姉の苦悩
「今日は、竹内家にお邪魔するよ」
ペドロの指示に、昭夫は少し暗い気分になる。それでも、言われた方角にハンドルを切った。
竹内家と言ったが、実のところ住んでいるのはふたりの姉妹だけである。姉は杏奈、二十四歳。妹の可憐は十歳。姉の方は、ほとんど外出しない。家から一歩も出ないまま一週間が過ぎることもあるらしい。
もっとも、これは単なる出無精や引きこもりというわけではない。ふたりが御手洗村に来ることになった理由が、あまりにも特殊なものだった。それゆえ、外を出歩けないのだ。
妹の方はというと、いつも元気にあちこち走り回っている。この村の中で、一番人生を楽しんでいるのかもしれない。
「竹内さん、いますか?」
木々の中に建てられている平屋の前に立った昭夫は、そっと声をかけてみた。姉妹の両方が家を長時間空ける、というケースは竹内家に関してはまずない。だが万が一ということもある、
ややあって、引き戸が開く。そっと顔を出したのは杏奈だ。美しい顔立ちだが、おどおどした態度と異様に暗い目つきが、彼女の魅力を二割か三割は落としている。髪はボサボサで、長さもバラバラである。伸びてきたから手近なハサミで切った、という印象だ。着ているものも、汚いジャージ姿である。
「こ、こんにちは。どうかしましたか?」
声は小さく、喋り方もおどおどしている。昭夫は苦笑しつつ頭を下げる。
「こんにちは。実は、こちらのペドロさんが御手洗村にしばらく住むことになりまして──」
「うおおおお!」
説明していた時、いきなり獣の咆哮のごとき奇声が聞こえて来た。直後に、パタパタという足音。昭夫が振り返ると、森の中をこちらに向かい走ってくる子供がいる。迷彩柄のTシャツにハーフパンツ姿で、姉よりもさらに短い髪である。目は大きく、紫苑と同じく好奇心の強そうな顔立ちだ。両手を飛行機の翼のように広げ、雄叫びをあげながら突進してくる。
昭夫はくすりと笑った。妹の可憐だ。いつも、こんな感じであちこち走り回っているのだ。姉とは対照的である。村一番の元気印かもしれない。
その元気印は、いつもと同じく叫びながら突進してきた。昭夫のすぐ前で急停止すると、彼を見上げる。
「ききいいっ! と。お勤め、ご苦労さまです!」
元気よく言った直後、拳を握り高く振り上げる。アスリートが勝利した時のガッツポーズのようだ。ききいい、という声は車の急ブレーキ音のつもりらしい。昭夫が言葉を返そうとした時、可憐の目は別な方に向けられた。
「ねえ、このおじさんは誰?」
言いながら、ペドロを指さす。人を指さすのは失礼な行為のはずだが、この少女がやっても失礼とは思わないだろう。少なくとも、ペドロはその程度のことで気分を害する人間ではない。
そんなことを思いつつ、昭夫は答えようとした。
「あ、ああ、このおじさんは──」
「ペドロだよ。君は、竹内可憐さんだね。しばらくの間、この村にお世話になることとなった。よろしく」
横にいたペドロが会話に加わってくる。かと思うと、すっと動いてきた。滑るような動きで可憐に接近し、右手を差し出す。握手を求めているのだ。こんな幼い子供に握手を求めるというのは、礼儀正しいのか馬鹿にしているのかわからない。
だが、可憐もただ者ではなかった。差し出された右手をじっと見たかと思うと、己の手をハーフパンツのポケットに突っ込む。
中から何かを取り出し、その手のひらに握らせたのだ。
「うむ。よろしく頼むぞよ」
何やら重々しい口調で言いながら、彼の右手を己の両手で覆い握手する。何をしているのかさっぱりわからないが、これが彼女なりの歓迎の挨拶なのかもしれない。本当に面白い子だ。
昭夫は微笑みながら、杏奈に視線を移す。こちらはというと、明らかに怯えていた。落ち着きのなさがさらに強まっており、ペドロと可憐の顔を交互に見ている。何かいいたげではあるが、言葉に出来ないようだ。
