二人の時間
さてお城でのお嬢さまの首尾はいかがであったかと申しますと。
帰って来るなりお部屋にこもってしまいましたので、残念な仕儀に相成ったものとお見受けいたしました。
お嬢さまはベッドでしくしくと泣いていらっしゃるようでございました。ああ、おいたわしや。お嬢さまのお心の裡を思うと、あたくしも胸が痛んで苦しくなります。
それでも、食事も摂らないのではお身体に障ります。あたくしは真っ暗な部屋に足を踏み入れ、お嬢さまに声をかけました。
「ヴェロニカぁ……」
お嬢さまは涙声で、弱々しくあたくしに抱きついて参りました。普段は快活で精力にあふれたお嬢さまなのに。なんておかわいそうなご様子なんでしょうか。
「お嬢さま。だめだったのですか?」
お嬢さまは鼻をすんすんいわせながら、
「だめって言われたわけじゃないけど……。でも何にも言えなかったわ。わたしってば、意気地なし……」
あたくしはお嬢さまの背中を優しくなでました。恋する乙女は臆病なものですわ。まして本気の恋であるならなおのこと。
「でもねヴェロニカ。わたし、嬉しかったの。凛々しくおなりになったクラウディードさまにお会いできて、言葉を交わすことができて、とても嬉しかったの。それだけでわたしは……」
ああ、なんて健気なお嬢さま。
あたくしはイリーナさまをぎゅっと抱きしめましたわ。神さま、どうかこの方の恋を成就させてあげて下さいまし。そうしたらクラウディードさまも、もちろんイリーナさまも、みんなが幸せになれると確信しておりますから。
◇
恋は一度で決まるものではございません。地道な側面攻撃の繰り返しがやがて本命を射落とすのですわ。
その後もあたくしは殿下の侍従のルカさまを尋ね、再度の機会を得るべく工作を続けておりました。
いつしかルカさまもすっかり興味を持たれて、あたくしたちはまるで秘めごとを共有するかのように、ささやかなはかりごとを巡らしていたのですわ。
「イリーナさま。やっとお城でのパーティをゲットいたしましたあっ!」
「わたし、行かない」
再戦の機会を得たにもかかわらず、お嬢さまは乗り気ではありませんでした。
「どうしてですか? クラウディードさまとお話ししたくないのですか?」
「わたし、こないだ結構ひどい事言っちゃったし……。それにその日は薬師のギルドの集会が……」
「お嬢さま! 仕事と恋と、どちらが大切なのですか!?」
思わずいきり立って詰め寄ってしまうあたくしに、お嬢さまは面喰らったようです。
「それって男にかまってもらえない女が言うセリフなんじゃあ……?」
「きっとクラウディードさまもそう思っておいでですわ。ですからあたくしが代わりに申し上げました。イリーナさま。仕事は誰かが代わることができますが、お嬢さまの恋はお嬢さまにしか成し得ないものなのですよ? 選ばれなかったら選びに行かなければ、そしてお嬢さまならば必ずや選ばれるだけのお力をお持ちだと確信しております! 今を逃したら、一生後悔なさいますよ?」
お嬢さまは子供みたいに泣きそうな顔になっていました。ちょっと言いすぎたかも知れません。
「申し訳ありません、言葉が過ぎました。ですがお嬢さま……」
「わかってるわ。でもね、わたしの仕事も誰にも代われないの。わたしは商会長、責任者だから……」
そうでした。
お嬢さまはとても責任感の強いお方でございます。数多の雇人を放り出して行くなど、到底できる方ではございませんでした。
仕方がありません。
あたくしはとぼとぼとルカさまのもとへ参り、謝罪したのでございます。
「まあそれはいい。機会はまたある。それよりヴェロニカどの……」
ルカさまの憂いを帯びた瞳に、あたくしはちょっとときめいてしまいました。
「あなたの主人のご令嬢は、その……大丈夫なのか? 近ごろよからぬ噂も耳にするのだが」
あたしはどきりとしたのでございます。
