殺人者の来訪
真壁親子は、今日も田舎道を歩いていた。
もう夏も終わり、秋になろうとしている。そんな季節の変わり目の中、娘の紫苑は、母の手を握り一歩ずつ慎重に歩いていた。幸乃は、娘の速度に合わせゆっくりと進んでいる。
やがて、神社に到着した。いつものように、ふたりでお堂に一礼する。その後、レジャーシートを敷いてお弁当を出した。
それを待っていたかのごとく、草むらからコトラが丸い顔を出す。にゃあと鳴き、ふたりのそばに近づいてきた。
だが、その足が止まる。コトラの目は、親子の後ろにいる者へとむけられていた。
幸乃は、なにげなく振り返る。その瞬間、動きが止まった。
親子から二メートルほど離れた位置に、見知らぬ者が立っていた。身長は百六十センチ強。顔は彫りが深く、肌は浅黒い。純粋な日本人とは思えない風貌だ。
服装は黒いTシャツとデニムパンツだが、Tシャツのそでから見えている二の腕は異様だった。太いが、脂肪はほとんど付いていない。細かい筋肉が、束のように腕を覆っているのだ。しかも、動きの邪魔になるような付き方はしていない。まるでヘビー級ボクサーのようだ。
それだけでも確実に脅威を与えるが、何より恐ろしいのは、気配も感じさせず音も立てないまま、親子に接近してきた事実だ。まともでない稼業で培われたスキルではないのか──
幸乃の体は、小刻みに震え出した。この男が何者かはわからない。だが、確信を持って言えることがある。目の前にいるのは、チンピラやヤクザなど比較にならない危険人物だ。
今の姿からは想像もつかないが、幸乃には都会の路地裏を徘徊し、非合法な仕事に手を染めていた過去がある。不良たちと渡り合い、暴行や傷害で何度か逮捕された経験のある幸乃だからこそ、目の前にいる男の怖さを一目で見抜いたのだ。
次の瞬間、幸乃は立ち上がっていた。半ば本能的に、娘を守ろうと前に出る。すると、口に運ぼうとしていたおにぎりが、ぽろりと地面に落ちる。おにぎりはコロコロと転がり、男の足にぶつかり止まった。
すると、男はおにぎりを拾い上げる。
次の瞬間、とんでもないことを口にした。
「これ、いただいていいかね?」
幸乃はポカンとなった。いきなり出現した怪人に、こんなことを言われるとは。想像もつかなかった言葉を前に、とっさに返事が出てこなかった。
その時、紫苑が横から口を挟む。
「いいよ」
すると、怪人は口を開けた。土にまみれたおにぎりに、何のためらいもなくかぶりつく。ゆっくりと咀嚼し、飲み込んだ。
理解不能な光景である。幸乃は、呆然と眺めているしかなかった。目の前の男が、何を考えているのかわからない。そもそも、この辺りには自分たちを含めても十人ほどしか住んでいないのだ。言うまでもなく、この怪人は住人ではない。では、ここに何しに来た?
そんな母とは対照的なのが紫苑であった。怪人が土まみれのおにぎりを食べる姿を、ニコニコしながら眺めている。しかも、猫のコトラまで姿を現した。紫苑の隣で、前足を揃え尻を地面に着けた姿勢で怪人を見上げている。
やがて、怪人はおにぎりを食べ終えた。その時になって、幸乃はどうにか口を開く。
「あ、あなた誰ですか?」
声を震わせながらの問いに、男はにこやかな表情で答える。
「誰ですか、と聞かれても困るな。もし名前を尋ねているのであれば、ペドロと答えるしかないがね」
「ペドロ? おじさん、ペドロっていうんだ。外国の人なんだね」
言ったのは紫苑だ。この奇妙な男に、興味を抱いたらしい。好奇心に満ちた顔で、まじまじと見つめている。
ペドロはしゃがみ込むと、彼女に目線を合わせる。
「そうだよ。お嬢さん、君の名前は?」
「紫苑、真壁紫苑だよ」
誇らしげな表情で、紫苑は答えた。ペドロなる怪人を恐れる様子は、微塵も感じられない。しかも、コトラまでもがトコトコ近づいていった。怪人の足に頬を擦り付けていく。
ペドロは、くすりと笑った。
「俺を歓迎してくれるとは、嬉しい限りだよ。ところで、君は病気のようだね」
「えっ?」
意外な展開に、紫苑の目は丸くなった。幸乃も同じだ。なぜ、それを知っている?
