第一話
クルクルと、殺事典的な回転で青空にライフルが飛んでいく。
その光景を仰向けに眺めながら、僕は幼いころに飛ばした竹とんぼを思い出した。
何度か飛ばして、最後は太陽に吸い込まれるようにどこかへ飛んで行ってしまった。探そうとしたが、その前に家に連れ戻され、蔵に叩き込まれてしまったから、結局、手元に戻ることはなかった……。
ならば、あのライフルはどこまで飛んでいくのか。そう思って果てを見届けようと、首を巡らせるが、わずか視線が持ち上がる程度にしか動かない。どうしたことかと考えを巡らせる間もなく、ライフルはいずこかへと消え去った。青空が占める視界の端々に立つ影が僕を見下ろす。それは死体に群がるハゲタカの不気味さがあった。
はて。それで、僕はここで何をしているのかな?と、振り返ってみるが、ぬるま湯に浸かったような思考回路では答えは出ない。手足にも力が入らず、本当にお風呂にでも入っているような感覚だった。
『正太郎』
錯覚に浸かる思考回路を現実に引き戻す声。弾かれたように周囲を見回すが、姿はない。当然だった。声の主の中に、僕はいるのだから。
それを思い出した途端、ぼんやりとしていた視界が輪郭を取り戻す。見えてきたのは青空ではない。手の届く、僕自身の視点だ。
まず目に飛び込んできたのは両腕に装着された、白い手甲。掌を返すと、手首から伸びたアームの先に取り付けられた赤い球体が収まっていた。足にも同じように、膝までを覆う白い脛当てが装着されていた。そうだ。僕はこれで、彼を操る。彼と戦う。
まるで歯車に挟まっていた異物が取れたように、思考の回転速度が上がり、それに伴って視界が広がる。周囲を見る。
半球型をした空間の真ん中に据えられたシートに僕は座っていた。僕を中心として扇形のコンソールが青白い輪郭を帯びて浮かんでいる。不意に頭部に重み——HUDに意識を向けると、視界、いや、視点が変わった。
さっきまで見ていた青空が視界に飛び込む。今度は明瞭に、流れる雲の形も見て取れた。周りに見えた影は今にも崩れそうな廃ビル。幽霊などでは勿論なかった。死体という点では、近い部分があるかもしれないが、それは僕たちも同じだった。
崩れかけのビルの一つに視線を移す。かろうじて半数が残ったガラス張りのビル、そこに黒い巨人が映り込んでいた。
全高30メートルを超える人間など、いるはずもない。これはロボットだ。いや、この表現は厳密ではない。これは『ギア』と呼称される生物——巨人型機械生命体だ。
漆黒の『ギア』は尻もちをついたような格好で、四車線道路を占拠していた。
僕の愛機であり、相棒。機体名を【ガンウルフ】
機動性を求めて軽量化した機体は全体的に細身だが、両前腕部だけ、体に対し、異様に肥大して見えた。左手に巨大な黒のハンドガンを握り、装甲は頭の天辺から爪先まで、銃と同様の黒に塗装され、唯一の例外は狼を模してデザインされた頭部に装着された、顔面部を覆うバイザーの縁を金色が飾る程度。あまり洒落っ気があるとは思えないが、よく言えば、実用性を突き詰めた特殊部隊の戦闘服のようにも見えただろう。
けれど、今やその表現も当てはまらない。本機はまさに死に体だった。
全身を固める装甲の漆黒は至る所が破損し、そこから、まるで血のように火花が爆ぜていた。特に酷いのは装甲が剥がれ、内部フレームを露出させた左脚部。金属の骨格関節がねじれ、肘から先の稼働不能となった左腕部。円形の窪みがつけられた胸部装甲はVの字型に歪み、亀裂の隙間から綺麗な赤い光が漏れ出ていた。
大層に言うならば、歴戦の兵。皮肉を言えば、狼を模した頭部デザインと相まって、死にかけの犬である。——笑えない。
