江戸の町 ――道具屋――
那津が行きつけの煮売り酒屋で酒を呑まずに食事をとっていると、数人の男が、どかどかと畳の上を歩いて来、膳の前に腰を下ろした。
「おい、あんたかい?
最近、吉原に出入りしてるとかっていう、坊主は」
出入りしてるとか人聞き悪いな、と思いながら、那津は蜆の味噌汁を啜る。
あれから、何度か吉原に行った。
だが、不思議なことに、何度通っても桧山の言う霊が那津には見えないのだ。
他の遊女の証言からも、そこに霊が居ることに間違いはないのに。
階段下に踞っていた。
倒れていた。
下りている途中で悲鳴が聞こえてきた。
夜の街で働く女は、その生活の不規則さゆえ敏感なのか、霊が見えやすいというが。
此処、吉原でも、それは例外ではないようだった。
そして、それを語るのは若い女が多いようだった。
女というより、子供だ。
無邪気な禿や、新造などで。
他の遊女たちは何も語らない。
『あら、なんだ、客じゃないの』
とつまらなさそうに言うだけだ。
吉原でのことを思い出していると、今、目の前に居る町人らしき男が言ってきた。
「あんた、霊が祓えるから呼ばれたんだってな。
だったら、普通なら入れないところにも入れるんだろう?
あそこの扇花屋っていう大見世には、誰もお目にかかれない花魁が居るそうじゃないか。
幽霊花魁とか、隠れ花魁とかいう」
那津は箸を止め、男を見る。
ようやくこちらの視線が向いたことで、男は調子づいたように語り出した。
「見たこともないような別嬪らしいよ。
誰かの囲われものでさ。
相当な金積んで、表に出さないらしい」
それを聞いた側の男が言ってくる。
「そんな金があるのなら、なんで身請けしないんだい?
花魁が受けないのかね?」
「嫁が怖いそうだ」
どんな金持ちでも一緒だねえ、と顔を見合わせ、男たちは笑っている。
「生きた女なのかい? 幽霊花魁って。
俺は幽霊花魁ってえのは、階段下に、ぼうっと立ってる霊のことだって聞いたけどなあ」
と別の男が小首を傾げながら言ってきた。
そうだ、と最初の男が、ふいに思いついたように言う。
「なあ、あんた。
今度、その幽霊花魁、見かけたら絵にしてくれよ。
上手いんだろう?」
自分は彷徨って廃寺に住み着いたため、檀家も寄進もなく。
絵を描いたり、頼まれて霊を祓ったりして、その日暮らしをしていた。
稼ぎらしい稼ぎも他にない。
あとは、ならず者に絡まれていた娘を助けて、饅頭をもらったくらいか。
霊なんて祓ったところで、其処此処に居るのにな、と思いながら、那津は格子窓の向こう、往来を眺める。
何か心に疾しいところのある人間が、何もかもお見通しな感じのする霊を嫌うのだろうか。
だとしたら、あの桧山も――。
そう思ったとき、ふと、肩が痛んだ。
そこに手をやり、振り返るが、好奇心むき出しの男の顔しか見えなかった。
「一杯、やるかい?」
と男は酒を勧めてくるが。
この時代の酒は薄く、幾ら吞んでも酔えそうにもなかった。
食事を終えた那津は、通りを歩いていた。
江戸の町は男が多かったせいもあるだろうが。
屋台も呑み屋も多く、便利だ。
そんなことを考えながら、通りを眺めていると、馴染みの道具屋に声をかけられた。
道具屋と名乗っているが、要するに、なんでも屋だ。
主に小間物を扱っている。
じゃあ、小間物屋でいいんじゃないかと思うが、妙なこだわりがあるようだった。
年の頃の近い男がやっていて、なんとなく話が合うので、いつも、なんとなく覗いている。
「見ていかないか?」
またロクでもないものでも仕入れたのか、機嫌がいい。
パラパラと店先にある貸し本をめくる。
貸本屋が此処にいつも何冊か置いていくようなのだ。
出張店舗みたいなものだろうかと思って眺めるその横には何故か鎌がある。
