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普通に生きることは邪悪である

作者: 鈴木美脳

【生きることは罪か】

 普通に生きることは邪悪である、と仮定して、それを証明することは可能だろうか?

 もしも可能だとして、そのための明らかな要件は、ここで「普通に生きること」と「邪悪である」という言葉によって指し示すものを定義することと、その上で、「普通に生きることは邪悪である」事実の存在を論理的に示すことだ。


 普通に生きることは邪悪である、という事実がもし存在したとして、それを指摘して誰が得するか?

 「邪悪である」、として尊厳を否定されれば、「普通に生きる」人々からは拒絶や否定を受けるに違いない。拒絶されたり否定されたりすることそのものによって得るものはないだろう。

 ただ、「邪悪である」として否定する何らかの権力や行為によって、踏みにじられている人々や思いがあるなら、それを助けようという努力にはなるだろう。


【メタ認知】 

 鍵になる概念は、「メタ認知」だ。

 メタ認知とは、認知している自分自身をさらに認知することだ。

 つまり、主観している自分自身を客観的に主観することだ。

 他者への入力と出力からその者の心理機序を類推するように、自分自身への刺激と、その刺激への自分自身の反応から、自分自身の心理過程を類推することだ。


【誤信念課題】

 メタ認知の初歩的な発達については、「心の理論」という概念でうまく説明されている。

 すなわち、「誤信念課題」として例えば次の「サリーとアン課題」が用いられる。


 ・サリーとアンが、部屋で一緒に遊んでいる。

 ・サリーはボールをかごの中に入れて、部屋を出て行く。

 ・サリーがいない間に、アンがボールを別の箱の中に移す。

 ・サリーが部屋に戻ってくる。

 ・サリーはボールを取り出そうと、最初にどこを探すか?


 正解は「かごの中」だが、「心の理論」の発達が遅れている子供は、「箱」と答える。他者が自分とは違う見解を持っていることを想像するのが難しいからである。

 同様に、重いアスペルガー症候群や、重い自閉症スペクトラム障害の人も、この課題に正答できない。逆に言えば、このような課題に正答できないことが、それら障害の定義でもある。


【意識】

 コンピュータの発達により、人工知能もまた発達しつづけている。いつか人間に劣らない知性が実現されるのではないか、とも囁かれる。そこにおいて、機械が「意識」を持ちうるのか、を論題にする向きもある。

 機械は意識を持ちうるだろうか?

 そこではそもそも、「意識」を定義することが難しい。しかししばしば言われるのは、メタ認知をもって意識の要件とする考え方である。

 つまり、例えば単純に光源や熱源に向かう程度の原始的な生物には、メタ認知のための神経回路は不要であり、メタ認知の機能もまた存在しないと考えられる。一方で、人間の知性という進化段階は、メタ認知の存在によって特徴づけられるというのである。

 私達は、肉体への刺激に対する単純な反応によってのみ行動しているのではない。情報や感情や経験や知識を、いくらか理性的に論理的に整理しつつ行動している。その意味で、盲目的に本能に従っているのではなく、私達人間には、「意識」がある。

 機械が意識を持ちうるかどうかは、ここで論点とはしない。しかし確認できるのは、数十億年の生命進化において、知性は「意識」に到達した、ということである。


【存在するメタ認知】

 健常なほとんどの人々は、上で述べた「誤信念課題」に正答することができる。

 つまり私達は、他者のうちにある認知や心理を、空想し、自分自身の知性のなかでシミュレートすることができる。

 もちろん、他者の心理を100%正しく把握することは誰一人にもできない。しかし、私達が他者の心理を認識する能力が、0%にはほど遠いことも、また事実に違いない。

 身近な愛する人々の苦しみを察して保護するために、あるいは、経済活動における競争相手を一歩出し抜くために、人々は、メタ認知の能力を日常的に発揮している。

 人間が人間を理解するということ。メタ認知は、知性の重要な属性である。ある意味では、本質ですらある。


【メタ認知の限界】

 健常な誰もが、「誤信念課題」には正答できるといえる。

 だが、人々のメタ認知は、限りなく完成されたものだろうか?

 私達の心理は、主観と客観の扱いについて、限りなく公正だろうか?