僕は視点を再びコックピットに戻した。明滅する赤色が、目に痛い。コックピットの正面に据えられたスクリーンに機体状況が、簡略化された機体のグラフィックモデルで示されていた。コックピットを埋める色と同じ赤で、左足、左腕、胸が危険を訴え、明滅する。他にも様々な表示で、いかに危険な状態であるかを伝えているが、要は……。
「手酷くやられてる」
『それは君が気絶する前からだ。今はもっと状況が悪い』
姿なき声——この機体そのものである戦闘AI〈クロガネ〉の微かな非難を込めた返答。同時にコックピットの正面に据えられたスクリーンに、機体状況映像を映した。
「うげ」
ゲップみたいな、下品な声が漏れた。あるいは生理的な嫌悪を覚えて、本当にゲップをしたのかもしれない。
交差点二つを挟んだ十字路の中心——腹立たしい程に堂々と、そいつは立っていた。
ガンウルフが特殊部隊の戦闘員ならば、目の前の相手は騎士だった。
機体名【グレートオーガ】 パイロット名は【ミヤビ】
中世の鎧を模した、優美な曲線を描く白銀の装甲に、背中には赤い外套。右手にガンウルフの胸部を凹ませてくれた大槌を携え、頭部からは片刃の剣が機体名通り、鬼の角のように装着されていた。
僕たちにとっては因縁浅からぬ相手。仇敵、あるいはライバルと呼んでもいい。
「クロガネ、僕はどのくらい気絶していた?」
『およそ二秒だ。射撃の隙を突かれ、グレートオーガの突進により、転倒。そして、今だ』
二秒。グレートオーガからすれば、それだけで二回はこちらを殺せただろう。そうなってはいなかったのは、それがヤツ——ミヤビのスタイルだからだ。
機体デザインの通り、奴は騎士なのだ。礼節を重んじ、正々堂々を旨とする。卑怯な真似は決して行わない。恐らく、奴にとっても、僕が気絶した約二秒は本意ならざるものだったのだろう。そうでなければ、その手に携えた大槌による必殺の一撃がガンウルフの頭部を柘榴のように潰されていたに違いない。だが、そうはならなかった。
本来ならば、パイロットが気絶することなど有り得ないのだ。
しかし、事実は事実と、僕は思考を切り替えた。こちらの態勢が整うまでは向こうは絶対に手を出してこない。それは確実と言えた。僕たちにとって有難いことではあるが、同時にプライドも刺激される。鋭さを失った針で突かれているような、要するに——
「馬鹿にされてる気分だ」
『言うな、正太郎。すべては我らの未熟さ故。逆に言えば、成長の時だ』
「君はいつだって前向きだ」
苦笑を混ぜた声を返しつつ、左掌内に収まった赤い球体——コントロールボールを握り、操作。指の動きに反応し、スクリーンが切り替わる。詳細な機体情報。破損個所と、それに伴う各部位の状況が映し出された。
『機体稼働率四八% 機動性は通常時の三割程度。全力で動けるのはおよそ……』
「二五秒、か」
いや、例え全力稼働可能時間が一分あったとしても、果たして何が出来るのか。自問は諦めの沼に沈み、起死回生を叫ぶ闘争心が萎んでいくのを自覚する。だが、否と叫ぶ声があった。僕の内からではない。電子合成された、相棒の声が諦めの境地に踏み出す肩を掴んだ。
『そうだ。二五秒だ。正確に言えば、最初の一〇秒で勝機を掴まなければ勝利はない』
まるでカレンダーの予定でも読み上げるみたいに、悲観も楽観もなく、こともなげに〈クロガネ〉は言った。そう、僕の相棒はどんな時でも決して諦めない。そして、嘘も言わない。だから、彼が勝機有りと言うなら、それは本当のことなのだ。
諦めに緩みかけたコントロールボールを握る手に力を込める。視点が僕からガンウルフに、コックピットからグレートオーガが睨みつけてくる、野外へと変わった。
思考を読み取り、手足に装着されたコントロールセンサーが僕の意を汲み取り、機体へ出力。巨大な手が火花を垂らしながら、半壊のビルに手を懸ける。重量をかければ途端に崩れるであろうビルだが、今は壊れないことを祈って、ゆっくりと、少しずつ機体を立ちあげる。
