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車窓の海、揺られる君と。  作者: びすけ
夏至、梅雨、夏中。
34/42

33.天上のエトワール、見上げない花火

──ひゅ〜、どん。


 最初の花火は突如として暗黒の虚空を裂いた。


 僕は見上げない眩いその光に、一瞬まばたきをした。


 隣に座る少女は小さく息を呑む。


「わぁ...!」


 叫んだ。

 その声は頼りなく、夜風に溶けるように消えていった。


 僕らが腰掛ける団地の屋上は、世界から隔絶された小さな島。


 下界の喧騒は遠く、ただ花火の轟音だけが、この孤島に波打ち寄せる。


 二発目の花火は深き海の色をして、夜空に散り広がった。


 それはまるで天より降り注ぐ星屑の如く、儚くも美しい幻影を描き出す。


 少女の横顔を盗み見れば、瞳には蒼い光が幾千にも映り込み、小宇宙を形作っていた。


「見て!あれ、滝みたい!」


 少女の声に導かれ、すぐに僕は視線を少女から花火に。


 そこには黄金の光の帯が、夜の天蓋より零れ落ちていた。

 それは確かに、少女の言う通り、天上の滝のよう。


 その光は下の川面に映り、二つの世界が呼応するかのように輝いていた。


 少女は夢中。

 スケッチブックのことなど、疾うに忘れていた。


 鉛筆を握る彼女の指先は、止まっている。

 しかし、そんな花火に見惚れる乙女の姿は芸術に魅入られた巫女のよう。


 菊の花を模した花火は、紅白二色の環となって広がった。


 その二重の輪は、不思議なことに、僕と少女の心持をそのまま表しているかのよう。


「あっ、あれは牡丹だ!」


 少女の嬉しげな声に、僕の視線もまた横の花火へ。


 夜空には確かに、大輪の牡丹の花が咲き誇っていた。


 一瞬の命を持つ幻の花であり、次の瞬間には散ってしまう運命を背負っている。


 その儚さにこそ、この上ない美しさがあるのだ。


「光の花びら、雨みたい......」


 僕の言葉に、少女は無言で頷いた。


 どうしてもまた、あどけない少女の表情に吸い寄せられる。

 少女の頬には、花火の光が明滅し、その表情を浮かび上がらせる。


 スターマインは、まさに天変地異の如き光景。


 色とりどりの光が入り乱れ、静謐なる夜空を覆い尽くす。


 それは恰も宇宙の誕生の瞬間を目撃するかのような、壮大な光の交響楽。


「すごい......宇宙......」


 少女の言葉は、僕の心の内を言い当てていた。


 閃光は連続して夜空を彩り、暗闇を昼のごとく照らし出す。


 その瞬間的な美しさは、感覚の中にのみ存在し、記憶の中にしか保存できない。


 それを少女は必死に紙の上に定着させようとして、震えるかのように指先だけが疼いている。


 意思は感じるのに、手は動かない。


「ね......」


 少女の声は小さかった。


 花火の閃光に照らされた少女の横顔は、一枚の浮世絵のように美しく、そしてどこか物悲しかった。


「この花火、ここで見れてよかったっ」


 この瞬間、この場所で、二人だけで見る花火─—それは確かに、この世のどこにも存在しない、唯一無二の体験。


 フィナーレを告げる最後の一発が、轟音と共に空高く昇った。


 それは夜空全体を覆い尽くす巨大な光の花となり、一瞬、遍く天井の星々の輝きをも凌駕した。


 やがて最後の花火の残像も消え失せ、世界は再び静寂に包まれた。


 賑やかな人々の声も、遠くへと退いていく。


「終わっちゃったね......」


 少女の声には、微かな寂寥感が宿っていた。


 しかし彼女の瞳には、まだ花火の幻影が残っていることだろう。


 少女は満足そうに、何も描かれていないスケッチブックを胸に抱いていた。


 僕らの眼下に広がる海は、再び本来の静けさを取り戻していた。


 ついさっきまでは花火の彩りに染まっていた水面も、今は月の光を湛えてただ静かに揺れるのみ。


「ね、見て」


 僕が指し示した先に、少女は目を向けた。


 遥か遠くの水平線では、星々が海と交わり、小さな光の粒となって瞬く。


「なんか、消えない花火みたいだねっ」


 少女の言葉。


 一瞬の煌めきも、永遠の光も、共に夜空を彩るかけがえのないもの。


「じゃ、帰ろか」


 僕の言葉に、少女は無言で頷く。


 僕たちは名残惜しげに、この天上の舞台を後にした。


 階段を降りながら、少女はスケッチブックを開き、白い両面を見つめていた。


「夢中で、描けなかったや」


 暗闇にぼやける、少女のとろけた笑顔。


 少女の眼差しには、今宵の記憶が色濃く刻み込まれていることだろう。


「……今日の花火、僕も忘れないよ」


 賑やかな月照らす海。

 僕らの心は、夏模様。

 川越、行ってきます。

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