ルカさまの目の光からは、真剣にお気遣い下さっていることがよくわかりました。あたくしはそれを嬉しく思いながら、胸中は穏やかでなかったのでした。
ルカさまの言う通り、わがお嬢さまは危ういところに足を踏み入れていたのでございます。
傘下の商会のひとつブルジニク商会が、いわゆるヤバイもの――麻薬の類いに手を出していたのでした。正確に申せば麻薬ではなく、グレーゾーンといったところなのですが、それでもご禁制の品には違いありません。
お嬢さまもうすうすは勘付いていらしたようです。あたくしは戻って、お嬢さまに事の次第を問い質しました。
お嬢さまはうつむいて、
「でも今すぐは止められないわ」
「何故です?」
「いきなり潰してしまったら、多くの者が路頭に迷ってしまうわ。それはできないもの」
そうでした。
お嬢さまは心優しいお方でした。
件の商会のような非合法すれすれの集団は、ともすればアングラの世界、完全なクロの世界に陥ってしまいがちです。それを黙って見過ごせるお嬢さまではございませんでした。
「ですがお嬢さま、このままではお尋ね者扱いになってしまいますよ。クラウディードさまに弓引くおつもりですか?」
「うう……それを言われるのはつらいわ……」
お嬢さま、進退きわまってしまったようでございます。
◇
けれどそれは、あたくしも同様でございました。
その日お見かけしたルカさまは、ひどく慌てておいででした。あたくしは胸騒ぎをおぼえたのでございます。
「あの、ルカさま?」
「……ああ、侍女どのか。すまないが今日は立て込んでいてね」
そう言って物かげに至るや、あたくしは手を掴まれてぐいっと引き寄せられたのでございます。
突然のことにびっくりしてしまい、あたくしの心臓はどきどきと高鳴りました。が、ルカさまは緊迫した顔を寄せてささやいたのでございます。
「あなたのご主人に、今日は家から出ないよう伝えてくれ」
「……どういうことですの?」
「詳しくは言えない」
ルカさまは苦しそうな顔をなさいました。
「……件の商会に、今日は近づかないでくれ。なるべく主筋に累が及ばないよう努めるが……」
ああ、そうなのですね。
ルカさまは機密を打ち明けて下さったのですね。
ならば急がないと。
あたくしはルカさまにお礼を言って、急いで館に戻ったのでございます。
するとお嬢さまは、
「ヴェロニカ! 出かけるわよ!」
「お待ちくださいお嬢さま! 聞いていらっしゃらなかったのですか!?」
「聞いたわよ。ブルジニク商会に査察が入るんでしょ? だったら行かなきゃ。みんなを逃がしてあげないと」
「そんな! それではお嬢さまも捕まってしまいます!」
せっかくのルカさまの、ひいてはクラウディードさまのご好意を無にするというのでしょうか。
「わかってる! だけどわたしは責任者なのよ。わたしだけのうのうと逃げおおせるなんて、そんなことできないわ」
お嬢さまは思いつめた目をなさっていました。
ああ、そうでした。
たとえ良くない事をしている者たちとは言え、お嬢さまにお仲間を見捨てられるはずがないのでございました。
とるものも取り敢えず、お嬢さまは商会に飛び込みました。
「みんな早く逃げて! 持てるものなんて持たなくていい。とにかく有り金持って逃げなさい!」
ですがクラウディードさまの手際は想像以上に素晴らしかったようでございます。
「お嬢! 外は全部囲まれてます!」
「!」
回りはぐるりと、ものものしい武装兵に囲まれておりました。ただで済まされる雰囲気ではございませんでした。
「これは査察じゃすまないわね……。リアム、ほかに逃げ道は?」
「地下に抜け道がありますが、なにぶん狭くて……ひとりずつ抜けるのが精々です」
「そう、なら……迎撃よ。時間を稼ぐわ。みんな! ホールの回りに散らばりなさい!」
