肩越しの霊
夜。那津は目を覚まし、廊下を歩いた。
やけに喉が渇いたからだ。
ぎしり、ぎしり、と音を立て、古い今にも抜けそうな板を踏む間、どんどん肩が重くなっているのを感じていた。
雨はもう止んでいるようだった。
月明かりの中、壁の方を見る。
そこには、あのときと同じように、自分の背に乗る人影がはっきりと映っていた。
「……何故、俺に憑く」
足を止め、女に問うた。
女は答えない。
腐臭までする気がしたが、それが腐った匂いなのか、香の匂いなのか、微妙なところだ。
どちらも、自分にとっては、甘ったるい強い香りとしか認識できないからだ。
「お前の名は?」
『……明野』
ようやく女の影が口を開いた。
その名に息を止める。
「明野。
何故、成仏しないで、遊郭で祟っている」
『あの女が居る限り、私はあそこから離れない。
あの女がああして、栄華を極めている限り、私はあそこから離れない』
やはり、そうか、と思った。
『咲夜も許さない。
何故、あの女に付き従う。
私を殺したあの女に』
きゃああああああっ。
突然、悲鳴が聞こえた。
耳を覆わんばかりの悲痛な叫びだ。
女の驚きと悲しみが伝わってきた。
階段上の、咲夜のからくり扉のある場所に、桧山が立っている。
落ちた女を見下ろしていた。
これが幽霊花魁のはじまりか、と思った。
「明野。
咲夜がお前には他に行くべきところがあるはずだと言っていたが」
そう告げても、女はただひたすら、桧山と咲夜への恨みごとを繰り返している。
那津は小さく溜息をついた。
『許さない、許さない。
あの女、私を殺して、自分が吉原一の女になった』
それは真実なのかもしれないが。
階段上に立つ桧山の顔を見ていたら、それは、彼女が望んで引き起こしたこととは思えなかった。
だが、あのときの桧山は不思議な顔をしてもいた。
驚きと悲しみだけではない。
諦めのような表情を桧山は見せていた。
何故だろうな、と思う。
『許さない』
そう呟き、明野は初めて姿を見せた。
輝くばかりに美しいその顔によく似た顔を自分は知っていた。




