小平が見た霊
道具屋を出て歩いていると、雇っているならず者たちと話している小平と出会った。
少し離れた位置から那津は呼びかける。
「小平。
……小平。
小平」
振り向かないので、足許の小石を拾って投げた。
しかし、さすがにそこは、まさかの町と言われる江戸の同心、振り返らずに受け止める。
あのときぬかったのは、やはり、単に斬るかどうか迷っていたからなのだろう。
「なんの用だっ」
「誰ですか、こいつ。
小平様に石を投げるなんて」
とならず者のひとりが言う。
小平は、にやりと笑い、
「あのときの与力様だよ」
と言った。
ああ、と言った連中の表情が変わる。
「普段はこういう得体の知れない風体をして、人目を憚っていらっしゃる。
隠密与力の忠信様だ。
世間的には死んだことになっているから、気をつけて物を言え」
「昨日は取り逃がしまして、申し訳ありません」
と男たちは改まった調子で言ってきた。
「忠信様ですか。
お名前、伺ったことがありますね」
と誰かが言い出して、ぎくりとした。
「小平様がお父様の後を継いで、同心になられる前に亡くなられたような」
それで、小平は面識がなかったのか、と思った。
「辻斬りの話、よくは聞いてないんだが、誰か詳しく話してくれないか」
とこの状況を利用するようで悪いなと思いながらも、那津が訊くと、へえ、とひとりが腰低く話し出した。
「最初は吉原に物見遊山に行った女のひとりが襲われたんですよ。
みんなで帰ってる途中、茶屋を眺めていて遅れて、人気のないところで手を切られたらしいです」
「手? 腕じゃなかったのか?」
「えーと、確か、手でしたよ。
次の女は手首辺りを。
その次は、こう、肘の辺りを」
と男は己れの肘を曲げ、触ってみせた。
「こうして改めて聞いてみると、段々、切られる位置が上がってってるな」
と小平が言う。
「場所が移動してってるから、『腕』とひとまとめに語られているわけか。
出来れば、正確な場所を知りたいんだが」
「そうですねえ。
最初の女以外ははっきりすると思いますよ」
「なんで最初の女は駄目なんだ」
「いえね、田舎から見物に来た娘だったんで、旦那」
と男は小平を見る。
「手の甲をやられてたと聞いた気がするな。
三番目の娘以外はうちの管轄じゃないから、それまでの事件はよく知らんのだが」
この時代も管轄に縛られてんのか、と思った。
みなそれぞれが自分の知っている話を語り、丁寧に頭を下げて去っていった。
小平が笑う。
「あいつらがお前にペコペコするのは、お前が与力だからじゃないぞ。
お前の剣さばきを見たからだ」
小平は自分が褒められたかのように得意げだった。
「小平」
「うん?」
「お前、今日、道具屋に行って、物言いたげな顔をしていたらしいな」
小平は黙っている。
「お前は吉原は嫌いだと言っていたが、隆次に言わせると、訳もなく、吉原を嫌うような男は居ないとさ」
「そんなの、人それぞれだろうよ」
「俺もそう思うんだが。
隆次はそうは思ってないらしいぞ」
「俺は接待でしか吉原に行かないからな。
鬱陶しい場所だと思ってる。
だが――」
と小平は腕を組み、黙った。
だから、代わりに口を開いた。
「俺はお前の夢が気になっていた。
途中までは確かに、一般的な話だったのに、突然、
『こんな顔かい?』
と女の顔になるのは何故だ」
夢だから、と言い逃れることは出来たはずだが、小平はそうはしなかった。
諦めたようにひとつ、溜息をついた。
「お前が疑っている通り、あの夢を見たのは、あの咲夜という女を見たからだ。
夢の中で、男の身体に、あの女の顔がはまっていた」
いや、違うか、と言う。
「あれとよく似た女の顔が」
小平は諦めたように話し出した。
「昔、付き合いで吉原に行った。
菖蒲の季節だった。扇花屋の前で、立ち話をしている上役から少し離れて、ぼんやり待っていた。
そのとき、見たんだよ。
女の悲鳴が聞こえて、階段下に女が落ちてきた。その女の首が、ごろりとこちらを向く。
