辿り着く場所
「大丈夫か、咲夜」
那津が声をかけると、彼女は呟く。
「……見えた。
逃げる瞬間の顔。
この間行った美容室の人だったわ。
切った髪まで大事にするって人だったのに」
一ヶ月前、咲夜は友人に連れられ、いつもと違う美容室に行った。
いわゆる、カリスマ美容師の居る店だ。
『すごく素敵に出来上がったんだけど。
なんでだろう。
もう行きたくない』
しばらくしたら、形が崩れるから、また来て、と愛想良く言われたらしいのだが、咲夜は何故か行きたがらなかった。
『あの人に髪を触られると、なんだか落ち着かなくて。
切られた髪でもよ』
そう言っていた。
明野を刺そうとして千束の通り魔がやめたのは、彼女の髪を見て、よく似てはいるが咲夜ではないと気づいたからだ。
美容師は、勝手に少し前髪を切ったくらいの違いでも、自分の仕事ではないと、すぐに気づくらしいから。
「大丈夫ですかっ」
と若い警官が駆けつけてきた。
おや? と思いはしたが、那津は、ゆっくりその顔を眺めることはせず、
「咲夜を頼む。
俺は犯人を追う」
とその警官に告げた。
見覚えのない警官だった。
最近こちらに配属されたのだろう。
だが、信用できると思った。
「大丈夫ですか?」
と言われた咲夜も、彼が側に来たことで安堵したように、ええ、と頷いていた。
男の顔は、隆次そっくりだった。
「えーと、あんまり短くせずにお願いします」
その女が自分の美容室に訪ねてきたのは一ヶ月前だった。
美しいその女に、男の自分は好感を抱いていたが、膝の上で重ねられたその長く白い指を見たとき、なんだか胸がざわついた。
咲夜と名乗るその女に営業トークをしながらも、ずっと落ち着かない気持ちだった。
彼女が出て行ったあと、掃除をし、残していった髪を握り締める。
自分は切った髪も大事にすると言って、客に喜ばれていた。
ゴミのように乱雑に掃き捨ててしまわずに、出来るだけ丁寧に扱うからだ。
切った髪は重い。
なにかの想いが、そこに詰まっているようで。
江戸の遊女は、自らの想いが真実だと証明するため、自分の指や命より大事な髪を切って、男に捧げるのだという話を思い出していた。
指と比べて、髪は伸びるけどな。
今、現代に生きる男の自分は、そんなことをされても困るだけだが。
そう乾いた気持ちで、咲夜の髪をいつものように丁寧に紙に包んで捨てようとしたが、何故か捨てられなかった。
そのまま握り締める。
いつも厭な夢を見ていた――。
見知らぬ男に刺される夢だ。
男は小刀を私の腹に突き立てる。
あ……という顔をしていた。
ショックを受けたのは、刺されたからではなく、その顔に激しい後悔を感じたからだった。
申し訳ない、という表情の底に、こんな女を刺してしまった、という感情が滲み出しているのを見たからだ。
私など、彼にとっては、刺し殺す価値もない女なのだ。
夢で見るその見知らぬ男は、どうやら自分の夫のようだった。
咲夜と名乗る娘の白い指を見たとき、何故か、夢の中で夫が持って帰った指を思い出していた。
何故だろう。
その指と咲夜の指は似ていたが、おそらく違うものだったのに。
遊女は偽物の指を男に渡すから。
だが、それが遊女からの愛の証であることにかわりなく。
夫が持って帰った指からはそれを持っていた女の気配が感じられた。
いつも夫の心に強く染みついている女、咲夜の気配を。
夫の祖父などは、遊女の指をたくさん持っていて、もうどれが誰のなのかわからないと笑っていたようだが。
たくさんの指があれば、どれがあの女のものかわからなくなる。
たくさんの指があれば、その分、ひとつの指に対する執着も薄くなる。
たくさん指を集めるか、夫が持ち帰っていた指をすり替えるか。
そんなことを思いながら、汚れた吉原に出入りする浮かれた女に斬りつけた。
その指を取ってやろうと思ったのだ。
だが、失敗した。
着物に血をつけて帰った自分を、手代の男は心配した。
『大丈夫です、お福様。
私がなんとかいたします』
どうなんとかできるんだ、と思ったが、もう心が疲れていて。
この気の強い自分が、ただ黙って、こくりと頷いた。
手代はそのことに感激し、自分の犯行を誤摩化すために手練れの者を雇い、辻斬りをさせてくれ、偽物の指と女の指をすり替えてくれた。
夫は、いっそ、あの女を遊女として弄んでくれればよかったのに。
身体の関係もないのに、大金を払って。
まるで、それが初めての恋であるかのように、ただあの女を見守る夫が許せなかった。
家と家との結びつきのために結婚したとはいえ、私はなんのために此処に居るのか。
そう憤った。
もう女には生まれたくない。
私はもっと自由に行きたい。
遊女なんぞに夫をとられて泣いたりしないように。
来世は私は男になる、と手代に告げると、
