若旦那
「どうしたの? 荒れてるね」
は? と咲夜は顔を上げた。
今日は珍しく此処を訪れた若旦那の碁の相手をしていたのだが。
そういえば、何故か那津に、若旦那の名前を訊かれた。
『周五郎よ』
と教えると、ふうん、とだけ言う。
なんで訊いてきたのやら。
此処から助け出してくれるわけでもあるまいに。
「そういえば、今日の花魁道中は荒れてたよ」
「えっ?」
「吉田屋の愉楽が桧山に食ってかかってね」
幾ら奇麗でも、ああいう手合いはいけないね、とおっとりとした口調で周五郎は言う。
「ああ。
ええっと、桧山姉さんを目の敵にしてるとかいう」
今、この吉原では、此処、扇花屋の桧山と、吉田屋の愉楽のどちらが吉原一の花魁かと火花を散らしていた。
「顔なら、お前の方が奇麗だしね」
照れもせず、周五郎はそんなことを言う。
ありがとうございます、と言うところだろうか。
しかし、まあ、どの顔が奇麗かなんて、結構人の好みだ。
明野と自分も、ぱっと見、似ているが、雰囲気は違う。
隆次も明野の顔は好きだが、自分は好みではないと言う。
そんなものだ。
「あれは近々、何かあるね」
温厚な笑顔で、周五郎はロクでもないことを言い出した。
そこで、周五郎は何故か笑い出す。
「どうしたんですか?」
と言うと、
「いや、ふと思い出してね」
と以前、やった咲夜の失態を笑い出した。
或る日、咲夜はからくり扉を訪れた周五郎にそれを見せた。
「そういえば、周五郎様。
今日は面白いものを見つけたんですよ」
と言って。
「面白いもの?」
これです、と咲夜はいそいそと包みを広げてみせる。
うわっ、と周五郎は声を上げた。
中にはごろん、と女のものらしき小指が入っていたからだ。
「本物? それ」
「偽物じゃないんですか?
桂が今日、買ってきたんです」
桂というのは、桧山が面倒を見ている新造だ。
彼女は咲夜の存在を知っているので、話し相手として、口をきくことを左衛門に許されている。
「いやー、本物に見えるんだけど。
うちの祖父も持ってたよ、そんなの」
ええっ、と咲夜は手を離す。
吉原の遊女たちには、自分の愛が本物であることを客に証明するために、指を切って客に捧げる風習があった。
だが、もちろん、本物の自分の指を切っていたら、何本あっても足りはしない。
新粉細工の偽物の指や、首斬り役人から、死罪になった女の指を買って、客に渡していたのだ。
客は偽物とわかってはいて、それを周囲に見せびらかし、自慢する。
「明野の前の、もう吉原に居ない女にもらった指が幾つかあるよ。
もうどれが誰のかわからないとか薄情なことを言ってて。
吉原嫌いのうちの父やお福が……」
そこで、周五郎は言葉を止めた。
お福というのが、どうも、周五郎の嫁らしかった。
「厭な顔して、見てた」
とそこでやめるのも、と思ったのか、最後まで言う。
「それ、桂が首斬りの山田から買ったのなら、本物だよ。
精巧な偽物もあるけどね」
「……あげます」
「いらないよ」
「あげます」
と咲夜は笑顔で押しつける。
はいはい、と周五郎は受け取ってくれた。
「客に渡すのは、髪でもいいんだよ」
「じゃあ、髪あげます」
「なんで?」
「だって、周五郎様に何か差し上げたいから。
周五郎様のお陰で、私は客をとらないで居られるから。
ああ、でも、髪なんかより、お菓子とかの方がいいですか?」
周五郎は笑って、
「何もいらないよ」
と言う。
「ああでも、そうだね。
何かくれるのなら、少し髪をくれないか?」
「いいですよ」
女の命の髪をあっさり咲夜は差し出した。
周五郎には、女としての命を助けてもらっているようなものだ。
そんなこと、おやすい御用だ。
「長太郎」
咲夜は鋏を持ってこさせて、周五郎に少し切ってもらう。
長太郎が用意した小奇麗な袋にそれを入れ、周五郎はそれを懐にしまった。
「どうでもいいこと、思い出さないでくださいよ」
いやいや、嬉しかったよ、と周五郎は笑う。
彼は此処では酒も呑まないので、碁を打ってすぐに帰り支度を始める。
そんな周五郎に、咲夜は謝った。
「すみません。
いつも付き合ってもらっちゃって」
そう言うと、ええ? と周五郎は笑い出す。
「若旦那に来ていただけるの楽しみなんです。
他に碁を打ちに来てくれる人も居ないし」
「立派な花魁になったねえ」
と周五郎は笑ってみせる。
「ええっ?
どうしてですか?」
「別れ際にそうして、また男を来させるようなことを言うのさ、此処の人たちは」
いやいや、そんなんじゃないんですけど、と苦笑いして、周五郎を見送る。
出て行きかけた彼は留まり、振り返って言った。
「よく此処から外に出てるって聞いたけど」
「いや、あの、たまに……私は此処で習い事ができないので、外のお師匠さんに習いに行くときくらいですけど」
ま、そのあと、兄さまのところで遊んでくるけど、と心の中だけで付け加える。
「気をつけて。
吉原に出入りする女を狙った辻斬りが出るそうだよ。
腕を斬られるらしい」
「ああ、聞きました。
肘って聞いたけど、腕なんですね」
思わず、自分のそれがあることを確かめるように触れていた。
周五郎は笑って、じゃ、と今度こそ、本当に出て行った。
人目のないときを見計らい、長太郎がからくり扉を開けた。
咲夜に笑いかけて、外に出た周五郎はいつものように見送ろうとする長太郎を断った。
いえ、とだけ言い、長太郎はついてくる。
まあ、長太郎の立場から行って、ついてこないわけにも行かないか、と周五郎は素直に送ってもらうことにした。
だが、この男の咲夜を見る目が気になっていた。
特に何かの感情を示しているわけでもないのだが、いつも、ただ、じいっと彼女を見ている。
自分が咲夜の髪を切っているときも、目を逸らさずに、ただ見ていた。
最近はあまり、幽霊花魁が出なくなったという階段下に着く。
そういえば、今も下に明野は転がっていない。
いつも未練がましく、おのれの遺体を見せつけてくるのに。
本当にあの咲夜の姉とは思えない。
まあ、姉妹だからといって、性格が似るわけではないのだが。
顔が似ているがゆえに、その違いが際立つ。
そのとき、楼閣に入ってきた男が視線を合わせ、会釈をしてきた。
この吉原では、知り合いに会っても、知らんふりをするものだが。
さすがに知り過ぎている人物だと、まるきり無視するわけにもいかず、軽く頭くらいは下げたりもする。
男はとある店の主人だった。
なんだかわからないが、にんまりと笑う。
そういえば、いつか言われた。
『吉原で噂の幽霊花魁は、あの明野だって言うじゃないですか。
若旦那が囲ってるって聞きましたが』
誰から聞いたのか。
少しずつ、自分が明野を囲っているという話が外に広まっていっている気がした。
ちらと内所に座る左衛門を見たが、薄っぺらい笑顔で頭を下げてくるだけだった。