まあいい。今日のところは、これくらいが無難だろう……などと思った時、ペドロと可憐の会話が耳に入ってきた。
「これ、何だかわかる?」
尋ねた後、可憐がおかしなポーズをとる。気をつけの姿勢から片手を空にあげ、顔をしかめ、すすすっと左右に動く。ダチョウの真似でもしているのだろうか。
「全くわからないな。それが何を表現しているか、よければ教えてくれないか?」
ペドロは、真面目な表情で言葉を返した。あの男でも、わからないことがあるとは意外だ。昭夫は微笑みながら、ふたりのやり取りを見守る。
その時、可憐の表情が曇った。
「存在を忘れられて悲しんでるネス湖の怪物を表現してみたの。でも、全くわからないということは、あたしの表現力が足りないってこと。今は、自分の表現力のなさに悲しんでるあたしのポーズ」
そう言って、悲しそうな表情で大袈裟に肩を落とし、両腕をぶらりと下げてみせる。
横で聞いている昭夫は、ぷっと吹き出した。杏奈からも、ぷぷぷと笑いをこらえているかのごとき声が洩れでている。存在を忘れられて悲しんでるネス湖の怪物とは、この子は本当に面白い。
それにしても、表現力という言葉が可憐の口から出るとは思わなかった。テレビか何かで、表現力に関するやり取りをみたのだろうか。ただ、意味を完全に理解して使っているかは怪しいが。
その時、ペドロが口を開く。
「なるほど。存在を忘れられて悲しんでるネス湖の怪物とは、なかなか面白い発想だ。だがね、今の君がすべきなのは、表現力を上げることではないと思う。それよりも、まずは自由な発想で様々なものを生み出すこと。その生み出したもののイメージを、簡単なものでいいから出来るだけ多く書き留めておくことだ。とにかく、今の君はテクニックに走らない方がいいよ」
突然のアドバイスに、可憐は戸惑っているようだった。困った顔で首を傾げている。横で聞いている昭夫たちも戸惑っていた。まさか、こんな言葉が出てくるとは思わなかった。
「文字数がチト多い……頭が爆発しそう。でも、何となくわかったの」
可憐は、両手で頭を抱えるポーズを取る。その動きに、ペドロは真面目な顔で頷いた。
「そうだね。今、全てを理解する必要はない。俺の言葉を、断片的にでも記憶に留めて今後に活かしてくれれば幸いだよ」
次に彼は、杏奈に向かい軽く頭を下げた。
「今後とも、よろしく。では昭夫くん、そろそろ失礼しようか」
帰りの車の中、昭夫は迷っていた。
姉妹の存在こそが、この村に警察を介入させられない理由なのだ。しかし、そのあたりの事情をペドロは知っているのだろうか。知らないのなら、説明しなくてはならないが……。
すると、彼の迷いを見透かしたかのように、ペドロが口を開いた。
「あの親子の抱えている問題について、君の見解を聞かせてくれ」
衝撃のあまり、車を急停止させる。今、確かに親子と言った。姉妹ではなく、親子と。
「知ってたんですか……」
かろうじて昭夫の口から出せたのは、その言葉たけだった。
そう、竹内可憐は、杏奈の妹ではない。杏奈が中学生の時に生み、十年の間妹として育てられてきた。
今も、可憐は杏奈を姉だと思い込んでいる。
「いや、知っていたわけじゃない。ふたりの醸し出す空気や顔形、杏奈さんが可憐さんを見る目でわかったよ」
昭夫は、ふうと息を吐いて天井を見上げた。よくよく考えてみれば、この怪物は他人のイマジナリーフレンドと会話を成立してしまえるのだ。姉妹か親子かを見分けるくらい、何の造作もないことなのだろう。
「そうですね。あなたなら、それくらい見抜けても不思議じゃない。では、あの親子がなぜ御手洗村に来たかはご存知ですか?」
少しの間を置き、昭夫は震える声で尋ねた。
もともと御手洗村は、来る者拒まず去る者追わず、という方針であった。他者や他施設との交流にも積極的であった。
ところが、今では来る者を拒まねばならない状態だ。一応、公には御手洗村の名は残っている。ただし、竹内親子の存在は完全に伏せている。
