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あやかし吉原 ~幽霊花魁~  作者: 菱沼あゆ
第一章 幽霊花魁
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幽霊花魁


 少し冷たい風の吹く土手を那津は何度も瞳を瞬かせながら、歩いていた。


 吉原へと続く、明るい日差しに照らされた川沿いの一本道だ。

 道の両脇には、葦簀張りの水茶屋が立ち並び、物売りがウロついている。


 前を歩く母親に連れられた娘たちが上気した頬で、吉原を訪れるこの日を如何に楽しみにしていたかを語っていた。


 桜の美しいこの季節、吉原を訪れるのは、自分たち男ばかりではない。


 やがて、黒塗りの冠木門の向こうに見えてきた。

 その向こうには、艶やかな桜並木が続いている。


 その両脇には、今は灯らぬ赤い提灯をぶら下げた引手茶屋がずらりと並んでいた。


 山から運ばれ、植えられた桜と山吹は今が見頃。

 それを目当てに、女性客がこの新吉原にも大勢訪れるのだ。


 自由で楽しげな町の娘たちの姿を遊女たちは羨ましく眺めるのではないかと自分などは思ってしまうのだが、実際には逆のようだった。


 幼く愛らしい禿かむろや、美しい新造たちを引き連れ、闊歩する高級遊女たちは、自信に満ち溢れ、町娘たちは彼女らを憧憬の眼差しで眺めている。


 この国の遊女の地位の高さに、他国の人間は驚くというが。

 確かに、それなりの品格が彼女たちにはあった。



 那津は新吉原の中でも、最も格の高い妓楼が軒を連ねているという、江戸町一丁目を訪ねた。


 その中の一軒、扇花おうぎはな屋という大見世おおみせの主人に呼ばれたのだ。


 入り口を入ってすぐの内所に、楼主、左衛門は座っていた。

 自分を見て、すぐに誰だかわかったようで、でっぷりとした身体を揺らして、こちらに来る。


「やあやあ。すみませんな、那津様。

 わざわざご足労いただいて」


 この吉原でも、一、二を争う大見世の主人の余裕か、妓楼の楼主にしては、温厚な雰囲気があった。


 文人である楼主も居るらしいから、その手合いかもしれないが。


 吉原が花開く夜を前に、いっときも惜しいのか。すぐに左衛門は本題に入った。


「貴方様の除霊が効果があると、桧山ひやまが何処かで聞きつけたらしくて」


 それでわざわざこの似非(えせ)坊主を呼ぶとは。

 吉原一の花魁と言われる桧山のご機嫌を楼主でさえも損ねたくはないようだった。


「まったくねえ。

 霊が出るなんて当たり前ですよ」


 此処はそういう場所なんですから、と桧山の部屋に案内してくれながら、左衛門は言う。


「私なんざ、眠ってるときに胸の上に、はだけた着物姿の女が乗ってるなんて、しょっちゅうですよ。

 居なけりゃ、逆に軽くて寝にくいな、くらいのもんです」


 それは恐らく、冷酷な楼主に化けて出ている遊女の霊なのだろうが、この調子では、出る甲斐もないというものだ。


 今も左衛門の後ろにはぞろぞろと女たちがついて歩いているのだが。


 これらは見えていないようだった。


 まあ、見えたところで、この楼主ならば、遊女の数が増えて(にぎ)やかで良い、くらいのことは言い出しそうだが。



 那津は左衛門について、賑やかな声が聞こえる二階へと上がった。

 豪奢な造りで、華やかな雰囲気ではあるが、光届かぬ場所には(うずくま)る霊も居る。


「桧山。いらっしゃったよ」

と左衛門が中に声をかけた。


 自室に居た桧山は、既に美しく装っていた。


 那津は、浮世絵にあるような、細眼の女を想像していたのだが、まるで違っていた。


 もっとも、この時代も、男の目には糸を引け、女の目には鈴を張れ、と言っていたそうだから、絵の花魁が細目なのは、ただの絵画的表現なのかもしれない。


 少々きつくも感じる彼女の顔には、あまり化粧は施されてはいなかった。


 一流の遊女は素の美貌で勝負できるというが、彼女もまさに、そんな遊女のひとりのようだった。


 床の間つきの大きな部屋に桧山は座っていた。


 隣りの部屋も彼女の部屋のようだ。

 寝具などはこの部屋には見られないので、隣りにあるのだろう。


「那津様だんすか?」

 左衛門が出て行くのを待って、彼女は、はっきりとした大きめな目で自分を見つめ、言ってきた。


「お呼びだていたしましてもうしわけないだんす」


 吉原はありんす国と呼ばれているが、妓楼によって、使われている言葉は違うようだった。


「退治していただきたいんだんす、あの女を」

 口調は丁寧だが、やはり上から物を言う雰囲気がある。