その間も、グレートオーガは動かない。生まれたての小鹿より弱弱しい有様を銀の騎士はどのような感情で見ているのだろうか。嘲笑か、軽蔑か。いずれにせよ、その信念はせめてこちらが立ち上がるまでは貫いていてほしいものだけど——と、そこで妙案と呼ぶにはあまりに博打な案が浮かんだ。
「クロガネ、リボルナックルはまだ使える?」
『右はまだ使える。だが、左は破損が酷い。装甲が歪んで、ハンドガンを取り出すことさえ不可能だ』
リボルナックルとは、ガンウルフの両前腕部に内蔵された武装のことだ。今は右手に握ったハンドガンを前腕装甲内に収め、打撃で敵の装甲を砕くと同時、手の甲の銃口から弾丸を打ち出し、敵装甲内部をも破壊するという代物だ。ステータス表示を見ると、確かに左腕は危険な状態にある。だが、
「確認だけど、左は、使えなくはないんだよな?」
『——ああ、一度だけならば使用は可能だ』
一拍の間を置いて〈クロガネ〉は肯定した。僕の狙いに気づいたのだろう。顔は見えずとも、その声には剣呑な笑みを含んだ感情が聴き取れた。
——たっぷり一分。ようやくガンウルフはグレートオーガと同じ目線に立つ。その間に、僕と〈クロガネ〉は作戦を練り上げた。作戦と呼べるほど立派な代物ではない。だが、決まれば一発逆転打。
〈クロガネ〉いわく、成功の確率は三割を切るらしいけど。
「泣けてくるような状況だね」
『いいや、嵐の前こそ笑って進むべきだ』
ああ、いつだって相棒は前向きだ。僕はため息を吐きながら、心の中で同意する。後ろを向いても、何もありはしないのだ。
カウント開始、二五秒——
開幕の合図は、ガンウルフが切った。
ガンウルフの右前腕部が展開し、内部からスライドしてきたハンドガンが掌に収まった。前腕装甲が再び閉じようとした瞬間、グレートオーガの脚部スラスターから青い炎が噴き出し、残像すらかき消すように、急加速。彼我の距離三〇〇メートルを瞬きほどの速さで潰し、ガンウルフの目前で大槌を振り上げた。
破滅の一撃に対し、正太郎たちは笑った。やはり、来たと。
機動性を失ったガンウルフにグレートオーガとの接近戦は不可能。それをミヤビは見抜いていたが、安全圏から遠距離攻撃でトドメを刺すような真似はしない。それを正太郎もまた知っていた。だから、笑った。相も変らぬ、愚直さに、うれしさを覚えて。
ライバルの意気に、正太郎も応えんと、固く左のコントロールボールを握った。それはそのままガンウルフに出力され、巨大な拳が軋むような音を立て、手の甲からスパイクが飛び出した。同時に左前腕に内蔵された武装が起動。拳に弾丸が装てんされる。
グレートオーガが大槌を振り下ろす。対し、あろうことか、ガンウルフは左拳を振り上げた。
ぶつかり合う大槌と、壊れかけの拳。瞬間、衝突の中心で大爆発が巻き起こった。
衝撃が廃墟の街を震わせ、黒煙が両機を包んだ。爆音の波が空気を震わせる中、転がるようにガンウルフが黒煙から飛び出した。その左腕は肘から下が欠損し、流血のように火花とオイルが噴き出しているが、完全停止には至らない。その背後で、グレートオーガが大槌を振るい、黒煙を振り払う姿を後方カメラがとらえた。
満身創痍に刻一刻と近づきつつあるガンウルフとは異なり、微塵の不具合もないように見えたが、さもありなん。繰り出したリボルナックルは弾丸を発射することなく、装甲の歪みによって左腕内部で暴発したのだ。損傷を与えられるはずもない。
だが、おかげで時間は稼げた。
衝撃は全身に及び、稼働率は更に下がっていた。しかし、正太郎も、ガンウルフも綺麗な勝ち方は望んでいなかった。あくまで最終的な勝利をつかみ取るため、自爆覚悟でも時間稼ぎが必要だった。
相打ちによる損耗で、カウントは更に五秒減る。残り一八秒——
