もう一人のわたし
こういう考え方もあるんだなぐらいの感じで読んでいただけたら嬉しいです。
夜。
なかなか寝付けない日、よくあの頃のことを思い出していた。それは中学生の時だ。
自分の性に対して違和感を覚え始めたのは中学生の頃からだろうか。最初は女装という世界があることを知って、『女装をしてみたい』という動機からだった。それが次第に広がっていき『女性になりたい』に変わり、いや、やっぱり違うかな、いや、違くないかもと言うのをお風呂の中、胸部、乳首を触りながら日々行き来していた。少し経った頃には女装という世界から自分の性に対して違和感を持つというのはあまり良くない流れなのでは、そういったものは生まれた時に感じる違和感が正当であり、こんな僕は間違っているのではと自分を責めることもあった。自分はただ女装をしたいだけなのか、いやそれだけではないのではと悩む中途半端な自分。そんな中途半端な自分が、中学生の頃は嫌いだった。
そんな小さな僕の小さな世界に光が差した。
遅くはなったが大学生になってLGBTの続き、Q+を知った、性はグラデーションのように変化していっても良いことを知った。そして、自分にとって腑に落ちた考え方があった。それは、クエスチョニングという自身の性について定まっていない、または定めないという立場をとる考え方だった。
でも、そんな考え方を何となく、だんだんと思えるようになったからと言っても悩みがきれいさっぱりなくなることは無くて、ふと訪れる記入欄『男・女』について悩むこともあったりした。
時々悩むことはあるけれど、これはこれからも続いていって、でもそんな悩みに付き合って生きていくのも悪くはないのではと思えるようになった。
男として恋人を作り生活したい自分、スカートを穿き中性的な見た目になって生活したい自分。そんな二面性のある自分。でも、中学生の頃みたく否定するのではなく、今はそんな二面性のある自分を認めていきたい、そう思えた。そう言えば昔、このようなことを題材に小説を書いていたことがあった。その時思ったのは、自分を恥ずかしい、中途半端だと思っているのは紛れもない自分なのだと、自分を否定しているのは紛れもない自分なのだと思ったことがあった。
これはカーテンの隙間からもれる朝日のように微量ながらも確実に朝を伝えてくれた、そんな僕の話である。
「目を開けてごらん、ほら、もうすっかり朝日はそこにある。夜は明けたんだよ。」