「何となく予想はついているが、君の口から詳しく聞かせてほしい」
ペドロの声からは、何らかの感情の動きは読み取れない。竹内徹の悪行を知らないのか。あるいは、あえて知らないふりをしているのか。
いずれにしても、昭夫は徹のしたことを許せなかった。
・・・
竹内徹は現在五十二歳だが、すらりとした体型とワイルドな雰囲気で、実年齢よりだいぶ若く見える。昔はチンピラに毛の生えたような存在だったが、今では都内に支店を持つ人材派遣会社の社長である。
若い頃は口より先に手が出るタイプだったし、恐喝で逮捕され少年院にお世話になったこともある。しかし、今はすっかり堅気になった……と、周囲からは思われていた。
だが、それは間違いだった。
ことの起こりは、杏奈が中学二年の時だった。冬休みに、彼女は女友だちと泊まり旅行にいく……といって家を出た。父と母からは、既に許可をもらっている。こんなことは、どこの家庭にもある話だ。
杏奈は、駅で友だちと待ち合わせて口裏を合わせる。ついで、彼氏の大泉進が到着した。そう、杏奈は女友だちと旅行に行く、と父や母には言っていたが、実際に同行するのは彼氏だったのである。まあ、こんなこともよくある話だ。
ここからの展開は、完全に普通ではなくなっていた。SNSにて、杏奈の旅行に同行するのは女ではなく男だ、という情報が流れる。しかも、徹の取り巻きがそれを目にしてしまったのだ。さっそく彼に報告する。
中学生の娘が、自分に嘘をつき彼氏と泊まり旅行に行った……当然ながら徹は激怒する。父親である以上、怒るのは仕方ない。しかし、その後の行動は常軌を逸するものだった。徹は、すぐさま動く。荒事に慣れている手下を引き連れ、現場に乗り込んだ。杏奈を強引に連れ戻し、自宅の地下室に監禁してしまう。
その場にいた大泉はというと、旅行から帰ることはなかった。その時点から、ぷっつり消息が途絶えてしまったのだ。
当然ながら、警察は徹を疑った。大泉の姿を最後に見たのは、この怒れる父親だけだ。しかし徹および彼に同行した手下は、口を揃えてこう証言する。
「あいつなら、ちょっと脅したら小便チビりそうな勢いで走って逃げて行きました。それからは会ってません」
警察とて、この証言を鵜呑みにせず、徹の近辺を調査した。しかし、確たる証拠が出ない。結局、現在に至るまで行方不明のままだ。
悲惨なのは杏奈だ。徹は、暴力を用いて娘を支配下に置いたのである。以後、自宅に作られた地下室に十年近く監禁されていた。当然ながら外出は出来ない。中学校にも、それから一日も登校せぬまま卒業となった。
杏奈を襲う悲劇は、さらに続く。監禁生活が始まってしばらくしてから、彼女の妊娠が発覚したのだ。相手は、行方不明になった大泉らしい。もっとも、この事実は公にはならなかった。徹は、生まれてきた娘に可憐と名付ける。しかも、自身が愛人に産ませた子供として届けでたのだ。つまりは、杏奈の義理の妹となったのである。
ここまででも、映画の原作になりそうな出来事だ。しかし、事件は終わらない。それから二年ほど経った時、徹の妻・竹内鈴が忽然と姿を消した。周囲の人の話では、このところ様々なことに悩んでおり、二言目には、もう嫌……と漏らすことが多かったという。彼女もまた、今も捜索中だ。
それから十年が経った今になって、この事件は再び動き出す。竹内の家から、杏奈が逃げ出したのだ。裏では、高木和馬とその仲間の協力があった。
しかも高木は、可憐をも連れ出したのだ。ふたりを、御手洗村に匿った。
以来、御手洗村はその活動を停止した。新しい人間の受け入れはしていない。ネットなどに載っている電話番号は、全て変えた。
今は、住人の生活を守るのがやっとだ。
・・・
「なるほど、だいたいの事情はわかった。説明ありがとう」
昭夫の話を聞き終えたペドロは、軽く会釈した。
次の瞬間、目の色に僅かな変化が生じる。