ペドロはというと、すっと立ち上がる。
「君らとは、もう少し話していたいものだが、あいにく時間は有限だ。俺は、高木和馬氏に会いに行かねばならないのだよ。縁があったら、また会おう」
その言葉を残し、去っていった。
どのくらいの時間が経ったろうか。車のエンジン音で、幸乃はハッと我に返る。
「幸乃さん、どうかされたんですか?」
車を停めサイドウィンドウ開け、呑気な様子て尋ねる昭夫だったが、その表情は一変する。
「さっき、ここにペドロとかいう外国人がいたんです! 高木さんに会いにいくと言っていました!」
その言葉を聞いた途端、昭夫は凄まじい勢いで車を走らせる──
高木和馬は、かつて裏社会でも有名な存在だった。ヤクザとは全く異なるプロの犯罪者集団のボスとして君臨していたのだ。しかし何を思ったか、何の前触れもなく組織を解体させ引退したのだ。犯罪により巨万の富を得たから引退したのだ……当時は、そう噂されていた。
それからの行動は、誰もが予期しないものだった。何を思ったか御手洗村というコミュニティーを立ち上げる。この限界集落のごとき場所に、四つの家族を招いたのだ。
また、この男は今も裏の世界に顔が利くという。だが、顔が利く人物は敵も作りやすい。裏の世界の住人が、高木に危害を加えるため村に来た可能性もあるのだ。
昭夫は、急いで高木の家に向かった。
やがて、高木の家に到着した。昭夫は、すぐさま車を降りる。戸をどんどん叩き、声をあげる。
「高木さん! いますか! 大変です……」
声は、そこで止まった。目の前で、引き戸が開かれたのだ。
顔を出したのは、高木とは似ても似つかない男である。黒いふさふさとした髪。浅黒い肌。彫りの深い顔。
そして、全身から放たれている異様な空気──
間違いない。真壁幸乃が言っていたのは、この男だ。
「あ、あなたは誰ですか? 高木さんは無事なんですか?」
思わず、間抜けな質問をしていた。この外国人が何者だろうと、そんなことはどうでもいいのに。問題なのは、高木の安否だ。あの男に万一のことがあれば、この御手洗村は終わりだ。
だが、ペドロの方は至って冷静だった。
「まずは、己の目で確かめてはいかがかな。目の前にいる者の言っていることが、常に真実とはかぎらない」
そう言うと、奥の部屋を指さす。
なぜか昭夫は、奥に恐ろしいものが待ち受けている気がした。恐る恐る、部屋に入っていく。
予想は当たっていた。確かに恐ろしいものが待っていたのだ。高木は、仰向けに倒れている。口は大きく開かれ、目は天井を向いていた。その体勢のまま、ピクリとも動かない。
「彼は今、こんな状態だ。したがって、君と話をすることは出来ない。よかったら、俺が話を聞こう」
こともなげに放たれた言葉に、昭夫は呆然となっていた。
「こ、これは、どういう……」
彼には、それしか言えなかった。昨日まで、高木はちゃんと生きていた。なのに今は、死体となっている。いや、本当に死んでいるのか? ただ気絶しているだけではないのか? そもそも、このペドロとは何者なんだ? 様々な疑問が頭に浮かんで消え、次の行動がとれない──
すると、声が聞こえてきた。
「念のために言っておこう。高木和馬氏は、先ほど死亡を確認した。俺が殺したんだよ」
ペドロの口調は静かなものだった。冗談を言っているようには思えない。
それを聞かされた昭夫はといえば、きょとんとなっていた。間抜けな顔で、高木の死体を見下ろしている。この青年は、人の生き死ににかかわったことなどない。彼の中で、人の死というのは遠い世界のものなのだ。
そのためか、一瞬ではあるが頭が真っ白になった。足がすくみ、動くことができない。
数秒が経過し、ようやく何が起きたのかを理解する。同時に、動くことも可能になった。こういう時はどうする? 車に積んであるトランシーバーで警察を呼ぶか? だが、警察が来るまで二十分はかかる──
その時、目の前の怪人が口を開いた。
「念のため忠告しておこう。警察を呼んだ場合、困るのは君たちの方ではないのかな」
その落ち着いた言葉により、昭夫は動きを止める。
確かに、その通りだった。振り返り、怪人を睨む。正直、どうすればいいかわからない。それでも、高木を殺した相手に屈したくはなかった。
