登楼 ――江戸――
或る朝、妓楼から来た使いが、もう幽霊騒動は収まったので、来なくてよい、と那津に言ってきた。
使いは、断ったのに、金の入った包みを置いていった。
少し引き止めて話を聞いたところによると、妓楼の主は桧山が退治して欲しがっているのが、噂の幽霊花魁だとは知らなかったらしい。
それが知れて、自分をもう呼ばないよう言われたそうなのだ。
今日も雨だった。
桜ももう散るだろうか。
少し、風が強い。
道具屋の店先で使いに置いていかれた包みを開き、眺めていると、
「物騒なものを店先で晒すな」
と背後に立った隆次が言う。
刀よりなにより、金は物騒だと言う。
「犯罪者を引き寄せるからな。
江戸はまさかの町って言うだろ」
何が起きてもおかしくない町。
まさかの町と人は言う。
軒から落ちた雫が弾いて、泥水が足を濡らし、既に乾いて張り付いていた泥を少し溶かしていた。
なあ、と振り向き、那津は呼びかける。
「吉原に行くにはどうしたらいい」
目をしばたたいた隆次は、
「金を持って、徒歩か、舟で行け」
と至極当然な答えを返してきた。
そりゃそうだ、と思ったとき、
「なにしに行くんだ?」
と訊いてきた。
「って、無粋か。
誰か気に入った女でも見つけたのか。
まさか、桧山に会いに行くんじゃあるまいな」
そういう隆次の口調には、何処か侮蔑が込められていた。
それは吉原に通おうとする自分に対してなのか。
仕事で関わった女に入れ込んでいると思ったからなのか。
それとも――。
「そうだ」
と答えると、隆次はしばらく真面目な顔でこちらを見たあと、目を伏せ、阿呆かと吐き捨てた。
だが、
「わかった。
……俺が金を出そう」
貸してやる。行ってこい、そう言ってきた。
「しかし」
桧山を買うなどと、一般の江戸の町民に出せるような額ではない。
言ったところで、初会は口もきいてくれないようだし……と思う自分に隆次が言う。
「金ならあるんだ。
使う予定のなかった金がな」
続けて隆次が呟いた小さな声が風に乗って耳まで届いた。
「『返す』だけだしな」
そう言い、笑っていた――。
吉原で仕事をしていたことがあるという隆次に、吉原での作法を聞き、無骨にその通りの道筋をなぞって、桧山の許まで辿り着いた。
会うだけで、なんて長い道のりだ、と面倒くさいことが嫌いな自分などは思うのだが。
これが江戸の人間が愛した道楽なのかな、と思いもした。
みんな心に余裕があったのだろうなと思う。
鬼簾の張り出した引手茶屋で、那津は桧山を待っていた。
霧雨が降る中、傘を差した花魁道中がやってくる。
若い者、新造、そして、禿を従えた桧山が姿を現した。
誰もが足を止め、その美しい一団を眺めている。
この艶やかな桧山を呼んだ男は誰なのかと思っているだろう。
まさかこんな腐れ坊主だとは思わないだろうな、と思いながら、那津は往来の人々を眺めていた。
引手茶屋の二階で宴会が始まった。
最初に金を預けるようになっているので、茶屋の者はこの怪しい客にも親切だった。
最もこの吉原では、客がしている格好が本当の格好だとは限らないので、こういう客にも慣れているのかもしれないが。
坊主は吉原には入れば、女犯の罪を犯すことになってしまうので、料理屋か船宿で着替えて入ってくる。
自分も今は、普通の着流しを着ていた。
背後で誰か年配の女が囁くのが聞こえてくる。
「ねえ、この方、変装してるけど。
確か与力よ。
私、昔、見たことがあるわ」
どうやら、自分のことを言っているようだ。
誰と間違えてるんだと思う。
「そういえば、小間物屋のお糸がさっき、この方に、以前、ならず者から助けてもらったことがあるって言ってたわ」
と別の女が言うのが聞こえてきた。
そう。与力だったの、と勝手に話がまとまっている。
違うっ、と思ったが、後ろでコソコソ話している話に突っ込むのも妙なので、黙っていた。
桧山にも聞こえているのか、笑いを堪えているようだった。
びいどろの灯籠の灯りに照らされた桧山の白い肌は、ぞくりとするほど艶かしく。
側に並ぶ新造たちも美しいが、さすがに桧山の前では霞んで見えた。
酒宴がひとしきり落ち着いた頃、那津は、彼女を見つめて言った。
「……話がある」
「だと思っただんす」
口を開いた桧山は、店のものたちを下がらせた。
誰も居なくなったのを見計らい、那津は彼女に問うた。
「あんたの言う幽霊花魁、本当に、あの階段下の霊なのか?」
「お糸」
それには答えずに、桧山は後ろを向いて、娘を呼んだ。
いつぞや、ならず者から助けたら、饅頭をくれた娘だ。
小間物屋のこの娘は、桧山と懇意にしていたらしい。
お糸は、
「もう一度、お会いできてよかったです。
あの節は、ありがとうございました」
と手をつき、深々と頭を下げてくる。
礼にと、匂い袋をひとつくれた。
お糸を下がらせ、桧山がこちらを向いた。
「それにしても、よく此処まで来られただんすな」
「知り合いの道具屋が金を都合してくれたんだ」
そう言うと、桧山は、へえ、と笑って見せる。
桧山は何故、道具屋ごときが評判の花魁に会いに来るほどの金を出せたのかとは訊いてこなかった。
そのまま黙った桧山だったが、やがて、意匠を凝らした煙管を吸い付け、自分に向けてきた。
「禁煙してるんだ」
と断ると、禁煙? と桧山は訊き返してくる。
「煙草は止めてるんだ」
子どもまでもが、吸って当たり前のこの江戸で、おかしなことを言うと思ったようで、桧山は笑い出した。
「ほんとに面白いお方だんすな」
桧山は一服吸い、煙草盆に打ちつけると、こちらを見る。
「あれが邪魔なのは確かだんす。いつまでも当てつけるように、私の前で、あそこに転がっているから。
貴方は、階段下の幽霊を見られただんすか?」
「いいや。
相性が悪いのか俺には見えない。
階段手前に居る男の霊なら見たが」
男? と桧山は柳のような眉をひそめる。
その特徴を述べると、ひとときの間、黙り、そして、笑い出した。
「莫迦な男……」
そう呟いたようだった。
「女も見たな。
油さしの男に問うても、そんな女は居なかった、と言われたが。
だが、あれは生きている女のようだった」
そう言えば、あの場に桧山も現れたな、と思いながらそう言うと、桧山は、冷めた目で、ああ、と頷く。
「では、階段下の女の霊を見るといいだんす。
何故、幽霊花魁があちこちに出没すると言われるのかわかるはずだんす」
そろそろ参るだんすか、と言い、桧山は立ち上がる。
どうやら、初会なのに、妓楼に通してもらえるようだった。
那津は彼女について立ち上がりながら二階の窓から外を眺める。
桜並木の向こうに、ずらりと続く引手茶屋が見えた。
その軒下に赤い提灯が並んでいる。
幻想的な光景だ。
まるで、高速道路の灯りだな、と思ったが、それを桧山に伝えたところでわからないのだろうな、とも思っていた。