「じゃあ、私は女になりましよう」
と微笑んでくれた。
恨みと憎しみで凝り固まって、私は大切なものが見えなくなっていた。
冷たいな。
福の心を宿した男は、逃げるときに飛び込んだ川に浮いていた。
あのときの周五郎のように。
福であった私は、寄り添う手代とともに、ぼんやり助けるでもなくそれを見送った。
まあ、私たちに助けられても、周五郎も迷惑だっただろうけど。
そのあと、何もかも忘れて暮らしたかったけれど。
周五郎が消えたあとも、よくしてくれていた義母が、内緒で大金を支払い、吉原の女を身請けしたと後から聞いた。
吉原から連れ出した女の手を引き、田舎に預け、ひっそりと子どもを産ませたという。
私が身籠ること叶わなかった周五郎の子をあの女は産んだのか。
今正面に見える空には、花火はない。
だから、周五郎が最後に見た景色を想像することはできなかった。
だが、彼と同じように、このまま流れていってしまいたかった。
冷たい川の水も、小氷河期を迎えていた江戸のそれほどではなく。
心臓麻痺で死ぬ事もできないし、流されるほど、速くもなかった。
江戸は遠くなったな、と水に浮かんで、空を見ながら、ぼんやり思っていると、
「おーい。
誰か死んでるぞー」
勝手に自分を殺した川原の浮浪者たちが叫び出す。
「死体だ、死体。
誰か引っかけろよ」
なに言ってんだ、こいつら。
……それにしても明るいな、と男は思った。
街は明る過ぎ、川が自分を攫っていくまで、人目につかずにいることはできそうにもない。
あんた行け、警察に電話しろ、119番だろ、と浮浪者たちが揉めている。
本当に死にかけてたら、この呑気さは大問題だろ、と星を眺めながら、苦笑した。
そして、流れていく自分に合わせ、土手の上の道を自転車を押してついてくる人影に気がついた。
女のようだった。
浮浪者たちと一緒に、いつまでもいつまでも、それは追ってくる。
まるで自分の影のように。
川に入った人間を沈めようとする不浄な霊も居なかったので、仕方なく川から上がってみた。
「あんた、生きとったんかい」
浮浪者たちが、おっかなびっくり水から上がった自分のところに寄ってきて、面倒事に巻き込まれなくてよかった、という顔をしながらも、
「あんた、人生、大事にせにゃ」
と説教をし始める。
いや、あんたらがだよ、と思いながらも笑っていた。
水浸しのまま、上の道に上がると、自転車を押した女が自分を待っていた。
「お帰りなさい」
と言う。
「ただいま。
なにしてたんだ?」
妻は笑い、
「貴方が川に流されてくのを見てたの」
と言う。
『貴女が男になるのなら、私は女に産まれましょう』
誰も自分を女として大事にしてくれなかったと思ったが、そうではなかった。
今は自分の妻となった手代も。
あのとき、吉原で幽鬼のような顔で夫を奪った遊女を探し歩いていた自分を逃がしてくれた油さしの男も、ちゃんと自分に敬意を払い、助けてくれた。
油さしの男は、あの遊女に想いを寄せていたらしく、似た境遇の自分が無茶をしないよう、出合い茶屋に呼び出して、説得までしてくれた。
そんな男に、自分が辻斬りをやらせているとは言えなかった。
人ばかり責めていたが、自分もロクな女じゃなかったな、と今になって、ぼんやり思う。
そのとき、向こうから、自転車を押した警官と、あの女。
そして、男がやってきた。
月明かりの下、髪をざんばらに斬られたまま、こちらを見つめる女を見て、美しいな、と思っていた。
極普通の男のように。
もう沸き上がるような怒りも憎しみもなかった。
女はまだ小刀を掴んでいる自分の側まで来て言った。
「姉の意識は戻りました。
この髪……いつか奇麗にしてください」
わかりました、と自分は頭を下げた。
気を使った同僚たちが犯人を連れていくと言ってくれたので、那津は妻と残り、それを見送った。
咲夜はかつて周五郎が流れていった川を眺め、小さく呟く。
「貴方と結婚して、此処に住んだとき、本当は厭だった」
なんだかこの土地が厭だったのだという。
「この川も厭だった。
此処に花火が打ち上がるのを見ると、胸が締めつけられる感じがした」
だが、咲夜は今、その川を直視し、大きく息を吸っていた。
こちらを振り返り、微笑んで言う。
「それで、あのとき、本当は厭だったの。
貴方が見合いの席で、今まで私の結婚話がまとまらなかったのは、私が他の男のものにならないよう、きっと自分が呪ってたんだって言ったとき」
どん引きよ、と咲夜は言った。
「……そうか」
いや、一目で咲夜に心を奪われて、つい、言ってしまった一言だったんだが……。
それでよく結婚してくれたなと思う自分を見て、咲夜は笑う。
ちょっとだけ笑い返し、彼女の肩を抱いた。
今も昔も変わらず流れる川に、月が滲むように揺れていた。