 例えば、心にもないお世辞でおだてられて、高価なだけの装飾品を買わされた者は、「メタ認知」が不足してはいまいか?

 上司のミスを部下に負わせた職場において、それは単に嘘をつくにとどまらず、嘘を事実だと信じようとする心理が作用してはいまいか?

 人の心は、見たいものを見たいように見る。人々の心もである。

 すなわち、好都合な自己正当化による事実の歪曲。

 好都合な自己正当化による事実の歪曲を、現代の人間社会に見いだすことは、どうといって難しくない。


 好都合な自己正当化による事実の歪曲、それ自体は、単に嘘やごまかしだ。

 ずっと重要なのは、その嘘やごまかしを、自分自身で信じ込んでいく心理的現象である。

 これは端的に、「自己欺瞞」と呼べるだろう。

 これを観察することは、知的に高度だ。しかし、注意深く眺めたならば、これもまた、現代社会にしばしば見いだすことができる。


 ここで注目すべきは、「自己欺瞞」と「メタ認知」とが、本質的に排他的だということである。

 つまり、もしも優れたメタ認知が存在したなら、自己欺瞞は起こらない。

 自己欺瞞が起こるとき、常に、メタ認知の弱さが前提条件になっている。


【将来予測】

 専門家の一部は認識しているが、必ずしも多くの人に受け入れられない認識として、「知性の本質は将来予測だ」ということがある。つまり、知性とは予測能力のことだというのだ。

 すなわち、原始的な生物においては、行動は刺激への直接的な反応であった。危険への適応は多量の死によって、適者生存としてゆっくりと実現されていた。やがて、視覚を持って遠隔を知り、素朴な論理的思考によって危険を避けるようになって、生存率は劇的な向上を見た。さらには、人間が生じ、道具を駆使し、言語を交換して、地上の物質を配列して高度な機能を建設するに至った。

 それらは、物理現象をいち早く推測し、種の生存率を高めようとする行動として、くくってしまうことができる。

 例えば、山上から岩が転がってきたなら、私達はそれに接触することでその分岐の遺伝子を捨てるのではなく、斜面の形状から論理的に類推して、完全な精度でないまでも安全な位置に退避しようとすることができる。

 すなわち、知性とは本質的には予測能力の別名であり、普遍的な第一義的存在として、唯一無二の「事実」にこそ最高の地位が与えられているといえる。

 そういった観点から見れば、「自己欺瞞」は、何らかの程度において事実を放棄しようとする行動であり、知性の現象としては、病理的だと言える。


【自己欺瞞の不合理性】

 例えば、仕事の競争相手を、無能だという設定にしたとしよう。

 その人がした仕事の貢献度は懸命に過小評価し、少しでも瑕疵のようなものが見つかれば、大げさに言い立てよう。

 そうやって相手の地位を貶めたならば、自分や自分の仲間の利益にとって合理的な場合はあるだろう。

 しかし多くの場合、嘘をついた人間は、嘘をついたのみならず、その嘘を自ら信じていく。つまり「自己欺瞞」が生じる。

 自己欺瞞が生じてしまうことは、厄介だ。利益を最大化するための戦略を合理的に考えようとするときに、その前提たる情報が間違っていることになってしまうからだ。

 すなわち例えば、部署や個人のレベルにおける局所的な最適性がもしかくも優先されたならば、本来有用な人材は次第に排除され、会社全体の業務能力は対外的な競争力を喪失していくだろう。

 同様に、すべての自己欺瞞は、当面の心理的満足感や、あるいは当面の利益を得られるだけであって、当面ではない総合的な利益の合理性を考える上では、不合理だと言い切れる。

 なぜなら、知性の価値は予測能力にこそあるのに、自己欺瞞は、自らを盲目にする行為だからだ。


【普通に生きるということ】

 もとい、普通に生きることは、罪だろうか?

 罪だと思う。

 なぜなら、現代において普通に生きるということは、利己的に生きるということだからだ。

 利己的に生きて何が悪い、と人々は言う。

 悪い。

 誰もが利己的に生きている、と人々は言う。

 そんなことはない。利己的な程度、つまり利他的な程度は、大いに人それぞれだ。

 自分や身近な人の幸せを守るので精一杯だ、と人々は言う。

 それは嘘だ。飢えが珍しくなかった時代にすら、人情や徳の大義は言われたのだ。


 なぜ、現代において普通に生きることは罪か?

