37.評価とか、結果とか、才能とか。
八月、最後の日。
夏休み終了を惜しむ夕暮れの電車。
窓の外では、いつもの海が少し寂しげに光を反射している。
『次は〜「浜名台」〜……』
少女が飛び込んでくる。
「やっほー!」
少女は軽やかな足取りで隣に座った。
制服には美術部の活動を物語る、わずかな絵の具の跡。
「今日、海、見るよね」
少女の瞳には期待が輝いていた。
「そうだね。あの海」
「うん。夏の終わりに、あの場所でもう一度」
少女の声には、懐かしさと切なさが混ざり合う。
「いいよ。行こう」
僕の返事に、少女は嬉しそうに微笑んだ。
僕は少女の体温を肩肌に感じる。
『次は〜「音関海岸」〜……』
駅を出ると、潮の香りが風に乗って二人を包み込んだ。
少女は少し早足で歩き始める。
あの日、僕が少女の小さな手を引いて歩いた道。
群青は際立ち、臙脂は同化する。
碧空に唐紅染む、溟海が天道を具現する。
音関海浜公園へと続く小道は、時間が止まったように何も変わらなかった。
海に近づくと、夕陽が水平線に沈もうとしていた。
オレンジ色の光が波の上で踊っている。
僕は少女の手を引いていない。
「あの時と同じ。誰もいないね」
少女が笑顔で振り返る。
「夏、終わる気がしないな〜っ」
少女の少し伸びた髪が風にそよいで、金色に輝いていた。
あの日と同じように荷物を堤防に置き、靴と靴下を脱ぎ捨てる。
「ほら、行こう」
見蕩れる残陽、窄める瞼。
少女の背は陰る。
今度は少女が僕の手を取った。
「ほーら!行くよっ!」
乾いた温かい手のひらに、僕の手が温まる。
砂は二人の足を温めた。
潮風は生暖かかった。
波押し寄せる海岸、砂浜に腰を下ろす二人。
波が静かに寄せては返す音だけが、静かな海岸に響いていた。
街の喧騒から切り離された、二人だけの空間。
「私の独り言。気にしないで」
「うん」
海は足を濡らす。
夏の暑さを、海も感じるようだった。
薫る空気に、冷たく見えない何かが通り過ぎる。
それは優しく二人の頬を撫でた。
少女は目を瞑り、下唇を吸う。
「私、ここで泣いちゃったんだよね」
少女は波を見つめながら独り言。
「あの時は、絵が好きかどうか分からなくて......でも今は、ここに連れてきてもらってからはっきりと分かるの」
少女の顔を覗いた。
「私、絵が好き」
ニッと笑った横顔は、夕にぼんやりぼやける。
「結果、評価、関係ないの。絵は、私の心、同然」
少女、左手で砂を弄る。
陽と風に靡く髪。
「とゆーか、私を曝け出す手段、これしかないんだけどね」
ううん。あるだけ立派じゃん。
砂浜にはカニの小さな穴が。
あの日と同じように、二人はまた何かを見つけた。
「ねね、知ってる?カニは巣穴に帰るとき、同じ道を通るんだって」
足を長く伸ばす少女。
潮風は少し冷たくなり、波は少しずつ僕たちに近づいてきていた。
「あの日から、いろんな海の表情を描いてきたんだ」
遠くで砂埃が舞う。
「毎日同じように魅せる海は、毎日どこかの表情が違うの。海の中は季節が巡るごとに変わってるんだろうけど、それを私たちには悟らせない」
少女は砂浜に円を描いた。
「誰だって、何だって、隠したいことの一つや二つ、あるよね」
暫く海を眺め、少女は立ち上がる。
「ねぇ、ちょっと遊ぼうよ」
「うん。いいよ」
「じゃあ、砂浜に絵、描いてみよっ!」
空は次第に暗くなり、最初の星が空に瞬き始めていた。
ここに辿り着いてから、何時間話して遊んだのだろう。
夕凪はとっくに終わっている。
「……そろそろ帰ろうか」
座り込んでいる少女は名残惜しそうに立ち上がる。
砂を払い、洗い流す。
靴を履き、荷物を手に取る。
「うん......」
帰り道、来た道を戻る。
その二人の距離は、以前よりも近かった。
『まもなく到着いたします……』
丁度よく到着する電車に乗り込む。
帰りの電車の中で、少女は窓の外を眺めていた。
薄暗い蛍光灯。
いつもと時間が違う、同じ景色が僕らを照らしている。
「あのね」
少女は突然、小さな声で言った。
「ん?」
「実は......私の絵、コンクールの予選通ったんだ」
少女の瞳が、夕陽より明るく輝いた。
少女は意気込んだ表情に上目遣い。
驚いて少女を見る僕の目と合う。
「えっ?!おめでとっ」
「えへへ、ありがと。んでね、来週から市の展示会に飾られることになったの」
少女の声には、喜びと達成感が溢れていた。
「絶対見に行くよ」
「うん。見て欲しい」
少女は照れたように微笑んだ。
「この夏の思い出が、全部詰まってるから」
「そっか」
「それに私には、そう見えてたの。それを一番伝えたい人が、私の隣にいるから」
八月が、終わった。
4月、みんな忙しないですね。