崩れそうになる膝関節に鞭を打ち、踵部のキャタピラでアスファルトを削りながら、ガンウルフが駆ける。目的地まではおよそ五〇〇メートル。本来の機動性なら、数秒の距離。それが今は遠い。
背後でグレートオーガが再びブースターを噴かせ、急加速。後方カメラの映像に、白銀の巨躯が拡大される。
『来るぞ、正太郎!』
「わかってらぁ!」
相棒の警告と同時、コントロールボールを操作。ガンウルフの腰部に装着された円盤が、火花を散らして離脱した。加速する本体から中空に置き去りにされ、重力に引き落とされる間際、ガンウルフが右のハンドガンを後方に向けて発砲。ガンウルフのサポートによって照準補正された弾丸が宙に舞う円盤を打ち抜いた瞬間、無数の閃光が周囲に走り、周囲のビル群に亀裂を走らせた。
注意深く観察したならば、陽光を反射し煌めく細い光がまるで蜘蛛の巣のように、ビルの谷間に張り巡らされたのが見えただろう。それが鋼鉄で編まれたワイヤーだということも。
グレートオーガもその正体を看破したが、爆発的な加速を瞬時に殺すことなど不可能だった。結果、ワイヤーの巣に激突し、周囲のビルが崩落。白銀の巨躯は瓦礫に飲み込まれた。
その間に、ガンウルフは目的の場所へたどり着いた。稼働限界可能時間残り五秒——
『上手くいったな。正太郎が諦めなかった成果だ』
率直な誉め言葉に照れ笑いを返しながら、正太郎はそれに手を伸ばした。
グレートオーガが瓦礫を押しのけ、立ち上がる。損傷はおろか、動作には微塵の障害もなかった。
兜の奥でカメラアイが赤く光り、周囲を探るように首を巡らす。目視の範囲にガンウルフの姿はないが、道路にはキャタピラの跡が十字路を二つ超えたビルの陰へと続いているのが見えた。それを赤い目が追う。次の行動は早かった。
屈辱を受けたことによる怒りか、先ほどまでの倍以上の速さでグレートオーガは加速する。ビルの陰に潜むならば、ビルごと叩き潰さんと、爆発的な推進力と共に大槌を振り下ろさんと、間合いに入ると同時に必殺の武器を振り上げ——
ビルをぶち抜いて飛び出したライフルの銃口が、火を噴く瞬間を見た。
『今だ、正太郎!』
〈クロガネ〉が叫んだ。
計算によって導かれたタイミングに従い、ガンウルフが残った右腕でライフルを正面のビルへ、槍のように突き刺した。
銃口がビルを貫き、引き金を絞る瞬間、正太郎が吼えた。
雷鳴のような銃声と、発砲の衝撃がビルを震わせ、貫かれた場所から折れるように崩れていく。
ビルの向こうにいたはずのグレートオーガの姿はまだ確認できない。濛々と巻き上がる砂塵が、視界を奪っていた。
正太郎と〈クロガネ〉の狙いがこの長距離狙撃用ライフルだった。
本来の作戦はこのライフルを用いて、グレートオーガを狙撃する予定だったのだ。しかし、想定以上にグレートオーガの機動性が高く、また、これまでの経験から正太郎の性格を読み切られたか、悉く狙撃地点も見抜かれてしまい、追い詰められる結果になってしまった。
正太郎も、〈クロガネ〉も、互いに追及はしないが、正太郎自身の狙撃練度の低さもその一因ではあった。
いずれにせよ、作戦の肝たるライフルは、ガンウルフの手を離れた。しかし、その位置は〈クロガネ〉が把握していたことで、二人は起死回生の一手をこのライフルに求めた。片腕を失ったことで反動を抑えることは不可能。それも想定内。だからこそ、ビルをぶち抜き、固定砲座の代用とした。
稼働限界時間はすでに過ぎ、これ以上の戦闘は不可能。かろうじて起動状態を保つ、満身創痍。〈クロガネ〉のタイミングが正しければ、虚を突かれたグレートオーガは飛び出たライフルの弾丸を零距離で味わう羽目になるはずだが……。
その時、フッと影が差す。巻き上がる砂塵に光が遮られたか? いや、違う!
