先見
私は知っていた。
自分が誰かを殺してしまうこと――。
いい予見も、悪い予見もあるけれど、これ以上、悪い予見もない。
自分がいつか人を殺すと知って、生きて行くこと。
逃げられる術があるのなら試してもみるけれど、私にはそこまでのことはわからない。
私は――
自分がいつか明野を殺すと知っていた。
店を訪れたその男に、隆次はつい、
「今日は咲夜は居ないぞ」
と言ってしまう。
「別に咲夜に会いに来たわけじゃない」
ほら、と那津は餅菓子をくれる。
通りがかりに無理やり買わされたのだと言う。
なんのかのと言いながら、人の良い男だと思う。
「お茶でも淹れよう」
と奥に入った。
番茶を注ぎながら、ちらと入り口に腰掛けた那津の背中を見る。
あそこに明野が張り付いているのかと思えば、多少憎らしくもあるが。
明野のことだ。
別にこの男が気に入って引っついているわけではあるまい。
ただ単に、咲夜が気に入っているようだから、離れないだけだ。
うらやましくなんてない。
死んでも、悪霊になっても会いたいなんて嘘。
何が好きだったって、彼女の美しい顔が好きだったから。
明野は俺に対して、本気ではなかった。
今ではそう思っている。
そうでなければ、こちら振り向きもせず、他の男の背に張りついているはずはないと。
いつだったか、慰めるように、背中にすがってきた咲夜が言った。
会いに行ったら? と。
明野に会わせてもらいに、那津のところに行けと言うのだが。
結構だ。
美しい彼女が好きだった。
それは間違いないのに。
同じ顔の咲夜にはときめかない。
それが何故なのか。今は考えたくないと思った。
少なくとも、明野がこいつの背中に張りついている間は――。
「不機嫌だな……」
やたら整った顔をした坊主は自分に向かい、そんなことを言い出した。
「周五郎というらしいな。
咲夜を囲っているのは」
「ああ。
渋川屋の若旦那だ。
あのとき、死んだのが他の遊女で、突き落としたのが、また別の遊女だったら、楼主はそのままにしたろうが」
周五郎か、ともう一度、那津は呟く。
「不思議なものだな。
見たこともない男だが、名前を手に入れただけで、今まで幻のようだったその男が自分の中で、実体を持ったような気がするよ」
「余計腹立たしくなるか?」
と言って笑うと、なんでだ、と言う。
「そうだ。
思い出した」
と那津が巾着袋を投げて寄越した。
ずしりと重い。
「そういえば、お前に金を返しに来たんだった」
「金?」
「何処で俺の居場所を訊いたのか、寺に裏茶屋の男が訪ねてきて、何故か大金を置いていった。
いらないと言っているのに、申し訳ありませんでした、と投げ捨てるように置いてったんだ。
どうもそうしないと気が済まないようだったから、人助けと思って受け取ったんだが。
俺が持ってても仕方ないから、お前に返すよ」
「お前……それは完全にあの男、忠信様とやらを始末するのに、手を貸してるだろう」
そうかもな、と那津は言う。
手にある巾着はずしりと重い。
自分が那津にやったのは、桧山の想いが詰まっていた金だった。
彼女が誇りを捨て、厭な客をとってまで貯めた金だ。
きっと桧山の苦痛と罪悪感が染み込んでいたことだろう。
「俺には明野を助けてやることは出来なかった。
あいつが死んだことに口を噤み、初めて、あいつを身請けできるほどの金を得た。
皮肉な話だ」
そう自虐的に笑い、通りを見る。
楽しげな子どもたちが駆けていくところだった。
「そういえば、遣手が咲夜に無理やり客をとらせようとしたとき、布団の中に居た血塗れの女というのは、明野だったんだろうかな」
そう那津が訊いてくる。
「そうかもな。
おそらく咲夜のためではなく、咲夜に客をとらせまいとして」
自分がなりたかった吉原一の花魁に、咲夜をさせないために。
明野はそのくらいのことはやりそうな女だった。
なのに、何故自分はいつまでも。
彼女に心を残しているのか――。
明野を背負った那津は、何を考えているのか。
相も変わらず騒がしい往来を、ただ目を細め、見つめていた。