 現代社会が、権威主義体制だからだ。

 現代社会は、実質的にはかなりの程度、経済的な階級制度だ。そしてその階級社会の正当性は、捏造された権威主義によって常に誇張されている。

 つまり、努力や才能がそれなりに報われる、自業自得の社会だということになっている。

 その思想の中心には、市場主義による経済原理への信仰、金銭という神に対する信仰、さらには民主主義への信仰がある。

 しかし私は、市場競争原理へのその信仰は、メタ認知の知的劣位に由来する、局所最適性だと思う。


【権威主義】

 例えば私達は、家畜の肉を食らう。

 昔の宗教者は、動物の肉は神が人間のために与えたものだと弁明した。それは自己欺瞞には違いない。

 同様に、いい学校に行った人々は、そうでない人々を、若いときに努力しなかったと蔑む。まるで誰もに、いい学校に行きうるチャンスが等しく存在したかのように。

 大きな会社に勤める人々は、そうでない人々よりも、自分達はずっと才能に優れ、ずっと社会に貢献していると考えたがる。既得権益に寄生して利益を搾取している現実はあまりにも軽視して。

 どこを見たって、人間の認知は歪んでいる。

 彼ら彼女らはまるで、自己正当化を第一義にしているかのようだ。

 しかしすべての自己欺瞞は、メタ認知の知的劣位に由来する病理でしかありえない。


 食肉となる家畜達の苦しみを過小評価しようとするその心理。

 動物園の檻に暮らす動物達の苦しみを過小評価しようとするその心理。

 捨てられるペット達の苦しみを過小評価しようとするその心理。

 種々の不運により、階級社会の下層に置かれた人々の味わう矛盾を過小評価しようとするその心理。

 あるいはまた逆に、役人や権力者の苦労や良心を過小評価しようとするその心理。

 知的劣位ゆえの自己欺瞞に満ち満ちた、人類の社会。


 そうして立ち現れる、権威主義。

 模範的な市民生活という、自己正当化された権威。

 金銭を価値の基準とすることを何ら恥じない、労働者としての権威。

 その生き様の正当性を保証するものとしての、民主主義思想への信仰。

 恥知らずな権力者達と、それに加担して満足しきった衆愚達。

 そこにおいては、金銭が神だ。


【金銭】

 金銭は悪魔だ。

 精度はどうあれ、金銭は人間幸福の指標たると見なされている。

 しかし、近代経済学のその仮定は、人類を殺す。

 なぜならば、金銭にプラスの価値を信頼するとき、経済合理的な自己欺瞞の合理性が主観的に保証されるからだ。

 すなわち、各々の企業主体という局所最適性にあっては、経済合理性さえ保証されれば、自己欺瞞もまた合理であると、主観的には推論される。しかしそれは、ただちに金銭的に報われない種類の社会的資源、例えば庶民の良心について、その価値を捨象し、その担保責任を他者に預けようとする行為だ。

 だがそれを最終的に担保してくれる存在は実在しない。強いて言えば民主的に選ばれた為政者の良心だが、利己的な投票行動のうえに利他的な人材が輩出されるわけはないのだ。

 自己欺瞞をする者は誰しも、その自己欺瞞が自分にとって合理的であること、つまり安全なことを暗に確認してから自己欺瞞を実行している。例えば、自宅が火事になってもそれを無視することはさすがにしない。

 しかしそこにおける合理性の判断は、物質的な財産の量や、金銭の比較によっている。職場における人間性の低俗が、やがて各家庭における子女教育での人間性の低下に波及し、人心の荒廃、市民幸福の減少を招く危険について、十分に考慮されたものではない。

 ある人のメタ認知の知的水準が限りなく低かったとしても、もしも金銭を幸福の抽象だとさえ仮定したなら、自分自身の幸福の程度や、自分が家族の幸福に貢献している程度は、その抽象表現によって、確かに保証されて見える。