「『上!』」
二人同時に叫ぶが、遅い。
陽光を背に、宙を舞う白銀の騎士が振り上げた大槌を稲妻の速さで、振り下ろす。
グシャリ——と、鋼のひしゃげる音が聞こえた。
暗転。あれほど目に痛かった赤色が消え、視界が暗闇に覆われる。
だが、それも一瞬。目の前に【YOU LOSE】の文字が飛び出すと、大槌を高々と掲げ、勝利ポーズを決めたグレートオーガが姿を現した。
「だぁー、ちくしょう! また、負けた! これで五三戦二五勝二八敗だよ!」
『違うな。五三戦二四勝二九敗だ』
「どっちでもいいよ、今は今の負けに、僕は腹立ってんだ!」
我ながら子供じみたことを叫びながら、僕は天を仰いだ。頭を振った拍子に、HUDが音を立てて床に転がる。廃墟街ではない、低い天井が視界に飛び込んだ。
両手を広げた程度の、狭い、半球状の空間だ。僕が座るシートはその中心。周りには何もない。正面に変わらぬ姿勢で勝利をアピールするグレートオーガが表示されたスクリーンと、その横に携帯端末が据えられているだけで、あとは真っ白な床と壁。さきほどまであったコンソールも消えていた。
「やっぱり、慣れない長距離ライフルなんて使わず、いつもの戦法でいった方がよかったのかな?」
『新しいことにチャレンジするのは、悪いことではないさ。結果が常に伴うとは限らないがね』
本人はフォローしているつもりなのだろう。前向き過ぎて、後ろを置き去りにしがちなのがクロガネの玉に瑕だ。
「慰めてくれてどうも」
皮肉と本心を五分に混ぜて返しながら、手甲と脛当てを外す。それを感知し、シートの肘当てと足を置いていた床が開き、手甲と脛当てが自動的に収納された。
苦笑するようなため息を漏らしながらも、ガンウルフは言葉をつづけた。
『それに、全く手も足も出なかったわけじゃない。実際、戦闘フィールドが市街地でさえなければ、もう少しうまく戦えていた。後は練度不足を訓練で補えばいい』
「うまく戦えていた、ね」
ネガティブな響きを含んだ呟きが、口内でくぐもる。クロガネには聴こえていない。相棒が前向きな分、僕は後ろ向きだった。環境のせいにしたくはないので、もって生まれた性格と思ってはいるが、やっぱり環境もあるだろう。良い所よりも、悪い所が目に付く。だから、僕たちは丁度いいのだ。
「でもさ——」
そう、今回の反省会をしようと口を開きかけた時、シートの背中で空気の抜けるような音が響き、次いでクロガネとは別の、男性の声が飛び込んできた。
「いい加減に出て来い、正太郎。店、開ける時間だぞ」
しゃがれた——酒とたばこが原因の聞きなれた声に振り向くと、正彦おじさんがこちらを覗いていた。口元には禁煙用のパイポ。カリカリと小刻みに動いているあたり、禁煙二日目あたりだろうか。
「おじさん、今度で何回目の禁煙挑戦?」
「三八回目だ。……子供がいちいち、大人の趣味に口出ししないの」
『だが、喫煙は周囲の人間にこそ、害が及ぶ。私としても、正太郎の健康を守るため、保護者である君の禁煙成功することを祈っているよ』
人工知能の言葉に口角を片方上げて、おじさんは黙った。決して愉快だから、という理由ではなさそうだ。
「わかってるよ、クロガネさん。いいから、ほら、俺の禁煙事情はいいから、店を開けるよ。正太郎、シャッター開けてきて。俺は……バックヤードいるからさ」
そう言って、おじさんは壁の外に消えた。俺と、恐らくクロガネも逃げたな、と思ったけど、口には出さなかった。たぶん、明後日辺りには喫煙所でマズそうな顔で煙草をくわえているだろう。
スクリーン脇の端末を取り出し、時刻を確認する。AM九時五二分。開店準備には少し出遅れた。きっと対戦が終わるのを待ってくれていたのだろう。気遣ってもらった分、急がなくちゃ。
『正太郎、忘れ物はないようにな』
「わかってるよ。そもそも、そんなに持ち込んでない」
クロガネの声は、携帯端末からだった。端末の画面には銃をかみ砕く狼のエンブレムが浮かんでいる。筐体のネットワークから外れ、携帯端末に戻ってきたのだ。
一応、忘れ物がないか見回した後、半球状の筐体から頭をぶつけないように抜け出す。と、真っ暗な空間に出た。目を細めれば、大小さまざまなゲーム筐体が暗闇に輪郭を浮かばせているのが見える。
