花魁道中
「旦那は呼んでませんよ」
隆次はいつの間にか紛れ込んでいた小平に言った。
那津を呼びに行ったら、一緒に居た小平も付いてきたのだ。
「うるせえ、辻斬りの調べのついでだ。
なんか面白いことがあるんだろ」
ヤクザまがいの岡っ引きたちを従えているせいか、同心たちは言葉遣いが悪い。
「面白いかどうかは知らないがな」
と言う那津もまた、厭な感じを覚えているのか、黙って桜を眺めている。
「何か呑むか」
と間が持てず訊いたとき、それはやってきた。
「花魁道中だ」
と近くに居た母親に連れられた子どもが声を上げる。
誰もが足を止め、その一団に目を奪われた。
美しい新造や可愛らしい禿。
それに雨もないのに傘を差す長太郎を引き連れた花魁。
強い風に辺り一面にまき散らされた桜よりも艶やかな――。
その顔を見た隆次は、
「……明野」
思わず、そう呟いていた。
気がつくと、斜め後ろの引手茶屋から男が出て来ていた。
店主たちを従えたその男は緋毛氈の敷かれた台に腰を下ろす。
周五郎だ。
花魁道中はすぐ側を通っていった。
花魁は、ちらと遊女らしい妖しい目線を自分と那津にくれただけで行ってしまう。
真横に居る那津は息をするのも忘れた様子で、その一団を見送っている。
彼の掌が汗ばむことまで感じられたのは、自分もそうだったからかもしれない。
華やかなその一行は、周五郎の居る茶屋で足を止めた。
周五郎は微笑みを浮かべ、花魁に手を差し出す。
彼女はその上にそっと手を載せた。
「渋川屋の若旦那だよ」
そう囁く声が周囲から聞こえた。
「……明野だ」
「明野じゃないかっ」
「そうだ。
若旦那に囲われてる明野だよっ」
「なんで急に出て来たんだ?」
「昼間の騒ぎのせいじゃないのか」
「いや、若旦那が隠しておけなくなったんだろう? 自慢したくて」
なんと美しい女だと、みなが見惚れる。
確かにその顔は明野とよく似ていたが、違う、と隆次は思っていた。
明野だったら、此処までではない。
顔立ちはともかく、こんなにも人を呑み込む空気は持ってはいない。
私は知っていた。
自分の未来を知っていた。
私は――
いつか明野を殺すと知っていた。
「ありがとうございました。若旦那」
引手茶屋から引き上げ、扇花屋に帰ったところで、咲夜は深々と頭を下げた。
いやいや、と周五郎は手を振る。
「まともな方法で吉原に来たの、初めてだから緊張したよ」
そう彼は笑っていた。
ついて歩いてくれた桂もほっとしたように微笑んでいる。
愉楽が目を剥いてこちらを見ていたのが、彼女にはツボだったらしい。
いつまでも繰り返し言い、笑っていた。
「明野」
はい、と振り向いた咲夜は左衛門の姿を見る。
よくやった、という表情をしている彼に言った。
「このためだったんですよね」
「うん?」
と左衛門は笑ったまま訊き返してきた。
「このために私をずっと隠していたんですよね」
冷酷な楼主は何も言わずに微笑んでいる。
明野が殺されたあと、程よく彼女を頼って私が現れた。
でも、私はまだ子どもだったから、大人になるまで隠していたのだ。
明野の身代わりをしてもおかしくない歳になるまで。
見世の稼ぎ頭である桧山の不名誉な噂を打ち消すために。
再び、二階で催された宴会の席には、若旦那が那津たちも呼んでくれていた。
気心の知れた人間しか此処には居ない。
「あーあ、顔晒しちゃったから、もう外を歩けないかも」
そんなことを言った咲夜に、那津と隆次が二人揃って言う。
「大丈夫だ」
「……なんでよ」
すぐにわかる、と隆次は言った。
誰もが酒宴に興じる中、真っ先に騒ぎそうな小平が今日は静かだった。
咲夜は自分が、はばかりに立ったとき、すっと小平が立ち上がるのを見た。
廊下に出ると、側に来ようとしたので、早足で角まで行く。
慌てて追いかけてきた小平を袖で顔を隠して振り返り、言った。
「こんな顔かい?」
小平が呆れて立ち止まる。
「どんぶり洗ってたのは、きっと私ですよ」
もう怖くない、と言うように彼に告げると、小平は、ふっと笑ってみせた。
「あんたの姉さんだったんだってな」
小平があの場に居たことは、もう聞いていた。
「……私の姉さんは、桧山姉さんだけです」
何かを謝ろうとした小平の言葉を遮るように、そう言うと、小平は言った。
