お仕置き部屋
ふと、目を覚ました那津は、古い天井の木目を見、自分は今、どちらに居るのだろう、と思った。
起き上がり、障子を開けた。
花冷えか。
まだ冷たい風が木々の匂いとともに吹きつけてくる。
こんな場所に居ると、どんな時代に居ても、まあ、変わらないな、と思った。
振り返り、ひとつ敷かれた布団を見、ただ、隣に誰も居ないだけだ、と思う。
目を閉じ、昔ながらの丁寧な建築らしく、太い柱に身を預ける。
葉の揺れる音が耳に響き、庭を見た。
いつも庭で見ているのと同じ木がそこにあり、風に揺れていた。
樹齢何年だかもわからないような、そのどっしりとした木を見ていると、自分がいつの時代に居るのかわからなくなる――。
咲夜……。
初めて妓楼を訪れたとき、咲夜は階段下で立ち竦んでいた。
足許に転がる姉の死体よりも鮮烈なものが上に居たからだ。
今まで見たどんな女よりも人目を惹く美しい女。
『わかっていたわ。お前が来ることは』
と女は自分を見て言う。
咲夜の横に立ち、ぎゅっと肩を掴む男の指。
その指の持ち主もまた、桧山を見上げていた。
咲夜が見ているのとは、全く違った目線で。
それだけで、彼が此処で死んだ女に対し、どのような感情を抱いていたのかわかった。
だからこそ、彼は、通りで出会った咲夜を妓楼に連れて行ったのだろう。
この顔を桧山に見せつけるために。
それは、彼が桧山が冷酷な女ではないと知っているからこそ、してみた行為だったに違いない。
誰よりも桧山が罪の意識に苦しんでいる。
あれが本当に不幸な事故だったとはいえ――。
「あら、お坊様。
また来たの。暇なの?
それとも、私を殺しに来たの?」
咲夜はそう言いながら、階段下に現れた散切り頭の坊主の許へと下りていった。
坊主に見えない坊主は舌打ちをし、
「いいのか、お前は、ひょいひょい表に出てきて」
と言う。
心配してくれているのだろうかな、と思った。
「この時間に客はほとんど来ないわ。
姉さんたちは、ほら」
と親指で奥の座敷を示す。
小間物屋と貸本屋が同時に来たので、みな群がっているのだ。
ときどき、楽しげな声が聞こえてくる。
そんな風にしていると、彼女らも普通の女だ。
普段は、こんな風に心から笑うことなどないのだろうが。
未だ客をとったことのない自分には想像もつかない世界だ、と咲夜は思った。
あの遣手が自分に無理やり客をと思ったのも、わからないでもない。
苦界のなんたるかもわからない女が、この吉原にのうのうと居るのが許せなかったのだろう。
「もう明野には会えたし、事の真相もわかった。
来る必要ないんじゃない?
此処は貴方が来るべき場所じゃないわ。
誰か買いたいのなら別だけど。
それとも、姉さんの望み通り、私を殺してみる?」
那津は溜息をついて言った。
「桧山は本気でお前を殺したいわけじゃないと思うぞ。
階段下の明野が邪魔だったのも本当だ。
ずっと自分の罪を見せつけられて、平気な人間など居ない。
普段、どんな顔でそこを通り過ぎていてもな。
桧山はたぶん、堪え切れずに俺に言ったんだ。
何か行動を起こさねば治まらないほど、お前を――」
そこでさすがに那津は言葉を止めた。
自分に聞かせるべき言葉ではないと気づいたからだろう。
「私を殺したい、か。
この顔がやっぱり邪魔なのかしらね。
言うほど似てない気もするんだけど」
「違う理由だと思う。
まだ、わからないが」
と言う那津には何か考えがあるようだった。
「ねえ、貴方、本当は名前、なんて言うの?
