天使の武器はハンマーのようです
次の日、僕は今までの人生の中で一番驚いていた。
記憶力が取り柄の僕が言うんだから、間違いない。
なぜって?
「あの……、山村君、だよね? ちょっと話があるんだけどいいかな?」
この1週間一言も話せなかった天使と、話しているからだ。
しかも天使の方から話しかけてきた。
これはチャンスなんじゃないか?
昨日のあれはチャンスでもなんでもなかったからな。
今度こそちゃんと物にしなきゃいけないな!
「う、うん!」
よし、大丈夫だ。声は裏返っていない。
ちょっと緊張で右手と右足、左手と左足が同時に出ているけど、そんな些細なことは気にしてはダメだ。
教室にいる奴らに羨ましそうな目で見られている。
僕の口元は緩み、口角が少し上がっていることに気が付く。少しいい気分だ。
天使に連れられて、向かったのは誰も来ないような空き部屋だった。
大きな机が1つと椅子が4つ、それに誇りを被っている段ボールがいくつかある。
だんだんドキドキしてきたぞ!
これは、もしかして、もしかすると。
「実は、訊きたいことがあって……」
これは、好きな人はいますかと訊かれるパターンでは!?
僕がいないなんて答えた時には、私と付き合ってください! と言われるパターンだ!
「い、いないよ! 僕、好きな人なんて!」
「えっ?」
「えっ」
何をバカな事をしてしまったんだ!
天使の方から訊いてくるまで、待つべきだっただろう!
僕に先を言われて天使が困っているじゃないか!
僕のバカ!
「あっ! 今のはナシ!
どうぞ、話の続きを……」
「えっ、うん。
私、山村君に訊きたいことがあって」
僕はその言葉の続きを想像し、ドキドキしている。
心臓の音がやけに大きく聞こえる。
この音は天使にまで聞こえてしまうんじゃないかと思うと、さらに緊張する。
「昨日の事、覚えてる?」
「き、昨日?」
予想外の質問に僕は一瞬、目を見開いた。
昨日は確か、昼休みに図書室に行って、放課後は委員会で図書室に行って、廊下で天使を見かけて……。
「昨日の放課後、廊下で会ったでしょう?」
「あー! 昨日、廊下で小林さんと、鈴木先生と、知らない女子の3人が話していた事?」
「そう。やっぱりあの時廊下にいたのは、山村君だったんだね」
「ん?」
僕は天使の言葉を聞いて失念したことに気が付いた。
昨日、僕は廊下で天使を見かけて、後を追ったものの、盗み聞きをして立ち去ってしまったのだ。
自分で墓穴を掘ってしまった。
「あっ、違うんだ! 盗み聞きしようとしたわけじゃなくて! たださよならを言おうとして!」
「それは別にどうでもいいの」
「えっ、じゃあ?」
僕は天使が何を言おうとしているのか見当がつかず困惑する。
この教室に連れてこられた理由はなんだろう?
てっきり盗み聞きしたから、それを怒るのかと思ったけど、どうやら違うみたいだし。
「あんた何者? 氷華様に近づいて、何のつもり?」
「氷華様……?」
天使の声が昨日立ち去る前に、廊下で聞いていたものと同じ風になった。
氷華様って誰のこと?
そんな名前の人なんていたかな?
「一度や二度で済んだなら気にしないけど、明らかにこれは頻度が多すぎるわ!
昨日の放課後だって、氷華様に近づこうとしていたんでしょ?」
どうやら、天使は僕が氷華様って人に近づいているように思っているみたいだ。
でも、僕はその人を知らないし、寧ろ近づきたいのは天使の方だし……。
「違うよ! 僕は小林さん天使の姿を見つけて、それで!」
「そんな嘘通じるとでも思ってるの?
氷華様とは前後の席、さらにわざわざ氷華様と同じ委員会に入るなんて!
本当なら氷華様と二人で委員会をしようと思ったのに!
なんであんな冴えない男と……って、それはいいのよ!