「あんた、吉原の遊女にはなれないな」
「なんでですか?」
「その言葉遣いだよ」
「これから覚えますよ。
……って、遊女になりたいわけじゃないんですけど」
障子を開けて現れた周五郎を見て言う。
「もうなってるか」
と。
左衛門の策は功を奏し、自分が周五郎に囲われている理由もなくなった。
これからどうなるのだろうな、と思う。
いつこうなってもおかしくなかった。
左衛門はずっと待っていたのだ。
自分が明野として表に顔を出すのに、最も良いと思われる、そのときを。
周五郎を見つめていると、彼は側に来て言う。
「帰るよ」
「えっ」
「たまには早く帰らないと、お福がうるさいからね」
お福というのが、彼の女房のようだった。
そんなことを言ってくれるのは初めてだった。
いつも、いいよいいよと言ってくれるばかりで。
愚痴を言われて、初めて少し、彼に近づいた気がした。
「今までありがとうございました」
と頭を下げると、
「今まで?」
と彼は笑ってみせる。
「大丈夫だよ。
ずっとお前を買い続けるよ。
お金が続く限りはね」
「でも――」
「左衛門の考えとは別に、私は私の道楽でお前を買っていたんだから」
また来る、と周五郎は肩を叩いてきた。
「また碁の相手をしてもらうから、腕を上げて待っておいで」
はいっ、と咲夜は答えた。
「こてんぱんにしますから、待っていてくださいっ」
「いや、そうじゃねえだろ……」
どんな花魁だ、と小平が突っ込み、周五郎も笑う。
帰っていく彼を見送る準備をしながら、
「よかった」
と呟くと、まだ側に居た小平が、何故か、
「わかってねえなあ」
と呟いていた。
引手茶屋まで咲夜が彼を見送るのに、那津もまた付いていった。
最後の夜桜の舞い散る中、なんだか落ち着かない気持ちになるのは、こんな姿の咲夜を見たせいか。
それとも、周五郎を初めて見たせいか。
すっきりとした男前の周五郎は、思っていたのとまるで違っていた。
そして――。
周五郎は最後まで笑顔で咲夜と別れた。
彼女に、指の一本も触れることなく。
今日はそれで終わるのだろうが、いつか訪れるだろう、その日が怖くもあった。
咲夜の手前、なんの未練もなさそうに去っていく周五郎だが、彼の内心がそれとは違うことを自分は知っている。
「本当にもう終わりだな」
と少し晴れ晴れとした顔で、小平が桜を見上げた。
まだ花はついているが、恐らく、美しくなくなる前に、また何処かの山へと持ち出されることだろう。
なんだか、遊女たちと似ている。
あの遣手婆だとて、まだ充分女の盛りだが、落ちていくさまを客に見せるのは粋でない。
そういう考えから、此処では早くに女たちに身を引かせるのだろう。
客をとるのは辛かろうが、もう終わった女として、盛りの女たちの側に居るのも辛かろう、と思った。
まあ、女の心情の本当のところなぞ、自分にはわからないが。
そんなことを思いながら、那津は小平とともに、散りゆく桜を眺めた。
翌日から、久しぶりに姿を現した明野は評判となった。
見た事もないほど美しい女だったと。
それを毎晩買う渋川屋は一体、どれ程の金を積んでいるのだろうと噂された。
数日後、那津が道具屋の前で小平たちと串団子を食べていると、町人たちが話しているのが聞こえてきた。
「いや~、俺、見たんだよ、明野を。
もの凄い別嬪だった。
あれは、桧山を越えるね。
……まあ、化粧が濃かったが」
そちらに、するりと背を向け、団子を食べていた咲夜が吹きそうになる。
「なんでい。じゃあ、桧山の方がいい女じゃねえか。今はすっぴんが粋だろうよ」
そのあとも、他の遊女の品定めをしながら、男たちは歩いていってしまう。
な? と隆次が言うと、
「なじゃないわよっ」
と咲夜は叫ぶ。
「あの場合、しょうがないじゃないのっ。
姉さんに似せるために化粧濃くしたのよっ」
まあ、すっぴんと化粧とで、そう違うわけでもないのだが。
今、此処に居る咲夜はカラッと明るい町娘にしか見えないから、誰も遊女だなんて思わないというだけの話だ。
小平も自分も笑ったが、少し厭な予感もしていた。
咲夜が顔を晒してしまったことが。
未来に向けて、よくない現実を迎えてしまうような。
そんな気がしていた――。