「君にひとつ質問がある。これは仮の話だが……とある殺し屋が、今から竹内徹氏の自宅に乗り込み首をへし折ると宣言したとしよう。君は、彼の行動を止めるかね?」
いきなりの言葉に、昭夫は意味がわからずポカンとなった。何かの漫画の話だろうか。
直後、ペドロが何を言わんとしているかを理解する。昭夫は、震えながら首を横に振った。
「本音をいえば、そうして欲しいです。しかし、そうなると非常に厄介なことになります。絶対に止めます」
「何だね?」
「竹内徹は、少しは名のある資産家です。裏の連中とも繋がりが深い。そんな男が死んだら、まず財産問題が持ち上がる。結果、杏奈と可憐の存在がクローズアップしてくる。そうなると、財産問題に絡みたい連中が杏奈と可憐を捜すでしょう。一流企業の調査員や、日本トップクラスの探偵社といった連中です。そいつらが本気になったら、発見される可能性が高い。しかも法的には、我々は誘拐した立場ですから……圧倒的に不利です」
「なるほどな」
「もうひとつあります。この村にいた竹内姉妹が発見されてしまうと、マスコミはあることないことを書き立てるでしょう。可憐は、自分が杏奈の娘であることを知らされてしまう。また、他の住人にも被害が及びます。健太は、死んだ兄をイマジナリーフレンドにしている少年として奇異の目で見られます。結菜の事件も、マスコミにより再びクローズアップされます。あの少女は今……という感じで、面白おかしく書き立てられるでしょうね。さらには、ネット界隈の有象無象が、この村に集まってくる可能性もあります。そうなったら、ここは終わりです」
一気に喋り終えた昭夫は、一息ついてペドロの反応を見る。だが、彼の表情は全く変わらないままだ。喋り出す気配もない。
昭夫は、恐る恐る尋ねてみた。
「あの、どうかしましたか?」
「返す言葉がないな。君の言う通りだよ。彼ひとりを殺しても、事態は好転しない。それにしても、君に間違いを指摘されるとはね。認めたくないものだな、自分自身の衰えによる過ちは。俺にも、敗北の時が近いのかもしれないね」
そう言った後、ペドロはフッと笑った。だが、昭夫には何のことやらわからない。狐につままれたような顔だ。
すると、ペドロは苦笑した。
「君には通じなかったか。すまない。ところで、俺はちょっと出かけることにした。したがって、明日は君の家を訪問しない」
その言葉は、昭夫は血相を変えた。まさか、さっき言ったことをやる気か?
「ちょっと待ってください! あの、竹内徹に会ったりしませんよね!?」
「会わないし、そんな暇もない。安心したまえ。ところで、ひとつ聞きたいのだが……」
言いながら、ペドロはポケットから何かを取り出した。
「これをどう思う?」
その手には、電車の切符が握られていた。既に使用済みのものだ。昭夫は、さすがに困惑した。これをどう思う、と聞かれても答えようがない。
すると、ペドロはくすりと笑った。
「これはね、先ほど可憐さんがくれたものだよ。彼女は、電車が好きなのかい?」
「電車? いや、どうですかねえ。俺は、そんな話聞いたことないですよ」
一応、今まで可憐と交わした言葉を、ざっと思い出してみた。だが、電車の話は聞いたことがない。もし好きなら、可憐は聞かれもしないのに自分から語っていたはずだ。
「そうか。では、電車が好きというよりも、このデザインに引かれたということかな。何はともあれ、これは可憐さんにとってそれなりに価値のあるものだったのだろう。そんなものをくれるとは、俺は彼女に気に入られたようだね」
ひとり呟くと、ペドロは切符をポケットにしまった。その時、昭夫の頭に他愛ない疑問が浮かぶ。
「あのう、さっき可憐が言っていたネス湖の怪物がどうとかいう……あれ、本当にわからなかったんですか?」
すると、ペドロはくすりと笑った。
「それは、君の想像に任せるよ。彼女からは、才能の片鱗を感じた。ただ、その才能を花開かせるには……完璧な理解者がいては、かえって害になるかもしれない」