所狭しと並べられた機械群が暗闇に浮かぶ様は圧迫感すら覚えるが、それもつかの間。天井の照明が闇を払しょくし、視界が開けた。同時に、ゲーム筐体がそれぞれ自己を主張する電子音を奏で、それが無数に重なり合うことで、決して上等とは言えない音楽を響かせる。
ここはおじさんが経営するゲームセンターだ。置いてあるゲームは主におじさんの趣味で対戦物が大半。オーソドックスな格闘ゲームから、パズルゲームまで、個人の好みを大いに取りそろえたラインナップだが、この店の一番の目玉は僕が先ほどまでやっていたゲームだ。
いや、世界的な、と言う方がふさわしいだろう。
僕が先ほど出てきた筐体——球体上のそれは全部で五つ。店の中央に円陣を描くようにして配置され、天井には店のどこからでも見えるようにと設置された、筐体と同じ数の大型モニターが設置されていた。
モニターには『GEAR』という文字が浮かび、その後ろでライオンのような鬣を備えた、黄金のギアが両手に備えた巨大な爪を振りかざすプロモーション映像が流れていた。
唐突に、手の中の端末が震えた。
『正太郎、メッセージだ』
「誰から?」
『ミヤビだ』
油の切れかけたゼンマイ人形のように、動きが鈍る。鏡があれば、苦虫を嚙んだような顔の僕が見えることだろう。
『どうする? 無視するか?』
クロガネの言葉は、僕への気遣いだろう。本来の彼なら、どのような連絡であれ、無視を許すような性格ではない。それをわかっているからこそ、僕はクロガネの提案に首を振った。
相棒が、画面にメッセージを表示させる。
〈新戦術、堪能させてもらった。技能の向上、そして、次戦を期待する〉
何を上から目線で言ってくれやがる——とは思いつつも、胸に沈んだ敗北感が口を閉ざさせた。敗者に口なし。負けた以上、どう思おうが受け入れなくてはならない。けれど、頭ではそう思っていても、僕は早速、メッセージを見たことを激しく後悔した。
『悔しいな、正太郎』
クロガネの言葉は、きっと独り言だったのだろう。同情でも、共感でもないその言葉は、だからこそ、限りないクロガネの本心。固くなった心が緩み、口からつい、言葉が出る。きっと、これも僕の本心。
「ああ、悔しいな」
『練度不足の指摘は正しい。加えて、さっきも言ったように場所が悪かった』
「地理的条件に左右されないレベルを持っているわけでもなければ、練習不足を補える場所に当たるだけの運もなかったってわけか」
『悲観すべきことだけでもない。我々には上を目指す余地があるということだ』
「君はいつだって前向きだ」
もう何度この言葉を口にしてきただろう。その度に、僕はクロガネに心を救われてきた。
『兎にも角にも、重要なのは反復練習だ。次の対戦イベントまでは時間もある。その間に対人戦を含め、シミュレーションを行うべきだろう』
「そうだね。今回、たまたまスナイパーライフルをゲットできたから、ミヤビの度肝を抜いてやろうと使ってみたけど、昔少し触って程度で扱えるようなものでもなかったし」
『我々の基本戦術である中近接戦とはかけ離れた武装だ。慣れないのは仕方ない。けれど、度肝を抜くという点では、開幕の一発にはグレートオーガも動揺しているようには見えたぞ。肝要なのは適切な距離を保ち、いかに見つからないように動き続けるかで——』
「二人とも~、反省会もいいけど、いい加減、シャッター開けろ」
筐体の向こうから、おじさんが呆れたような声をかけてきた。時計は九時五八分。ギリギリの時間だ。
慌てて、筐体の間をすり抜け、入り口に向かう。個人経営の小規模店舗ながら、おじさんの店はゲームの幅が広い。最新から、往年の名作レトロゲーまで揃え、客層も様々。マニアからライト層まで楽しめる店となっているが、おかげで通路は非常に狭く、客が混んできたときには譲り合いの精神をもたなければならない。対戦ゲームで白熱した気持ちのまま、どうぞどうぞと互いに気遣うことが出来るような、上等な人間ばかりが来る場所ではないけど。もちろん、僕も含めてだ。
シャッターに手をかけ、腿に力を入れて、持ち上げる。これが中々に重く、固い。油の切れたような、金切り音を響かせ、たっぷり一分をかけてシャッターを開いた。いい加減、自動化にしてもらいたいものだけど、そんな金があれば、おじさんは新しい筐体を仕入れるのだろう。従業員のはかない望みだ。
外はよく晴れた、春らしい晴天だった。雲はなく、水色の空に光の輪を伸ばして、太陽が存在を燦燦と主張していた。