 すなわち、金銭への信仰は、人類からメタ認知を不要にする。

 それはつまり、「実質的な」人間幸福は、経済的ないし技術的合理性の前に、限りなく犠牲にされうる準備が整うということである。

 ゆえに、金銭は悪魔であると断言するのだ。


【神の死】

 神は、その偽りの神は、殺されねばならない。

 人間が人間であることを守るために。

 人間の社会が人間自身のためのものであることを守るために。

 心を感じることができない、メタ認知のないクグツの群れに、人々をしないために。

 人を人として扱わず、それであって心の痛みを感じない、悪鬼の群れにしないために。

 人類の思想は、改革されねばならない。


 各々が利己的に振る舞っても、全体の合理性が実現されるという、近代経済学の仮定。

 各々が利己的に投票行動をしても、全体の合理性が実現するという、民主主義の仮定。

 それらが理論と発展から生じたと思うか?

 そうではない。それらは、人々の邪心によって、拡大解釈されてきたのだ。

 局所的利己性が全体的合理性に結末するのは、市場原理の一部分にしか言えない。

 局所的利己性が全体的合理性に結末するのは、民主主義の一部分にしか言えない。

 人間が利己的に生きることに満足して合理的な時代など、永遠に来ない。

 人は、愛し合い、助け合うべき存在である。

 それは呪縛だろうか?


【解放】

 個人主義を仮定するなら、それは呪縛だ。

 利己性の解放こそ人間幸福の完成であるなら、良心や道徳はうるさい説教でしかない。

 しかし、個人主義は理性的な狂信だ。人間の本能の本心には、愛し合うことを楽しむ機能が十分にある。

 だから、人が助け合うべきことは、苦役ではない。喜ばしい事実だ。

 愛し合いたい、助け合いたいという衝動と欲望こそ、抑圧されていて解放されるべきものなのだ。


 メタ認知こそは知性の属性だ。

 ゆえに、自己欺瞞は例外なく、知的劣位の属性である。

 人類は知的に発展すべき存在であり、技術や経済に隷属して主権を失うべきではない。

 その意味では、人間は、この葛藤と戦って勝利すべき運命にある。


【恥を知る】

 ゆえに、経済的な地位で人を測るかのような思考は、すべてが愚かだ。

 外見、あるいは学歴で人の価値を測る思考もまた、すべてが愚かだ。

 もちろん、人は聖人君子にはなれない。利己性を捨てて生きながらえることはできない。

 しかし、恥を恥として、恥じらいをわきまえることはできる。

 価値を価値として、利他性こそを尊敬し感謝することはできる。


 そうして、人類が近代の自己欺瞞をメタ認知において客観視できたとき。

 主観によって助長されていた権威主義は社会から消え去り、踏みにじられていた苦しみも消える。

 主観と客観は、人々の知性に担保されて公正に至る。

 他人と他人とが、互いの心を大切に尊重し合う社会が、初めて本当に実現する。

 現代という危機を乗り越え、その社会を目指すためには、現代において普通である「それ」を、否定することが不可欠だ。


【まとめ】

 すなわち、普通に生きることは邪悪である。

 ここで、「普通に生きる」とは、利己的に生きる生き様に満足し、権威主義体制の自業自得思想に与すること。

 「邪悪である」とは、自らの当面の自尊心や利益を優先するばかりで、間接的には少なくない損失を生み落としていること。

 そしてその論証については、ここまでに述べた通りだ。


 ところで、「邪悪」ではない、ここで言う「普通」ではない生き方とは何だろうか?

 世に存在する苦しみや悲しみについて、自業自得だと割り切って見捨てないこと。倫理的により望ましい社会を目指して、改革されるべき、問題多きものとして既存の社会秩序を捉えること。大義のために多少なり身を切って生きようとすること。

 それを実現するために本質的に欠かせないのは、メタ認知の知的発達。自分自身が自己欺瞞の誘惑に引きずられていないか、自らを検証しつづける、知的活動。

 そは、主観以上の存在にならんとする、心の作用。

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[一言]  感想の返信ありがとうございます。  感想の内容は、すごく分かるんです。私も似たようなことを考えたことがありますし。  ただ、うーん、やはり、『前提』のところで違っているんだろうと思います…
[良い点] 最近の鈴木美脳氏のエッセイの中で一番共感できたというか、バランスをとっている感じがしました。 [気になる点]  『利己性』のややこしさは、『生存闘争という現実においてあり、相手を出し抜く…
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