隠れ花魁
霧雨が降っていた。
桜の季節は残念なことに雨も多い。
道具屋の軒先で那津が雨宿りをしていると、道具屋が訊いてきた。
「で?
吉原にはまだ行ってんのかい?」
そうだな、と那津は答えた。
また那津は、夢の中で江戸に来ていた。
いや、これは本当に夢なのだろうか? と思う。
此処は此処で、現実と同じに、ちゃんと時間通りに進行している。
まるで、タイムスリップでもしているか。
自分の前世を克明に思い出しているかのように。
いや、違う。
これが前世だとしても、それを思い出しているのではなく、その世界に、今の自分が飛び込んでいる感じだった。
そのとき、ふいに、あの手術室の前で明野が言った言葉が頭を過った。
捕まえて、今度こそ。
約束よ――。
雨の通りを見つめながら、那津は言った。
「少し引っかかるんだ。
人々が言う『幽霊花魁』というのは、姿を人前に現さない花魁のことのようだ。
『隠れ花魁』とも言うらしいからな。
だが、桧山たちの言う幽霊花魁は、階段下の幽霊のことのようだった。
誰かが囲っているという話とは合わない。
なんだかおかしい気がするんだ。
それに――」
と言葉を止めると、
「なんだよ、言ってみろ」
珍しく強い口調で道具屋は言ってきた。
腕を組み、口許は穏やかだが、目はいつものようには笑っていない。
少々警戒しながらも、那津は口を開いた。
「何度か通っているうちに、あの階段下に立つと、女の悲鳴が聞こえるようになったんだ。
上から下へ、こう、落ちてくるみたいに」
だが、相性が悪いのか、その姿は見えてこなかった。
「そうか……」
と呟き、道具屋も往来を眺めた。籠かきが、かけ声をかけ合いながら、通っていく。
そのとき、
「よお、隆次」
常連らしい男が道具屋の名を呼びながら、やってきた。
初めて名前を聞いたな、と思った。
名前ヲ 呼ンデ
ソレハ 魂ヲ 縛ルカラ――。
あのとき、廊下で聞いた声を思い出していたとき、こちらを振り返りながら、隆次が訊いてきた。
「それでお前、結局、幽霊花魁には会えないままなのかい?」
「いや―― 会えたよ」
そう言うと、少し間を置き、隆次は、
「……へえ」
と笑ってみせた。
帰り際、あ、そうそう、と隆次が、ついでのように言い出した。
「吉原に行くなら、気をつけろよ。
最近、あの辺りには、人斬りが出るらしいから」
「人斬り?」
そう。
腕だけを斬るんだ、と隆次は言った。
腕だけを斬る通り魔。
「吉原の辺りでか」
と呟き、顎に手をやると、
「なんだ?
お前が退治してくれるのか」
そう言い、隆次は笑う。
「やる意味はあるかもな」
と通りを眺め、呟くと、
「だから……お前、何者なんだよ」
坊主じゃねえのか、と隆次が後ろで言っていた。