それに、ここ一週間の間に何回氷華様に近づいたと思ってるの!?
5回よ! 5回!! 私が氷華様に近づこうと思ってもいつも無視されるのに……
こんなに頻繁に氷華様に接触するなんて、氷華様に近づく以外に何の意味があるというの?」
天使はそう言って、ずんずん僕に近づいてくる。
天使の顔が僕に迫ってくる。
僕は一歩一歩後ずさるけど、天使が迫ってくる速度の方が速く、悪運がここで発揮されたのか、僕の背後は壁だった。
はっきりいって、天使の言っていることが分からない。
僕は氷華様という人を知らないし、ぼっちの僕がそんな頻繁に人に会っているはずもない。
すれ違うくらいならありそうだけど、まさかそんなことで呼び出されたりしないよね。
「さあ、あんたは何者なの? 正直に言った方が身の為よ」
「何者って。僕は山村 真斗だよ」
「名前を訊いてるんじゃないわよ! 人間のふりをしても無駄よ。
ここまで分かりやすい接触をしてくるなんて、疑ってくださいと言っているようなものよ。
さあ、白状しなさい!」
人間のふりって……。それって、僕が実は人間じゃないみたいな言い方だな。
僕が人間じゃなかったら、僕は一体何者になるんだ?
「そう。そのまま何も言わないつもり?
私が何もできないと思ったら、大間違いよ」
天使は凄い視線で僕を睨んでくる。
このままだと、天使は僕に何かしてくるかもしれない。
「白状もなにも、僕は人間だよ! それ以外の何者でもない! きっと小林さんは何か勘違いをしているんだ!」
僕は慌てて、声を荒げて言っていた。
さらに天使は何かを言おうとして口を開ける。
タイミングよく天使の言葉を遮るように、扉を開ける音が聞こえた。
「あかり、何をしているの」
そして、一人の女子生徒がこの教室に入ってきた。
見たことない人だった。
「君は……?」
「やっぱり。その様子だと忘れているのね」
彼女は一瞬僕に視線を向けたものの、すぐに逸らしてしまう。
そして、そのまま彼女は天使の元へと歩み寄っていた。
「氷華様ぁ! どうしてここへ?」
「あなたの気配がこの教室からしたからよ」
「まあぁ! 私の為に来てくださったの? あかり、嬉しい!」
「そう」
興味がなくなったように、彼女は天使から視線を外し、僕を見る。
ドキリと僕の心臓がなる。
天使にこの部屋に連れてこられた時とは違うものだ。
さっきから天使が言っていた氷華様がこの人らしい。
彼女の後ろで、天使が突き刺さるような視線を向けてくるのを視界の端に捉え、何とか視線を合わせないように彼女を見た。
僕はこの人を見たことがある気がする。
知らない人のはずなのに、初めて見たはずなのに……。
「僕は君を知っている?」
「――嘘つき」
彼女は僕の耳に口元を寄せ、一言呟いた。
たった4文字の『うそつき』という言葉が、凄く重く、冷たく、悲しげに聞こえて、切なくなる。
「氷華様ぁ。そいつ怪しいんですぅ! 近づかない方がいいですよぉー」
「あかり、これは普通の人間よ。巻き込んではダメ」
「ええっ! 本当にこいつ普通の人間だったんですかぁ? じゃあ、記憶を消さなきゃ!」
そう言って天使はどこからか、大きなハンマーを取り出した。
えっ、記憶を消すって? 物理的に!?
記憶以外にも僕の命ごと消すつもりなんじゃないか!?
「ちょっ! まっ」
「ほぉーらぁ! 逃げないのぉー。男でしょっ!」
両手に持った鈍器を僕に振り下ろそうとしてくる。
間一髪の所で僕は避けることができた。
「あかり、普通に消しなさい」
「はぁーい! 氷華様のいうとおりにぃー」
今度は巨大なハンマーを消して見せた。
一体どうなっているんだ!?
「大人しくしていたら一瞬で終わるわ」
天使の眩しいくらいの笑顔に僕は見惚れてしまった。