「あの女?」

「あの『幽霊花魁』だんす」


「幽霊花魁?」

「階段下におりましただんしょう?」


 桧山は畳に手をつき言った。


「幽霊花魁を、あの女を殺してください」

 きっぱりとした口調だった。




 幽霊を殺せと言われてもな、と思いながら、那津は桧山の部屋を出た。


 桧山の自室など、貧乏僧侶である自分などが立ち寄れるような場所ではないのだが、長居をしたい雰囲気ではなかった。


 其処此処そこここに霊が居たからだ。


 桧山を妬む女の霊。


 死んだ遊女や、彼女の許に通い詰める男の妻らしき生霊。


 そして、桧山に執着しているらしい男たちの生霊や死霊だ。


 桧山の動きを見ていると、それらの霊が見えているのではないかと思われる瞬間があるのだが、まったく動じている気配はなかった。


 まあ、霊が見えているからこそ、幽霊退治を頼んでくるのだろうが。


 階段下の『幽霊花魁』か。


 他の妓楼がそうであるように、この妓楼にも内所の前の階段ひとつしかないとするならば、桧山の言う階段は此処しかないはずだが、来るとき、そんなものは見えなかったのだが。


 華やかな酒宴の始まる前の気配。那津はひとり薄暗い階段の方へと向かう。


 ぎしり、と踏み板が音を立てたとき、気がついた。


 こちらに背を向けた町人風の男が階段手前の壁に張り付いていることに。


 生きた人間か?

 その方が怖い気がするが、と思いながら眺めていると、その男はゆっくりとこちらを振り向いた。


 細面の顔に切れ長の目。

 青白い肌のせいで、より引き立つ、凄みのある美貌の男だった。


 昏い瞳が遠い窓から射し込む明かりを映したとき、その男は消えていてた。


 ……やはり、霊だったか。


 だが、何故か、生きた人間に見つめられているのと変わらない緊張感があった。


 ようやく男の目から解放され、那津は、そう思う。


 それにしても、あの男、今、何をしてたんだ?


 男が居た位置まで行き、ざらついた木目に手を当てたとき、気がついた。


 一箇所、節が抜けていることに。


 男は此処に顔を寄せていた気がする。


 そう思った那津は、自分も同じように顔を近づけてみた。

 ふっと強い木の香りが鼻先でする。


 そのまま節に目を近づけると、昏い穴の中、一瞬、赤いものが見えた。


 だが、瞳の前を風が走るような感触があり、思わず身を引いていた。


 この向こうには、なにが? ともう一度、覗き込もうとしたとき、

「おや、お帰りですかな?」

と楼主が下から声をかけてきた。


「やあやあ、すみませんねえ。

 桧山の我が儘に付き合ってくださって」


 勝手にもうすべて終わったものとして、話を進めてくる。


 商売人にありがちな、上滑りな愛想の良さだ。

 そんな左衛門に急かされるようにして、下まで下りながらも、振り返ってみた。


 幽霊花魁が出るという階段下も気になったが、先程の穴も気になっていたからだ。


 そんな那津の横で、左衛門はひとり喋っている。


「桧山も経のひとつもあげてくださったら、気が済むと思うんで」


 そのあとも、高慢な態度をとる桧山の愚痴が続いたが、少し誇らしげにも見えた。


 この吉原で、そのような振る舞いを許されるほどの遊女を抱えている己れの妓楼に対する満足感からだろう。


 那津は、ひんやりとした下の階に下りてみた。


 階段下に、桧山の言う霊の姿は見えない。


 タイミングの問題だろうか?

 いや、相性の問題か?


 そう思いながら、顔を上げる。


 先程の壁の前には、もう誰も居ない。


 ただ、強い気配だけが残っていた。





 こうして、朝とも昼ともわからない場所に居ると、感覚が研ぎすまされてくる。


 人気のない廊下を上草履で歩く音。


 遊女の足音だ。


 それはこの部屋の前へ来て立ち止まり、そこから入れないせいか、ぐるぐるとそこで歩き回っていた。


 霊なんだろうなあ、と思ったとき、それちは違う重い足音が聞こえた。


「入るよ」

という声とともに、扉が開く。


「今宵はいらっしゃるからね。

 たっぷりもてなしておあげなさい」


 笑顔で左衛門が言ってくる。


 はい、と返事をし、私は両手をつき、頭を下げた。


 目の細い男がでっぷりとした楼主の後ろから現れる。


 手慣れた仕草で、私の着物を脱がしにかかった。

 私は、されるがままになりながら、ぼんやりと外の音を聞いていた。


 小間物屋でも来ているのか。遠くから遊女たちの笑い声が聞こえていた。

 




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