「君は、西野昭夫くんだろう。この村において、様々な物資を運んだり男手が必要な作業をしている。いわば、村の便利屋だ」
睨まれていることなど意に介さず、といった様子でペドロは語る。
「なんで知ってるんだよ? 誰かに聞いたのか?」
昭夫の方は、チンピラのような口調で言い返したが、全くサマになっていない。しかも、いつのまにか足が震え出していた。傍目にもわかるくらいブルブル震えている。立っていることすら困難な状態だ。壁に手を付き、どうにか体を支えている。
「もちろん聞いたよ。ところで、君は何か誤解をしているようだな。俺は、高木氏以外の人間に危害を加えるつもりはない。むしろ、この村に少しばかり住まわせて欲しいのさ。用事さえ終われば、すぐに立ち去る」
そのペドロの言葉を聞いた瞬間、昭夫は高木が死んだことを思い出した。目の前の男に対する怒りが、一気に噴き上がる。淡々と語っているのも、無性に腹が立った。
「んだと! ふざけんじゃねえよ人殺しが──」
人殺しが、と言ったのとほぼ同じタイミングで、昭夫の体が宙に浮いていた。続いて、畳に叩きつけられる──
ゴフッ、という声の後、背中に激痛が走る。続いて、息がつまるような感覚に襲われる。昭夫は、自分が何をされたのかすらわかっていなかった。
一瞬遅れて、ようやく事態を把握する。ペドロは、片手で自分を掴み持ち上げ、畳に叩きつけたのだ。信じられない腕力である。
だが、それだけでは終わらない。次にペドロは、腕を振り上げた。
昭夫は、反射的に手で顔を覆う。殴られると思ったのだ。
しかし、彼の狙いは違うものだった。床に置かれている掃除機めがけ、凄まじい速さの手刀を落とす。
次の瞬間、掃除機はガラクタと化していた。ペドロの放った手刀で、バラバラに砕けてしまったのだ──
震える昭夫の目に、ペドロの顔が近づいてくるのが見えた。
「ふたつ言っておこう。ひとつ目は、俺は村の住人を素手で皆殺しにできるということだ。三十分もかからないうちに、全員を殺せる。これは脅しでもハッタリでもなく、厳然たる事実だ。だがね、なるべくなら暴力は使いたくない。わかったかね?」
落ち着いた声だった。チンピラの脅し文句とは、根本からして異なるものだ。昭夫は、震えながら首を縦に振るしかなかった。
「よろしい。では、次だ。この村で、高木氏が死んだことを知っているのは俺と君だけだ。村の平和を乱したくないなら、この事実を他の人間には伏せておくんだ。でないと、君の両手両足をへし折り山の中に放置するよ。わかったかい?」
この問いにも、ウンウンと頷くことしか出来なかった。今やっと、目の前にいるのが何者か理解したのだ。この男は、ただの犯罪者ではない。これはもう、天災レベルの危機だ。何をしにきたのかはわからないが、村人に危害を加えさせることなく早々に立ち去ってもらうしかない。
でないと、死んだ高木に申し訳ない。
「あなたの用事というのは、どのくらいかかるのですか?」
慎重に聞いてみた。とにかく、今は怒らせないこと、これしかない。
しかし、返ってきた答えは──
「わからない」
その瞬間、思わず顔が歪む。この怪人は、いったい何をしにきたのだろう。せめて、おおよその期間は教えて欲しい。思わず声が出た。
「あ、あのさ──」
「わからないから、わからないと言っているだけだよ。とにかく、君は出来るだけ俺を早く退散させる、それだけを考えたまえ。それと、死体はちゃんと始末しておくから安心したまえ。今日のところは、もう帰るんだ」
言われるがまま、昭夫は外に出た。周りを見回した。
あの怪人が、高木を殺したのは間違いないだろう。にもかかわらず、昭夫には何も出来ない。ただただ、圧倒的な強者に怯えていただけだ。
映画やドラマなら、主人公は復讐を誓うのだろう。しかし今は、復讐など企てている場合ではない。それよりも、ペドロという怪物が村の住人となるべく接触しないよう気を配る。奴が用事とやらを終わらせて村を去るのを待つしかないのだ。
昨日までは、退屈ではあるが平和な生活だった。刺激や娯楽はないが、煩わしい人間関係に悩まされることもない。山もなければ谷もなく、ただ時が過ぎていくだけ……そんな日々だった。
その優しい日々は、もう永遠に帰って来ない。