その恩恵にあやかろうと、外に出る。途端、風が僕の脇をすり抜け、店内に流れ込んだ。少しの湿り気を帯びた春の風は肌寒さを覚えるが、太陽の光が見えざる毛布のように体を包んで、温もりをくれる。外的要因であるはずの熱は、内側からの熱も呼び覚ましてくれたようで、全身に流れる血液が熱くなるような気がした。
思わず大きく伸びをしていると、妙に視線を感じて、視線を周囲に移す。道行く人々——仕事か、買い物途中か。とにかく何かかしかの目的をもって歩く人の数人が奇異な目でこちらを見ていた。
その大半はこちらが視線を向けると、自然を装った風に視線を逸らす。きっと彼らはこう思っているのだろう。若い者が昼間から学校にも行かず、何をしているのか? と。
問われたならば、「労働です」と真っ向から答えるつもりだけど、彼らはそんなことをしないだろう。手が届かない場所からヤジを飛ばす。それが遠い他人との円滑なコミュニケーションであり、楽なストレス解消法だ。
蔑むような視線の群れから慌ただしく、数人の、僕と同年代らしき若者たちが飛び出した。
揃いの学ランを着込んだ彼らは息を切らしながら、通行人の間をぶつからないよう、四苦八苦しながら、走っていく。この時間だ。恐らく、遅刻だろうが、彼らは時間に抗うことが可能だとでも言うように、足を動かしていた。息を切らし、汗を流しながら、それでも笑って。
彼らの背中を視線で追いながら、やがて雑踏の中へ埋もれていくのを見て、僕は視線を切った。気づけば、僕を見る奇異や蔑みの視線も消えていた。
『羨ましいと、思ったのか?』
その問いは、相棒にしてはやや躊躇いを含んだ声だった。
「まさか。羨むほど、楽しい生活じゃなかった。わかってるでしょ?」
『…そうか。そうだな』
僕は本心を言ったつもりだった。でも、クロガネは自分に言い聞かせるように、僕の言葉を飲み込んでいた。何も、クロガネが責任を感じる必要なんてないのに。そう思ったから、僕は彼が感じる必要のない罪悪感の沼に沈む前に、話題を変えることにした。
「次のイベントはいつだっけ?」
『ああ……一週間後だ。ランク問わずの、参加者全員でのバトルロワイヤル方式。優勝者にはワンオフのアイテムが与えられるらしい』
「へー、ワンオフか。それは是非、欲しい所だけど、現状は厳しいかな?」
『戦略次第だろう。例えば、他の参加者と手を組めば、生き残る確率は上がる』
「ああ。背中に目があればね」
『君の背中には、私がいるさ』
うれしい一言だ。前向きなクロガネが戻ってきた。
入口の端に、放置するように置いてあった箒と塵取りを手にして、日課の掃除をする。手は動かすが、それ以上に口が動いた。
「装備は元に戻そう。ランク問わずのサバイバルで、にわか戦法が通じるとは思えない」
『戻すのではなく、アップグレートが望ましいな。〈ガンウルフ〉の基本装備は二挺のハンドガンとアサルトライフルだが、ライフルのオプションパーツを買い足して調整しよう』
「賛成だね。あと、サブウェポンも充実させよう。確か、この前のアップデートでワイヤー式の——」
と、そこまで口にしたところで、端末が震えた。画面に一件のメッセージ。
【今夜十二時、『GEAR』荒野フィールドB21で待つ】
送信者の欄に名前はなく、ただ、その一文だけが添えられていた。
「誰からだ?」
『なんだ、これは?』
僕たちは同時に、同じ疑問を抱いた。内容は理解できるが、意味は分からない。
要するに、対戦要請のメッセージ。だが、僕が十二時以降にもゲームをプレイできる環境にあると知っているのか、それとも、一種の迷惑メールか。けれど、クロガネのフィルターを通ってきたということは、その類ではないはずだった。だからこそ、クロガネも疑問を口にしたのだろう。
怪しいことこの上なく、黙殺しても、問題はない。ないのだが、どうも気にはなる。
『行ってみるか、正太郎?』
それはクロガネも同じだったらしい。不確定な状況に際し、慎重の盾を構える相棒は意外にも乗り気な言葉を口にしていた。
たぶん、公式からのシークレットイベントか、あるいはプロモーションだろう。クロガネもそう思ったかは分からないが、僕も気になってはいるのだ。相棒がその気になっているのなら、断る理由もなかった。
今夜十二時。何が起こるのか、楽しみだ。
風が吹いた。春を告げるというには、少し乱暴な風だ。