消えずの行灯
小平は夜道を走って逃げていた。
ぽうっと川端の屋台の行灯に火が灯っているが、人気はない。
これが噂の本所の『消えずの行灯』かと思ったが、蕎麦屋の店主はしゃがんで、どんぶりを洗っていただけだった。
本所七不思議のひとつ、消えずの行灯。
誰もおらず、油も足さないのに、行灯の火が消えない蕎麦屋があって、そこを訪れると不幸になると言う。
これとは逆に、あかりなしそばという話もある。
行灯の火をつけてもつけても消えるというのだ。
これに遭遇しても、やはり不幸になると言う。
不幸ってなんの不幸だよ、と思いながらも、小平は店主の丸い背中にほっとしていた。
「へい、なんにしやしょう」
男はどんぶりを洗いながら訊いてくる。
「いや」
蕎麦を食ってる場合じゃないんだが、と思いながら、振り返る。
暗い江戸の夜。
得体の知れないものが追ってきている気配があった。
自分の頭の中では、それは着物をはだけた女になっていた。
早く逃げた方がいいと思いながらも、明かりもない暗い道。
人気のある場所に居たいのも確かだった。
何も注文せず、何度も闇を振り返る自分に、店主が訊いた。
「旦那ぁ、もしかして、何かから逃げてらっしゃるんで?」
いや、と繰り返す。
同心の自分が何かから逃げているなどと、そう思ったとき、男はどんぶりを手に振り返った。
「そりゃあ、もしかして――
こんな顔からですかい?」
顔のない男を想像していた小平は悲鳴を上げた。
男には顔があった。
だが、輪郭は確かに男なのだが、その目鼻立ちは女のものだった。
何処かで見た、女の顔。
ひいっ、と叫び、小平は目を覚ました。
頭の上に誰かがしゃがんでいる気がして、寝たまま身構えたが、そこには誰も居なかった。
『仕方ない。
これを片付けてくれ』
まるで物のように運ばれていった女。
眩しい朝の光が障子越しに降り注いでいる。
ああ、最悪な夜明けだ。
なんでこんな夢を――。
いや、わかっている。
『あれ』を見たからだ。
「今日はまた一段と機嫌が悪いですねぃ」
弥吉に言われ、屋台の寿司屋の前で、うるせえや、とわめいたとき、
「小平」
と自分を呼ぶ声がした。
だから、偉そうなんだよ、てめえは、と思いながらも、那津を振り返る。
「なんか用か」
「例の辻斬りのことだが」
「何も進展してねえよ」
と言うと、
「機嫌が悪いな」
と弥吉に言われたのと、同じ事を言われる。
ほらね、と弥吉は笑っていた。
あの一件以来、この似非坊主ならぬ似非侍に弥吉は心酔している。
「夢見が悪かったのよ」
些か大人げなかったか、と反省しつつ、ぼそりとそう言うと、
「夢占いとかどうですかい?
悪いと思った夢が、意外といい夢だったりするそうですよ」
と弥吉が言ってきた。
那津が、そういえば、と言う。
「江戸の夢占いは吉と出ることが多いからな。
だが、こいつの運の悪さからいって、ロクでもない結果が出そうだが」
「いつもロクでもないことを言ってるのはお前だろう」
と自分はさておき言ったが、そのまま黙っているのも気持ちが悪いので、つい、夢の内容を口にしてしまった。
ふうん、と那津は寿司も食べないまま、腕組みをし、呟く。
その横から弥吉が、
「旦那の夢は、聞き齧った話の継ぎ接ぎみたいで、個性がないですねえ」
と人の夢を批判してきた。
「夢なんだから、しょうがねえじゃねえか」
「個性ならあるだろう」
別に助け舟を出してくれたわけでもあるまいが、那津が言う。
「『こんな顔かい?』
と言ったら、普通、顔がないだろう?
だが、お前の夢では、顔がある」
「顔があるんなら、怖くねえじゃねえですか」
と言う弥吉に、
「俺は、顔がないより、ある方が怖い」
と小平はもらした。
そのまま、魚を売る威勢のいい棒手振りを見ていると、那津が、
「なんでそんな夢を見た?」
と訊いてくる。
それには答えず、
「ただの継ぎ接ぎの夢なんだろ。
弥吉が言うように」
此処はお前の奢りな、と言い置いて、小平は歩き出す。
「おいっ」
「吉原から金貰ってんだろ。
行くぞ、弥吉」
へい、ごちになりやした、と弥吉もへらへら笑いながらついてくる。
寿司代は、文句を言いながらも、那津が払ってくれたようだった。
死んで力が抜けた弾みか、床の上に転がったその首がごろんとこちらを向いた。
何も映さない目がちょうど外に居た自分を見る。
明るい日差しの道から、建物の中を覗いた瞬間だった。
通りには、昼下がりのゆったりとした空気の中を談笑しながら、歩く人々。
誰もそれに気づいていないように見えた。
なのに、自分の目はその女の目に吸い寄せられて、離れなかった。
『仕方ない。
これを片付けてくれ』
まるで物のように、その女は、菰に巻かれて、運ばれていった。
「覗き女が出るんだんすよ」
そう言いながら手を握ってきた遊女に那津が困っていると、遣手婆が、はいはい、と手を叩き、叫んだ。
「早く持ち場に戻りなさいっ」
「だってー、昼見世の客なんて、みんな冷やかしじゃないだんすかー」
「女の霊なんて、そこ此処に居るでしょう。
いちいち騒がないっ。はいっ、行った行ったっ」
百戦錬磨の遊女たちも遣手婆の迫力には勝てない。
渋々といった様子で引き上げていった。
「覗き女?」
と後に残った遣手婆に問うと、
「どうせ霊ですよ、莫迦莫迦しい。
客と部屋に居ると、女が障子に穴空けて覗きに来るって言うんですよ」
と言って退けるが。
霊が出ること自体は、此処では問題ないんだな、と思っていた。
この遣手は、咲夜に客をとらせようとした遣手とは別人らしいが。
この女も遊女だったのだろうに。遊女の盛りは早くに来て、早くに終わる。
婆と呼ばれるこの女も、自分の時代なら、まだ小娘扱いだがな。
そう思い、眺めていると、遣手は少し赤くなり、
「なにしてるんですか。
また、桧山がお呼びなんでしょう?」
と言ってくる。
早く行ってくださいなっ、と遊女と一緒に自分も怒鳴られ、那津は桧山の部屋へと退散することにした。