女はすぐに物のように片付けられたよ。
それに気づいた上役と、一緒に居た誰か偉い奴が、左衛門と話して戻ってきた。
黙っておけと、きつく言われたよ。
俺が見たのは、見世の外からだったから、何が起こったのか、正確なところはわからない。
だけど、吉原には吉原の掟があって、あそこの番所がそうだと言ったら、それで終わりなんだよ。
だけど、あのとき、ごろんとこちらを向いた首の、何処も見ていない女の目が俺を向いていて」
顔が奇麗なだけに壮絶だった。
今でも夢に見る―― と小平は言った。
「お前が見たその女は、咲夜の姉の明野だ」
明野、と小平は口の中で繰り返す。
初めて知った遺体の名前に、小平なりの感慨があるようだった。
「なんでも、死んだのは渋川屋のご隠居、お気に入りの新造だったって話だ。
水揚げを楽しみにしてたとかで。
それで、そこで起こった『事故』を隠蔽したらしい」
と小平は言う。
「事故ねえ」
私が明野を殺した、と桧山はそう告白した。
「事故を隠蔽したところで、ご隠居は怒ったんじゃないかと思うが、その辺のところはよくわからねえ。
もう俺は関わりたくなかったからな」
「厭な話をさせて済まなかったな」
「あの娘、あの遊女の妹なのか」
小平は珍しく、申し訳なさそうな顔をする。
「俺はあのときから、あの女の目が忘れられなくて、いつも追い立てられるように、下手人を捕まえなきゃと思っていた」
あのとき捕まえられなかった下手人を、と小平は言うが、その下手人は恐らく永久に捕まることはないだろうと思われた。
「理屈も常識も法も通じねえ、吉原が嫌いだ。
あそこはこの世じゃない。
地獄だよ」
地獄か。
そんな中に、ひとり、孤高の存在として、咲夜が存在している。
いつまで彼女はあそこに、あのままで居られるのか。
『最初は人のいい若旦那は、私たちに協力してくれてただけだったんだんすが』
そう桧山は言っていた。
「幽霊花魁を見たと言ったろう」
と小平が重い口を開いた。
「その『事故』からしばらく経った頃、俺はまた、接待で違う上役について、吉原に行った。
通りを歩いているとき、扇花屋の前を通ったんだ。
人間ってな、見たくないとこほど、見ちまうもんだろ?
まだ日の高い時間だった。
明るい外から薄暗い見世の中を見ると、階段下に女が立っているのがぼんやり見えた。
その女、新造のような格好をしていて、俺はぎくりとした。
あのとき、運ばれて行ったのも新造風の衣裳をまとった女だったからだ。
そのとき、俯き、階段下を見ていた女が顔を上げた。
息が止まりそうになったね。
あのとき、死んだ女にそっくりだったからだ。
俺の様子が妙なのに気づき、上役が、どうかしたのか? と声をかけてきた。
咄嗟に何も思いつかず、化け物見ちまって、と告白すると、一緒に歩いていた大店の主人が笑顔で言った。
扇花屋には、幽霊花魁って、どえらい別嬪の霊が出るらしいと。
俺は、俺を呪って出ているんだと思った。
あのとき、女の死体を見て見ぬふりをした俺を呪って、出ているんだと思った」
「小平……」
なんだ? と告白を終えた小平がこちらを見る。
「前にも言ったが、お前に霊は見えない。
お前が見た、それは咲夜だ」
「なに?」
「それは恐らく、階段下に立って、転がってる明野の霊をぼうっと見てた咲夜だろうよ。
明野はな、お前が思っているより、性根が悪い。
お前に祟るのなら、もっと徹底的に祟るさ。
そんなぼんやり立ってるとかじゃなくて」
「そうか。
ありがとうよ。
少し、胸のつかえが取れたぜ」
でも、お前―― と小平が後ろを指差して言う。
「お前の後ろに付いてんじゃねえのかい、その性悪な霊」
見えてないから、つい言ってしまったが、本人を前に罵っているようなものだった。
それこそ、祟ってこないだろうか、と思い、
「今、初めてわかったよ。
恐ろしいものだな、霊が見えないってことは……」
と呟くと、小平は、阿呆か、と言っていた。




