33.天上のエトワール、見上げない花火
──ひゅ〜、どん。
最初の花火は突如として暗黒の虚空を裂いた。
僕は見上げない眩いその光に、一瞬まばたきをした。
隣に座る少女は小さく息を呑む。
「わぁ...!」
叫んだ。
その声は頼りなく、夜風に溶けるように消えていった。
僕らが腰掛ける団地の屋上は、世界から隔絶された小さな島。
下界の喧騒は遠く、ただ花火の轟音だけが、この孤島に波打ち寄せる。
二発目の花火は深き海の色をして、夜空に散り広がった。
それはまるで天より降り注ぐ星屑の如く、儚くも美しい幻影を描き出す。
少女の横顔を盗み見れば、瞳には蒼い光が幾千にも映り込み、小宇宙を形作っていた。
「見て!あれ、滝みたい!」
少女の声に導かれ、すぐに僕は視線を少女から花火に。
そこには黄金の光の帯が、夜の天蓋より零れ落ちていた。
それは確かに、少女の言う通り、天上の滝のよう。
その光は下の川面に映り、二つの世界が呼応するかのように輝いていた。
少女は夢中。
スケッチブックのことなど、疾うに忘れていた。
鉛筆を握る彼女の指先は、止まっている。
しかし、そんな花火に見惚れる乙女の姿は芸術に魅入られた巫女のよう。
菊の花を模した花火は、紅白二色の環となって広がった。
その二重の輪は、不思議なことに、僕と少女の心持をそのまま表しているかのよう。
「あっ、あれは牡丹だ!」
少女の嬉しげな声に、僕の視線もまた横の花火へ。
夜空には確かに、大輪の牡丹の花が咲き誇っていた。
一瞬の命を持つ幻の花であり、次の瞬間には散ってしまう運命を背負っている。
その儚さにこそ、この上ない美しさがあるのだ。
「光の花びら、雨みたい......」
僕の言葉に、少女は無言で頷いた。
どうしてもまた、あどけない少女の表情に吸い寄せられる。
少女の頬には、花火の光が明滅し、その表情を浮かび上がらせる。
スターマインは、まさに天変地異の如き光景。
色とりどりの光が入り乱れ、静謐なる夜空を覆い尽くす。
それは恰も宇宙の誕生の瞬間を目撃するかのような、壮大な光の交響楽。
「すごい......宇宙......」
少女の言葉は、僕の心の内を言い当てていた。
閃光は連続して夜空を彩り、暗闇を昼のごとく照らし出す。
その瞬間的な美しさは、感覚の中にのみ存在し、記憶の中にしか保存できない。
それを少女は必死に紙の上に定着させようとして、震えるかのように指先だけが疼いている。
意思は感じるのに、手は動かない。
「ね......」
少女の声は小さかった。
花火の閃光に照らされた少女の横顔は、一枚の浮世絵のように美しく、そしてどこか物悲しかった。
「この花火、ここで見れてよかったっ」
この瞬間、この場所で、二人だけで見る花火─—それは確かに、この世のどこにも存在しない、唯一無二の体験。
フィナーレを告げる最後の一発が、轟音と共に空高く昇った。
それは夜空全体を覆い尽くす巨大な光の花となり、一瞬、遍く天井の星々の輝きをも凌駕した。
やがて最後の花火の残像も消え失せ、世界は再び静寂に包まれた。
賑やかな人々の声も、遠くへと退いていく。
「終わっちゃったね......」
少女の声には、微かな寂寥感が宿っていた。
しかし彼女の瞳には、まだ花火の幻影が残っていることだろう。
少女は満足そうに、何も描かれていないスケッチブックを胸に抱いていた。
僕らの眼下に広がる海は、再び本来の静けさを取り戻していた。
ついさっきまでは花火の彩りに染まっていた水面も、今は月の光を湛えてただ静かに揺れるのみ。
「ね、見て」
僕が指し示した先に、少女は目を向けた。
遥か遠くの水平線では、星々が海と交わり、小さな光の粒となって瞬く。
「なんか、消えない花火みたいだねっ」
少女の言葉。
一瞬の煌めきも、永遠の光も、共に夜空を彩るかけがえのないもの。
「じゃ、帰ろか」
僕の言葉に、少女は無言で頷く。
僕たちは名残惜しげに、この天上の舞台を後にした。
階段を降りながら、少女はスケッチブックを開き、白い両面を見つめていた。
「夢中で、描けなかったや」
暗闇にぼやける、少女のとろけた笑顔。
少女の眼差しには、今宵の記憶が色濃く刻み込まれていることだろう。
「……今日の花火、僕も忘れないよ」
賑やかな月照らす海。
僕らの心は、夏模様。
川越、行ってきます。