商会員の方々が勢い込んで去って行くのを、あたくしははらはらしながら見ていたのでございます。
「お嬢さま、お嬢さま! まさか王子殿下と剣を交えるおつもりですか?」
「仕方ないわ。みんなを見捨てるわけにはいかない」
その時のお嬢さまは、とてもとても悲しそうでございました。なんということでしょう。
あたくしは自分の不明を責めました。黙っていればよかったものを、余計な事を言ってしまったばかりに……。
「あなたのせいじゃないわよ」
無理して笑ってくださるお嬢さまに、あたくしはさらに胸が締め付けられる思いがしたのでございます。
「お嬢さま。お願いがございます」
「なあに?」
「どうか前に出ることなく、戦いは男衆にお任せ下さいまし。王子殿下もお嬢さまが剣を振るうところはご覧になりたくないでしょう。お嬢さまは指揮官なのですから、全体の指揮を忘れてはなりませんよ? いいですね?」
「……わかったわ」
「約束ですよ?」
あたくしは念を押しました。なんとしてもお嬢さまとクラウディードさまを戦場で会わせるなどということはしたくなかったのでございます。
◇
踏み込んできた武装兵――もはや討伐の意志は明らかでした――をいったんホールに誘い込み、そこを封鎖して分断をはかります。
ですがクラウディード殿下麾下の兵士たちは冷静でした。最初こそ押されていたもののすぐに態勢を立て直し、突き込んできます。
「くう、できるわね。もうひとつふたつ罠を仕掛けないと駄目かしら。うふふふ……」
お嬢さま、お嬢さま! なんでそんなに嬉しそうなのでございますか!?
もしや本気でクラウディード殿下の首を獲りに行ったりなさいませんよね? ね?
「ヴェロニカ、罠の第二弾よ。裏手の第二工場に敵を誘い込んで。カヤとリアムで入口を爆破して兵を閉じ込めなさい。場合によっては全部ふっ飛ばしちゃってもいいわ」
横合いから心配そうな男性の声がかかります。
「しかしお嬢。お嬢の大事な資産ですのに……」
「みんなの命には代えられないわ。どのみちもう持っていけないもの」
みな、お嬢さまの心中を思いやり、そのお心づかいに感激したのでございます。
「さあ急いで! ぼさっとしている暇はないわよ!」
「はっ!」
あたくしは剣を取って駆け出しました。
そこかしこの剣戟の合間をぬって、あたくしは声を限りに叫びます。
「全員後退! 第二工場へ下がれ! 地獄の道は天国へ続いているぞ! もう少しだ、がんばれ!」
あたくしの叫びに呼応して、商会員たちはばらばらと後退し始めます。でもよく見れば、動きがぎこちないことに気づいたことでしょう。
先ほどの指示にあたくしは符牒を混ぜ込みました。この商会にはその業界の特質ゆえに、いくつもの符牒がありました。さっきの指示は『今言ったことと反対のことをしろ』という意味があります。つまり、工場に後退するのと反対の行動。
それを明確にしなかったため、一時戦線が混乱しましたが、要は撤退が偽装だと気づいてくれればよいのです。一部はそれが陽動だと気づいて、積極的に動いてくれました。
工場へ流れる人の動きを支援しながら、あたくしは勢いよく飛んできた剣をしっかと受け止めたのでございます。
「なぜあんたがここにいる!? ヴェロニカどの!」
怒りの表情のルカさまと、あたくしは斬り結んだのでございました。
「近寄るなと言ったはずだ! まさかご令嬢まで来ているのではあるまいな?」
あたくしは剣を跳ね返し、立て続けに斬撃を叩きこみます。
ですがさすがルカさま、あたくしの剣などいともたやすく受けておしまいになります。
「お気遣い感謝いたします、ルカさま。なれど我が主人は、部下を見捨てておけるお方ではないゆえに」
「ちっ」
さらに踏み込むルカさまの剣は苛烈でございました。
「我が主の大事な想い人なれば、こんな場で会わせたくなかったのだが」
なんですって!?
