田中孝則の憂鬱
高坂北高校拳闘部二年、田中孝則は河川敷を走っていた。
放課後の夕方ではあるが、初夏の日差しは強く、Tシャツは絞れるほどの汗をかいている。
そんなことは気にも止めず、孝則は一心不乱に走る。
そうしなければ今年の新入部員、下川翔太郎の華麗なフットワークが雑念として頭に浮かんでくるからだ。
翔太郎は、地域では有名なボクシングジムの長男で、父親は元世界チャンピオンだ。少し動いただけでも一目で他の新入生とはモノが違うのが分かる。
それに対し、孝則はお世辞にも器用なタイプでは無いと自認している。
(なんでオレが)
ここ数週間、何百回と呟いている言葉が頭を過った時、後ろから自転車の気配を感じた。
放課後の河川敷が通学路でもあるので、多くの自転車が通る。しかし、後ろからのそれは聞きなれたペダル音とリズムだ。それを察した孝則は、気持ち走る速度を緩めた。
「こんな所まで来てるの?」
自転車の主は、ボクシング部マネージャーの七海だった。
「ああ。戻れって?」
孝則が尋ねた。
「ううん。アンタが根詰めてるから、適当に話し相手になってガス抜きしてやれって部長に言われたの」
「そんなら、この役変わってくれりゃいいのに」
孝則が毒づく。
「あっ、その愚痴だけは同調するなって言われてるから」
「はいはい」
孝則はため息を付いた。
この地域では、高校のボクシング部に入って来る新入部員に、経験者は少ない。ボクシングは、子供の習い事としてメジャーなスポーツではないからだ。
だから、必然的に入部してしばらくは基礎練習だけとなる。スパーリングが解禁されるのは、仕上がり具合を見ての数か月後だ。
その新人のスパーリングデビューを盛り上げる為、部では新人対上級生の親善スパーリング大会という形で恒例行事化している。
当然実力差があるので、だいたいは一方的な結果になる。上級生はそこで強さを見せつけ、部の空気を引き締める目的もあった。
問題は、下川翔太郎のような、明らかな実力者が入部してきた時だ。
この大会は、部内大会とはいえ見物人も多く、上級生が無様な姿を見せるわけにはいかない。当然誰もが翔太郎の相手を嫌がった。
ミーティングでは埒が明かないので、部長の鶴の一声で、孝則が相手を務めることに決まったのだ。
「ひょっとして練習の邪魔?」
しばらく無言になった孝則を覗き込むように七海が言った。
「あ、ごめん。いや、大丈夫・・・だけど、ちょっと刺激だけ入れていい?」
孝則はそう言うと、道を外れ、手ごろな切り株の近くで腕立て伏せの体勢を取った。
「90秒測って」
と孝則。
「分かった。数える?」
「頼む」
いつものことなので、それだけで七海は何をするのか理解した。
七海のスタートの合図とともに孝則は早いテンポでリズミカルに腕立て伏せをする。
「ストップ!102回」
「OK!次30秒で」
言いながらも孝則は切り株に両足を置いての腕立て伏せの姿勢を取る。こうすることで負荷は格段に上がる。
「いくよ!スタート!」
合図とともに孝則は、先ほどと同じペースで腕立てを開始する。しかし、流石に表情は苦しそうだ。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛」
後半は言葉とも呼吸ともつかない声が漏れる。
「ストップ!29回!」
「うわー、ダメか・・・1分休ませて」
孝則は座り込んだ。それと同時に七海はストップウォッチを押す。
高校のアマチュアボクシングは1ラウンドが2分行われる。孝則がやっているのは1ラウンド手を出し続ける為のスタミナ、更に言えばラスト30秒でラッシュをかける為のスタミナを養う為のトレーニングだという。孝則の目標は1秒に1回以上なので、今回で言うと前半は合格、後半は不合格という結果だ。
ストップウォッチのアラームが鳴った。
「一応1分だけどどうする?」
七海が聞いた。部長にガス抜きをさせてと言われているので、こっそり90秒休憩を取ろうかとも思ったが、孝則がそれは望まないことも知っている。それ以前に長く取ったら彼にはバレるだろう。
案の定、聞くまでもなく、アラームとほぼ同時に孝則は立ち上がっていた。
「戻るよ。ジムに着いたらもう一回お願い」
孝則は走り出した。