを見たことが無い。そして、その異様な戦法が日に日に完成して言っているように見える。
(なんでみんな、この人の異様さに気付かないんだ?)
翔太郎は、自身に対する周りの楽勝ムードにイラついていた。
ビーーーーーーッ!
ブザーが鳴った。これは1ラウンド残り30秒の合図。試合間隔に慣れる為、ボクシングの練習は2分動いて1分休むという流れを繰り返す。そして2分の内の残り30秒は追い込みをかけるように動くので、このようなブザーで知らせるようになっている。
ブザーと同時に翔太郎は二重跳びと、駆け足跳びを織り交ぜて激しく縄を飛ぶ。
孝則は連打の回転と強度を上げる。
カーーーーン!
ラウンド終了を知らせるゴングが鳴った。翔太郎は縄跳びを持ったまま、軽くシャドーの動きをしつつ呼吸を整える。
孝則は両ひざに手を付いて、激しく咳込みながら荒い呼吸をする。
(・・・122発)
翔太郎はラスト30秒で孝則が打ったパンチ数を数えていた。122発。それも手打ちではなく腰の入った強打で。
(この人にフットワークが通用するのか?)
翔太郎は背中の汗を冷たく感じた。