今何とおっしゃいましたか?
その間もルカさまの剣は、手加減なしにあたくしを攻めたてます。これは純粋な戦士ではない商会員の方々には荷が重いかも知れません。
この方を工場に行かせないよう、あたくしも全力で応戦します。私情を挟むのはよくないことですけれども、あたくしはやはりこの方に、危ない橋は渡っていただきたくないのです。
何度目かの応酬の後お互いに間合いを取りながら、ふとルカさまがにやりと笑いました。
「やるな。失礼ながら、侍女と侮っていた。大した腕前だ」
「お褒めにあずかり恐縮でございますわ」
お嬢さまに負けないよう、あたくしも必死で鍛錬しましたから。
お嬢さまに剣の手ほどきをしたのはあたくしですが、凝り性のお嬢さまはめきめきと上達し、追い越されてしまうのは最初の師匠としてのプライドが許さず、あたくしも懸命についていったのでございます。
おかけで剣のみならず、武芸百般というくらいいろいろな武器の扱いに習熟しましたけれども。ああ、これでお嫁にいけるのかしら、あたくし……。
「その腕前、とくと拝見しよう!」
ルカさまが今までにない踏み込みで飛び込んできます。やだ、この方ってば戦況そっちのけで、すっかり戦士の魂に火が付いてしまっておりますわね。でもそれはあたくしも望むところ。
その時、遠くで鈍い音が重々しく響きました。
「なんだ……?」
一瞬いぶかったルカさまは、あたくしの表情の動きを見逃しませんでした。
「まさか、また嵌められたのか?」
ルカさまは自分たちがおびき出されていたことに気づいたようでございます。飛び退って剣を収めたのでした。
「ご令嬢に伝えてくれ。火遊びもほどほどにしないと殿方に嫌われてしまうぞ、と」
「かしこまってございます」
笑いを堪えながら一礼するあたくしに、ルカさまは呆れたような視線を向けておいででしたが、ふっと笑って、
「あんたもな。そんなに勇ましいと、嫁の行き手がなくなるぞ」
「まあ、ひどい。その時はあなたさまが貰って下さいますか?」
「自分より強い嫁では立つ瀬がない。鍛え直して出直し、だな」
んー、それはあたくしを貰って下さるという意思表示なのでしょうか? どこまでが冗談でどこまでが本気なのか、お互いに判別がつきませんわ。
……そ、そんなことはともかく。
再びホールに戻ると、残った人々が呆然と中央を見つめておりました。
あたくしもそこを見やり、息を飲んだのでございます。
ホールの中央では両軍の指揮官――クラウディードさまとイリーナお嬢さまが激しく剣を交えていたのでございました。
なんという皮肉でございましょう。戦場で敵同士として相まみえるとは。
ですがお二人の技量は素晴らしく、まるでお互いをパートナーに舞い踊っていらっしゃるようでした。そしてお二人のとてつもなく悲しそうな表情の下には、確かに喜びが見えたのでございます。なんと表情豊かで、優雅で、苛烈な命のやり取りなのでございましょうか。
もはやお二人の世界には誰も立ち入ることができず、ただ見とれているばかりでございました。
しかしその時間にも終わりが訪れます。
飛び退ったお嬢さまが短く叫びます。
「リアム! カヤ! 爆破!」
とたん、ホールの天井が爆破されて崩れ落ち始めました。
全力で戦いながらもお嬢さまは脱出の間合いをはかっておられたのでございました。
あたくしは一足先に脱出口を確保し、場合によってはお嬢さまを助けに飛び込もうとしておりましたが、そんな心配などかけらも必要なく、お嬢さまは落下物を楽々とよけて脱出口までたどりついたのでございます。
こうしてブルジニク商会は王国の討伐隊の手を逃れ、全員脱出を果たしたのでございました。