38.残暑、夏が終わる
新学期最初の日。
夏の名残を残す九月の空が、車窓の外に広がっている。
電車は海岸線に沿って走り、いつもの風景が少しずつ流れていく。
残暑の残る季節の変わり目。
今日。ただ違ったのは、涼しい風が吹き出したことくらいだ。
『次は〜「浜名台」〜……』
アナウンスが流れ、ドアが開くと少女が裾に夏の日焼けをまだ残した様子で飛び込んできた。
「やっほー!久しぶりの学校、正装ってなんか窮屈だね」
少女は制服の襟元を少し引っ張りながら
いつもの席に座る。
「夏休み明けって、なんだか不思議な感じだね」
窓の外には、変わらない海が広がっていた。
でも、光の角度が少し違って見える。
だいぶ見馴れたこの景色も夕陽も、今となっては何も感じない。
「今日、朝礼で校長先生がね、すごく長い話をしてね?」
少女はくすくす笑いながら話し始めた。
「もう、半分寝てる子もいたんだよ?」
そんな他愛もない会話が久しぶりの学校終わり、二人の帰り道に心地よく響く。
「それでね」
少女はカバンからスケッチブックを取り出した。
ページをめくると、朝の校庭を描いた絵が現れる。
「今朝、早く着いちゃって。暇だったから、描いてみたの」
「校門前の銀杏の木が、少し色づき始めてるんだ」
僕が盗み見る絵では、写真のような緑の葉の中。
本当にわずかな黄色が混ざり始めている。
「季節が変わるって、最初はこんな小さな変化から始まるんだね」
少女の目に映る世界は、きっと僕よりずっと豊かで色彩に溢れているのだろう。
目の前の夕陽にさえ、飽きを感じる自分に苦笑い。
「そういえば、学校始まってびっくりしたの」
スケッチブックを閉じる。
少女は少し声のトーンを落として続けた。
「教室に入ったら、黒板に『進路希望調査』って
書いてあってね......」
「もうそんな時期だよね」
「うん......先生が『もう受験のことを考える時期』って」
少女の表情に、かすかな翳りが見えた。
「高校、どうしよ」
「美術の道に進みたいけど、実力が足りるのかな......」
少女は窓の外の煌めく海を見つめながら続けた。
「それに絵だけで生きていくって、難しいしもっと上の高校を目指しなさいって親にも言われて......」
「私は好きだから極めたいって言ったけど、それを仕事にするかは別じゃんっ!」
「......やりたいことが明確なのはいいことだよ」
「そうなのかな......」
「うん。諦めるよりは、マシ、かな」
少女は少し考え込むように黙った後、急に思い出したように顔を上げた。
「そういえば、展示会まであと四日だね」
「うん。楽しみ」
「大丈夫かな......私の絵、ちゃんと伝わるかな」
少女の声には、不安が滲んでいた。
「絶対大丈夫だよ」
「そう思う?高校の美術部の先輩たちの作品も
展示されるんだって。きっと素晴らしい絵ばかりなんだろーな......」
窓の外、鉛の雲は何処。
大きなりんご飴が海に溶ける。
蒼空は静かに輝く点描を映し出す。
「実はね、美術の先生が次のステップとして油絵に挑戦してみないかって言ってくれたの」
少女の素朴な声。
「水彩とは全然違うらしくて......新しいことを始めるのって、ちょっと怖いな」
「それに、受験が近づいてる時期だしね」
「そうなの。勉強と美術の両立って、できるのかな〜」
少女は両手を膝の上で握りしめた。
「やっぱ私、絵を描いてる時間が一番好き。でも、将来のためには勉強も頑張らなきゃいけなくて」
「そんなに焦らなくていいんじゃないかな」
「そうなのかな〜」
少女は窓の外を見つめながら続けた。
「ま、絵を描くって言っても、身近で絵を存分に描ける部活はもうすぐ引退だけどねっ」
砕けた少女の表情に、紅が良く似合う。
「水面がね、今日もすごくきらきら光ってるでしょ?これを油絵で表現したら、どうなるかな」
海面は夕陽を反射して、無数の光の粒を散りばめる。
夕陽が強く、月灯りはまだ薄い。
「また、違った良さがあるのかな」
「うん。水彩みたいに流れないから、色がはっきりした厚みのある表現ができるんだって」
少女は手を動かしながら説明する。
その姿は、芸術への情熱が溢れていた。
「……うーん。やっぱ、新しいこと、始めようと思う。怖いけど......前に進まなきゃね」
「そっか、僕も応援するよ」
「ありがと。そう言ってくれると本当に心強いよ」
空が徐々に、黒く塗り潰される。
夏の終わりを告げるような、優しい光景。
「あっ、そうだ。土曜日の展示会、何時くる?」
少女は突然話題を変えた。
「まだ決めてないよ」
「そっ。私は十時から会場にいるから。見つけたら声かけてねっ!審査発表が午後からでさ......」
少女は少し照れくさそうにする。
笑顔が、薄暗い車内の空気を明るくする。
『次は〜「東立日」〜……』
アナウンスと共に、少女は立ち上がった。
夕暮れの光が少女のシルエットを縁取る。
「じゃあ、また明日」
「うん、また明日」
ドアが開き、少女は夕暮れの中へと消えていく。
新学期、慣れない空気感に食傷した風景。
余裕のある制服に浅く座った車両の席。
席に深く座り直せば、少し背筋を伸ばさせられる。
そんな僕は次の駅へと向かう電車の中で、静かに目を閉じた。
テッ、低浮上はお許しくださいっ……!