なつのじょう? なつのすけ? なつひこ?」
「那津だ。そこで終わりだよ」
「ふうん。変わった名前ね」
そのとき、
「誰か来る」
と那津が言った。
上草履の音がする。
私のことを知っている者ならいい。
だが、そうでなかったら……と逃げようとしたとき、ひいいいっ、と悲鳴が聞こえた。
少し霊の見える禿が立っていた。
「花魁……っ。幽霊花魁っ」
さっと那津が自分と彼女の間に入った。
咲夜は慌ててそこから逃げ、お仕置き部屋へと滑り込んだ。
「どうした。大丈夫か」
と禿に声をかける那津の声が遠くからする。
暗い。
一応、窓らしきものはあるが、木で打ちつけてある。
その隙間から射し込む昼の光がわずかばかり部屋を照らしていた。
此処は罪を犯した遊女を閉じ込めるお仕置き部屋であると同時に、布団部屋でもある。
行灯部屋をそうしているところもあるそうだが、折檻された挙げ句に、火で焼かれそうで、なんだか怖い。
積み重ねてある布団に、やれやれと腰を下ろそうとしたとき、気がついた。
今、尻を下ろそうとした布団の横に女がしゃがんでいた。
髪を結うこともなく、振り乱した女が膝を抱え、ギョロギョロと目だけを動かしている。
お仕置きをされないか、窺っているようだったが、こちらには気づいていないようだった。
生きた人間は見えないようだ。
死んだ遣手も居て、時折、彼女をまだお仕置きしているのではなかろうか、と思わせる切迫感だった。
そのとき、いきなり、
「ねえ」
と言う声が耳許でした。
びくりと振り向く。
あの女はまだ、しゃがんだままぶつぶつ言っている。
違う女が後ろに居た。
背中に張り付くように座っている。
肩にゆっくりと手が回る。
咲夜は動けずに、じっとしていた。
その白い手が着物の間に滑り込んでくる。
霊だと言うのに、冷たいその感触は生きた人間のもののようだった。
「ああ、あたたかい……」
と耳のすぐ側で聞こえた。
「あんた、生きてるんだね。温めておくれよ」
咲夜は目を閉じた。
上がるのに手を貸してやりたいのはやまやまだが、此処の女の業は深過ぎて、手に負えない。
その女との繋がりを断ち切るように目を閉じ、集中する。
「奇麗な身体だね。
あんた、生娘かい。こんなところに売られてくるなんて」
同情しかける心を踏み留める。
冬の日、道端で地蔵に手を合わせていた幼い子の霊。
親もなく、食べるものもなく死んだ子の霊。
それに比べたら、この女は病気を患い、此処へ押し込められる前は、この吉原で頂点を極めた女の匂いがした。
女の手が咲夜の生きた身体を確かめるようにまさぐる。
「あんた、奇麗な女だね。
いい身体だ。
私にちょうだいよ」
いらないならちょうだいよ、と女は言う。
いらないなんて、ひとっことも言ってないがっ、と思いながらも、咲夜は言い返さずに堪えた。
こういう厄介な手合いは、見えないふりをするのが一番だからだ。
何故だろう、そのとき、ふっと那津の顔が浮かんだ。
そのとき、からりと戸が開き、光を背に男が入ってくる。
「行ったぞ。
大丈夫か、咲夜」
その声にほっとしていた。
だが、この部屋の放つ闇に、はっきりと見えた。
また姉さんを背負ってる……。
明野が那津の背にぶら下がっているのが見えた。
「余程、相性がいいみたいね」
そう厭味たらしく言ってみたが、那津はなんのことだ、という顔をする。
「明野は貴方が好きなんじゃないの?」
と言うと、何故だか、那津は、ぎくりとしていた。
なんだかわからないが、面白くない。
「早く出ましょう」
と言い、外に出たが、那津はまだ部屋の中を覗いている。
奥の女に気づき、哀れに思っているようだった。
だが、その女を彼の視界から消すように、咲夜は戸を閉めた。
どうした、という顔で那津が見る。
那津が再び、開けてしまわないように、戸に背に預けるようにして立つと、
「見たくないのか?」
と彼は訊いてきた。
「当たり前じゃないの。
落ちぶれた遊女の末路はこうよ。
後は投げ込み寺に放り投げられるだけ」
意外に無事に年季明けを迎えるものは多いし、その後、成功するものも居るが。
どうしても、凄惨な末路の方が目についてしまう。
「お前は違うだろう?」
「違わないわよ。
私も所詮、遊女だもの」
いつ、こうなるかほからない、と言う。
「桧山姉さんたちを見ていると、華やかな世界だと思うでしょう?
でも、これが現実。
私には始めからわかってた。
子どもだったけどね」
あれが見えていたからね――
と咲夜は呟いた。




