終焉
いつの間にか降り出した雨が、通りを濡らしている。
道具屋の奥座敷への上がり口に腰掛けた咲夜は、湿った空気を運んでくる窓の外を見ながら言った。
「そろそろ花菖蒲の季節ね」
隆次は品を並べていた手を止める。
明野が死んだ季節だからだ。
この男の中では、今もまだ明野が生きている。
なんで此処に来ないかなあ。
私や姉さんに祟ってないで。
そう咲夜が思ったとき、耳許で声がした。
『見惚れてたからよ、その男が』
いきなりした、気安い口調に、はっと振り向く。
自分の横に明野が座っていた。
まるで町娘のような格好で、ぷらぷらと足を揺らして、隆次を見ている。
『見惚れてたからよ、桧山に。
私が足許で死んでたのに。
私を愛してくれていたことを疑ってはいないわ。
だからこそ、転がってる私より、桧山に視線を奪われたことに腹が立ったのよ』
だから、あんなにも、桧山に憎しみを抱いていたのか。
「成仏するの?」
『厭よ、もうちょっと呪うわ』
そう言い、明野は消えた。
もう自分の前には現れないような気がした。
呪うって、誰をなのかな。
最後まで、迷惑この上ない姉だった。
笑っている自分を隆次が、なんだ、と振り返ったとき、声が聞こえた。
誰かが通りを歩いていた男に駆け寄り、言ったのだ。
「おい、聞いたか。
渋川屋の船、五隻が難破したらしいぞ」
新しい店舗のために、大量の品を乗せていたという。
「最近、店がうまくいってなかったらしいから、此処で取り返そうと、南蛮渡来の高価な品を大量に仕入れていたようだが」
そのあとの言葉はよく聞こえなかった。
若旦那がどうとか言う響きだけは、よく聞く言葉なので、耳に届いた。
隆次が振り返り、こちらを見た。
まだ雨の止まない通りを、咲夜は楼主の部屋から眺めていた。
吉原の遊女を買い続けるために、無茶な経営をした渋川屋の若旦那は店を出されたと、知らせが届くか届かないかのうちに、もう咲夜は隠し部屋から出されていた。
目の前に端座している左衛門が言う。
「咲夜。
いや、二代目明野。
こうなったからには、お前を今までのようには置いてはおけないよ」
はい、と咲夜は左衛門の前で両手をつく。
わかっていた気がする。
いつか、こんな日が来ること。
それにしても、薄情なもんだな、と思っていた。
まだ船は沈んだばかりなのに。
だが、まあ、これが吉原だ。
外からは店の遊女たちの笑い声が聞こえていた。
私もいずれ、あそこに混ざるのだろうか。
そう思いながら、顔を通りに向けた。
外に既に見慣れた顔の坊主が立っていた。
「遊女になるのか」
外に出ると、那津は言った。
「私は最初から遊女よ。
ただひとりの客に買われていたから、それを忘れそうになっていただけ。
それとも、貴方が客になってくれる?」
那津は黙っている。
彼に、毎日来るほどの金はないだろう。
咲夜は少し笑ってみせる。
「……姉さんが願ったように。
私も吉原一の遊女を目指してみようかしら」
此処に居る、その意味を見出すために。
「向いてないだろ」
那津は、そうぼそりと言った。
俺には何も出来ない。
咲夜と別れ、花菖蒲を植える準備をしている往来を那津が歩いていると、何処かの店に行った帰りらしい桧山と出逢った。
「先にお行き」
と桧山は連れていた新造たちを行かせた。
桧山は花菖蒲を見た。
やわらかな雨を受けながら、傘を差した桧山の姿は美しい。
恋人の死体を前に、うっかり隆次が見惚れてしまうのもわかる気がした。
「花は咲いて、枯れるけれど、また来年には美しい花を咲かすだんすが。
人もそうして、何度も生まれ変わったりするんだすんかね。
だったら、たまには貴方とも一緒になってみたいものだんすね」
桧山は軽い調子で来世を語った。
