咲夜
川沿いの柳が涼やかな川風に揺れる側を、那津は咲夜と名乗るその娘と歩いた。
「別によかったのに。
お兄様は心配性だから」
と咲夜は言ってくる。
「咲夜、お前はあいつの妹なのか?」
それにしては、顔が似ていないようだが、と思った。
道具屋も顔は整っているが、咲夜の華やかな顔立ちとは造りが全然違っている。
「違うわ。
昔からお世話になってはいるけど。
私の姉がね、あの人と親しかったのよ」
過去形か、と思いながら、娘の手にある包みを見る。
そこから本が覗いていた。
「手習いの帰りか」
「そう。
他に自由はないからね」
と咲夜は答える。
余程の深窓の姫なのかという感じだが。
それにしては、供のひとりも連れずに歩いている。
だが、そういえば、着物は普通の町娘風なのだが、仕立てもいいし、生地も良さそうだった。
「ねえ、さっきの話だけどさ。
幽霊花魁は階段下の霊だって、今評判の花魁、桧山が言ったの?」
ああ、と頷くと、咲夜は、ふうん、と言ったあとで、
「でもさ、幽霊花魁の話、結構あちことで聞くんだけど。
ただ階段下に居たってだけじゃないのも多いのよ。
同じ扇花屋の中でも違う場所で見たって話もあるし」
なんなのかしらね? と咲夜は言う。
「ただ階段下に出ることが多いってだけで、別の場所に出ることもあるんだろ。
ただ、目撃証言が多いのはちょっと気になるけどな」
そう那津は言った。
相手は霊だ。
そこ此処に霊は居るが、大抵の人間には見えてはいない。
道の端、家の前の縁台で年寄り連中が碁を打っているのだが。
それを覗き込んでいる大工姿の男が居る。
だが、誰も彼には気づいていないし、騒ぎにもならない。
それだけ霊が見える人間は少ないというのに、何故、幽霊花魁だけは、あんなにもたくさんの目撃証言があるのだろう。
そんなことを考えていると、
「あっ、じゃあ、此処でね」
と娘は近くの紅屋の前で足を止めた。
「おい。
誰か来るんじゃないのか?」
迎えの者が来ると言っていたのに、それらしき人物は周囲に居ない。
「人が居ると現れないのよ。
だから、帰って」
どんな草の者だ、と那津は思う。
やはり、何処ぞの姫かなにかなのだろうか、この娘。
じゃあ、ともう一度、彼女は言った。
もう行け、と言うように。
人に命令するのが板についているこの娘の言う通りに、歩き出したが。
少し行ったところで、やはり気になり、振り返ろうとした。
だが、そのとき、騒がしい声が自分を呼び止めた。
「あっ、この似非坊主っ」
ああ、めんどくさい奴が現れた。
那津は渋い顔をする。
近くの問屋から知り合いの同心が顔を覗けていた。
小平とかいう若い同心だ。呑み屋で顔を合わせて以来、何かと絡んでくるので、閉口していた。
やれやれ行ったか、と思いながら、咲夜は那津を見送った。
ざんぎり頭の妙な坊主だが、整った顔の中の切れ長の目は、不思議に澄んでいる。
坊主は少し行ったところで、こちらを振り返りかけたが。
近くの問屋から出てきた若い同心に引きずられ、何処かに行ってしまった。
咲夜は、ほっとし、紅屋の店先にずらりと並べられた紅を見る。
紅は貝殻に塗られて売られていた。
あ、これなんかどうかしら、と手を伸ばしかけたとき、ようやく店の隣の柳の傍に気配を感じた。
そこに現れた細目の男を見上げ、
「なんでさっと出て来ないの? いつも」
と訊いてみる。
だが、無言だ。
余計なことを言わないので、主人に信頼されているようだったが。
咲夜からすれば、必要なことすら言わない男だった。
さっさと前を歩いて帰ろうとする男に向かい、咲夜は言った。
「待って、何か買って帰りたいの。
あ、田楽」
咲夜の目線は、もう紅から柳の木の下にある田楽の店へと移っていた。
「木の芽のが欲しいな」
と咲夜は男の袖を引く。
溜息をつきながらも、男は焼けた味噌のいい香りのする方向に向かい、歩き出してくれた。
それに付いて歩く咲夜の横を大八車が威勢良く駆け抜けていく。
江戸の町はいつもせわしなく、楽しげだ。
ずっとこの空気に浸っていたい気もするのだが。
まあ、たまにだから楽しいのかもしれないな、と咲夜は思った。