階段の下
扇花屋に着くと、桧山を部屋に残し、那津は階段下へと下りた。
内所の左衛門と目が合ったが、やれやれ、という顔をしただけで、咎められることはなかった。
まあ、引手茶屋から連絡が入っているだろうから、自分が来たことは知っていたのだろうが。
お金を落としてくれるのなら、少々の面倒事はいいということか。
入り口に背を向けるように設えられている階段。
その下に立つと、華やかな酒宴の声が聞こえてくるにも関わらず、なんだかじっとりとした雰囲気で落ち着かない。
いきなり後ろで女が笑い出したと思ったら、生きてはいない遊女だった。
笑ったり叫んだり、めまぐるしく、その態度を変えながら通って行く。
生きているうちに気がふれて、死んでもまだそのままらしい。
もうお前を苦しめるものはないのにな、と思いながら、何も出来ずにそれを見送った。
見れば、左衛門もまた、それを目で追っていたから、彼にもこの霊が見えているのだろう。
遊女に祟られて一人前とでも言いたげな発言をしていた左衛門だが。
その瞳を見ていると、少しは哀れに感じているようにも見えた。
仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の八徳を失った忘八と呼ばれる楼主にも、人間らしい感情もあるのだろうかと思ったとき、左衛門は重い身体で立ち上がり、側まで来た。
「此処に見えるんですかな、貴方には」
幽霊花魁など私には見えません、と左衛門は言う。
やけにきっぱりとした口調だった。
「そんなものは、みなの罪悪感が作り出した幻ですよ」
罪悪感?
左衛門は質問を避けるように頭を下げ、そこを去る。
桧山の居る部屋に戻ろうと、階段を上がりかけたとき、上に誰かが立っているのに気がついた。
新造のような装束を着て、壁に背を預けるその女はこちらを見下ろしている。
可愛らしい顔に似合わぬ冷めた目で。
そこまで上がっていくと、自分を見上げて彼女は言った。
「罪悪感ねえ」
と呟く。
「ねえ、お坊様、幽霊花魁には会えた?」
「ああ、会えたよ」
へえ、と笑う彼女に、
「幽霊花魁はお前だろう、咲夜」
と言うと、彼女は壁から背を浮かして言った。
「そう言う人も居るわね。
でも、もともとの幽霊花魁は私じゃないの」
その視線は真っ直ぐ階段の下を見ていた。
「階段下の霊か。
俺には見えない」
「そうね。
貴方に見えるはずがないわ。
というか、此処数日は見えないことの方が多いはずよ」
「どういう意味だ」
咲夜は無言で足許にあった灯籠を持ち上げ、こちらに向けると、壁を指差した。
そこには自分の影と、肩に手を置き、覆い被さるようにしている女の影が映っていた。
「噂の幽霊花魁は、貴方が気に入ったようよ」
見えないはずだ。
俺の後ろに憑いていたとは。
「貴方が気に入ったからか。
桧山姉さんに、幽霊花魁を退治するよう、貴方が言われたからか。
……他に行くべきところがあるでしょうにね」
そう淡々と咲夜は語る。
他に行くべきところとは、あの世のことだろうか。
「咲夜、お前が幽霊と言われるのは、此処に居て、居ない人間だからか?」
「さあて、どうかしらね。
ねえ……、ちょっと来る?」
そう言い、咲夜は壁を向いた。
ちょうど、笑い声とともに、近くの障子が開く音がした。
誰か来る。
咲夜が落ち着き払っている分、こちらがハラハラしてしまう。
「此処は……」
よく見れば、そこは、あの町人風の男が張り付いていた壁だ。
そこに手を伸ばした咲夜は板の小さな節にその細い指を突っ込み、引っ張った。
壁が回転し、部屋が現れる。
廊下に人の気配がする前に、咲夜とともに、その部屋に滑り込んだ。