そんな風に生きていければな、とも思ったが、彼女にも鬱屈した想いがあるのを知っていた。
『幽霊花魁を、あの女を消してください』
「桧山」
そう呼びかけると、
「はい?」
と彼女はこちらを見る。
吉原一の花魁らしい、艶やかな笑顔だった。
今から咲夜が向かおうとしている闇の中にありながらも、晴れやかな笑顔だった。
そうできる彼女を、今、心の底から尊敬する。
長く住んだ部屋を片付けようとしていた咲夜は背後から、いきなり腕を捕まれた。
「なに? どうしたの?」
「此処から出るんだ」
長太郎だった。
「え、でも――」
いいから、と自分をからくり扉まで引きずっていったが、既にそこは開いていた。
楼主が立っている。
今まで逃亡しようとした遊女やそれに手を貸した人間を折檻し、殺してきた左衛門だったが、ただ悲しそうに、そこに立っている。
「長太郎」
自分の側を尚も通り抜けようとする彼を、左衛門は呼んだ。
幼少より面倒を見、共に手を汚してきた相手。
そして、長太郎はやはり噂通り左衛門の子なのだろう。
今の見たこともない左衛門の表情でわかった。
それでも、長太郎が自分を連れて逃げれば、左衛門は彼を放っておくことはできない。
「長太郎」
淋しげに左衛門は長太郎の名を呼び、自分より大きくなった彼をただ見つめていた。
咲夜は少し緩んだ長太郎の指を外させる。
家族で憎しみ合ったり、呪い合ったり、殺し合ったりするのはもうごめんだ。
扉の向こう、階段が見えた。
ちらと窺えるそこに、今はもう、誰の姿もない。
「よう。一杯やってんのか、珍しいな」
いつもの店に居た那津の許に、小平が現れた。
横の畳にどっかりと起こしを下ろす。
「まあ、呑まなきゃやってらんねえか」
小平は、ほらよ、と自分に運ばれてきた酒もこちらに向けてくれる。
「他所の男に囲われるのと、遊女となって生きるのと。
好きな女にどっちになって欲しいかと言ったら。
……ま、どっちも厭だよな」
そのとき、弥吉が飛び込んできた。
「小平さんっ」
と取り乱した様子で言う。
「渋川屋の若旦那が、女房、お福を刺して逃げました」
話を最後まで聞くか聞かないかのうちに、那津は外に飛び出していた。
「おいっ、待てっ」
小平の声が追いかけてくる。
ずっと思っていた。
周五郎は、咲夜には余裕をもって接していたが、内心はそうではないのだろうと。
初めて扇花屋に行ったとき、咲夜の隠し部屋のある壁に張りついている町人風の男を見た。
生霊だ。
ぞっとする、と思ったのは、その顔立ちが整い過ぎているからだけではなかった。
強い執着を持って、その壁に張りついているのがわかったからだ。
自らが囲いながらも、咲夜には手が出せない。
その想いが、周五郎をあそこに張りつかせていたのだ。
そんな周五郎が破産し、彼女を手放すことになったとき。
彼とその妻が、どんな諍いを起こし、どんなことになるのか。
そして、この先、何が起こるのか。
手に取るように想像できた。
通りの道は、あちこちに水たまりが出来ていて、何度も足を取られる。
アスファルトの道なら、もっと速くに走れるのに。
そう口惜しく思いながら、落ちていく陽を見つめた。
いつの間にか、雨は上がっていた。
重い気持ちで、いつものように手燭の用意をしに廊下に出た長太郎は、こんな時間だというのに、装わない桧山が立っているのに気がついた。
不審に思い、その顔を見つめると、
「もう諦めたの?
あの娘を逃がそうとしたそうね」
と訊いてくる。
長太郎は彼女の手にあるものを見ながら動かずにいた。
「ねえ、私のこと、少しは想ってくれていた?」
「ええ」
桧山は嗤いながら、長太郎に近づく。
そのまま静かに被さった。
耳許で甘いささやきが聞こえる。
「……あの娘が現れるまではでしょ」
背後で桂の悲鳴が響き渡った。