どういう並びだ、と思う那津の視線に気づいた道具屋は笑い、
「いや、その話に出て来る品を本の周りに置いてみたんだ。
読んだら、欲しくなるかと思ってな」
そもそも店頭で読まないだろ、と思いながら、本の周囲に置かれた鎌と包丁、それに簪と古い帯と唐辛子を見た。
とりとめがなさ過ぎて、どんな話なのか、いっそ気になるな、と那津が思っていると、
「そういえば、お前、最近、吉原に出入りしてるらしいじゃないか」
と道具屋が笑って訊いてくる。
この男が吉原に興味を示すとは思わなかったな、と思いながら、それらの道具から視線を上げると、道具屋は、
「いや、俺はもともと、吉原の中の小間物屋で働かせてもらってたんだ」
と言う。
吉原の中には、そこで暮らすものたちのために、遊女屋以外の店舗も数多くあり、賑わっている。
この男も吉原に居たというのなら、幽霊花魁のことも知っているだろうかと思い、桧山の頼みで、幽霊退治に行っていると打ち明けた。
すると、道具屋は、ああ、と笑う。
「幽霊花魁――。
隠れ花魁とも言うらしいな。扇花屋に出る幽霊だとも、滅多なことでは拝めない別嬪の花魁のことだとも言われているが」
俺の聞いたところによると、と道具屋は語り出す。
「便所に行く途中の客が、見たこともないような美しい女を見て、あの女は誰だと見世の者に訊いたら、そんな娘はおりません、と言われたのが始まりらしい。
だから、俺は生きた女のことだと思ってたんだが。
悪霊退治をやるお前に桧山が、その女を退治しろと頼んだってことは、やっぱり霊のことだったのか?」
「さあ。江戸の連中が言っている幽霊花魁がなにを差しているのかは知らないが。
少なくとも、桧山は、幽霊花魁とは、階段下に居る霊だと言っていたな。
だが、俺が行ったときは階段下に霊なんぞ居なかったがな。
階段手前の壁に男の霊がひとり張り付いていただけだ」
そう言うと、道具屋は何か考える風な仕草をした。
だが、そのとき、店の奥から、可愛らしい声がした。
「幽霊花魁ねえ」
はっとするほど愛らしい娘が姿を現した。何処ぞの武家の娘かと思われる雰囲気だが、商家の娘の身なりをしている。
彼女は幼げな風貌に似合わぬ表情で、にやりと笑って言った。
「扇花屋で噂の『幽霊花魁』。
一度見てみたかったんだけど。
そう。
階段下に居る霊のことなのね」
「……誰だ、この娘」
その娘の容姿に密かに驚愕しながら道具屋に訊くと、娘は腕を組み、少し見下すようにこちらを見ながら言ってきた。
「人を指差すなって習わなかったの? お坊様」
そう言ったあとで、
「……お坊様よね?」
とこちらの風体を訝しんでか、娘は確認するように訊き返してくる。
真っ黒な法衣を身にまとっているのに、剃髪もせずに、不思議なざんぎり頭をしているからだろう。
幼い顔立ちなのに、桧山よりも更に、上から物を言ってくるような彼女の顔を凝視して、
「ねえ、どうかした?」
と訊かれてしまう。
「ああ、いや――」
と曖昧に誤摩化そうとすると、
「幽霊花魁並みに見惚れたんじゃないか?」
と道具屋がからかう。
「いや、そういうわけじゃない」
とすぐさま否定してしまうと、
「……不愉快」
とだけ娘は言った。
出て行こうとする彼女を道具屋が慌てて止める。
「待て。
ひとりで帰るな」
「大丈夫。
そこの紅屋の前で、待ち合わせてるから」
そう言い、一度、奥に入ると、彼女は風呂敷をひとつ持って来た。じゃあね、と出て行ってしまう。道具屋は、こちらを振り返り、
「おい、那津。
お前、帰るのなら、あいつを送ってやってくれないか?」
と言ってきた。
ああ、と答え終わらないうちに、じゃあ、急げ、と強引に店をたたき出される。