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死刑制度問題についての考察 法と日本人

作者: 走るツクネ

 死刑についての議論は、私が物心ついたときから度々思い出したかのように話題に上り、いつの間にか他のニュースに取って代わられ、そしてまた2、3年経った頃に再熱する、というようなサイクルを取っているような印象があります。

 最近はネットニュースという媒体が以前より一般的になったためか、いつもより活発に、継続的に行われているようです。外国からの批判を受ければ受けるほど、我々は反感を持つようで、死刑制度維持の容認率は上がっています。


 死刑についての議論は古代から様々な地域でなされてきたことです。人権、という思想の本家である欧州が力を持ち始めてから、世界の趨勢は廃止論に落ち着いたようですが、非常に難解な問題であることは変わりありません。



【死刑制度問題の論点と限界】


 さて、この問題を議論する上で、様々な厄介な点があります。この問題に限らずよく見かける光景なのですが、厄介な点を認識しないまま議論をするために、収集がつかなくなることがよくあるのです。

 問題点を見るために、まず頻出する論点を見てみましょう。


 「被害者関係者の無念」、「更生と償いの余地」、「抑止効果の有無」、「冤罪の可能性」、「再犯を抑止する」、「死刑が違憲ではないか」、「外国の事情」などが主に挙げられるでしょう。


 これを見ると、人間の感情と、現行の法の限界、という二つの問題がまず見えてきます。


 許されざる行動を犯した人間に対して得も言われぬ怒りが湧く、もしくは、絞首刑が野蛮に感じる、などは人間が持つごく正常な心理です。これらは簡単には否定できません。

 重罪を犯した人間が、許されるかどうかという話ですが、正確には被害者関係者はもちろん日本国民が、許すことができるかどうか、という心理的な問題になってきます。更に、加害者に更生の余地がどれほどあるかなども、人間の心の問題になっているのです。


 また、社会制度に問題があるのも事実です。様々な人間、事情が同時に発生していくこの世の中ですから、「すべてに対応できるような一文」などは容易に生み出せるはずがないのです。人の罪を正確に計測するというのはSFの世界であり、現実世界ではまだそのような技術は生み出されていません。強力な法律、制度、もしくは技術が誕生するまで待たなければならないのです。

 違憲という指摘や冤罪の可能性、というのはこのどうしようもない事実から生まれた意見でしょう。


 このように、感情と制度という我々にはどうしようもない二つの要素が死刑制度問題にはあるのです。

 更に持論を展開する人間にも感情があるわけで、いまいち説得力がある意見が出てこないまま、ノーガードで水を掛け合う議論が始まるのにはこうした背景があるのだろうと思います。



【法に対する価値観】 


 反対派がよく強力な切り札だと思って使っている話題に、外国の様子というものがあります。


 死刑を採用しているのは世界的に少数派であり、先進国としてはアメリカと日本(あと中国)ぐらいしかない、というのです。そのアメリカさえも死刑執行には消極的だといいます。

 ヨーロッパは特に死刑廃止に積極的に取り組んでいます。日本に対しても強く働きかけているようです。

 これは事実のようで、反対派はよく主軸において議論を展開します。しかしここには一つおかしな点があります。


 EU連合のホームページによれば、死刑廃止は人権政策の一環であるらしいのですが、それではなぜ日本国民の多く(8割程度)が死刑制度維持を求めるのでしょうか。

 日本人だって人権については敏感なはずです。


 ここに社会の在り方が見えてくるように思えます。

 それは法律にどれだけ信頼をおいているかという話です。


 「みんなが守っていることは、みんなが守るべき」、というのは人間がもつ潜在的な意識ですが、次第にその感情に根拠を求めるようになります。「さもないと自分が不利益を被る」からです。それが法や条例です。逆にいえば、その強弱は別にしても、全世界の人間がこの意識は持っているということになります。


 他作品で日本の社会、文化、価値観の特異性を度々書いてきましたが、日本人は社会性を重んじる価値観を強く持っています。

 「みんなが守っていることは、みんなが守るべき」という意識が強いのです。例えば正しく列に並ぶ、電車では静かにする、などがこれにあたることでしょう。

 このような現象は他国、少なくとも私が訪れたことのある欧州諸国では見ることができません。もし決まりを守らなくても、少量の実力行使や妥協、許容によって利益を確保できてしまうからです。個人主義の精神が強いのです。

 そうした特異性によって、日本人の中では当たり前のことが、世界から称賛されることも少なくありません。

 なぜこのような違いが生まれるかといえば、これは別作品で書いたことですが、おそらく稲作と麦作という違いが生み出した社会心理の相違だろうと思われますが、ここではおいておきます。


 余談ですが、人や物の流動が活発になり、事例が多様化してきた現在、この「みんなが守っていることは、みんなが守るべき」という意識と実際の事例、つまり個々の損益に対する見解の間で摩擦が生じてきています。

 日本についていうなら、細かいところでいえばタバコやベビーカーに関する問題、大きなところでいえば憲法9条などの問題はここに起因する部分もある、と言って良いでしょう。


 先述のとおり、日本人は社会性、つまり法に対する信頼が比較的強い傾向にあります。「みんなが守っていることは、みんなが守るべき」という意識の判断基準となり、その対価を確実に満たすものだからです。公正な法律や条令で定めることによって、異なる価値観を持つ人間と行動をすり合わせるのです。


 「少量の実力行使や妥協、許容によって利益を確保」する外国と違い、社会から受ける恩恵をことさら日本人は頼りにしています。「社会を守ることによって、自分の身を守ろう」、そして「自分の身を守ってくれる社会を作ろう」という意識が非常に日本人にとっては大切になってくるのです。


 社会が動く中で、人間が不完全なものであるという事を、我々は理解しています。しかし神を信じることができず、組織を信じる事もできません。それゆえに、法を信じるようになったのです。


 その究極として、死刑制度は存在し、容認されていると考えることができるのではないでしょうか。法を根拠にしているため、法は何よりも強いものでなければなりません。


 法があらゆる意味で、最大の攻撃力を持っている必要があるのです。


 死刑制度維持賛成派が多数という事は、あえて言うならば、「神が許しても法が許さない」という信仰を日本人は持っているということです。

 このようにして考えていくと、死刑制度を容認するというのは、日本人という民族が辿ってきた歴史から生まれた意識ではないか、とすることができます。

 もしそうであるなら、死刑容認と野蛮性を結びつけて議論の焦点にするのは軽率であるといっていいでしょう。死刑の抑止力についても、容認派すべての人が認めているわけではないのです。


 死刑制度問題を取り上げるとするならば、考えるべきことは死刑の有無ではなく、我々日本人の法に対する依存度です。

 この根本的な問題を抜きにして死刑制度だけを取り上げるために、賛成派も反対派もいまいち説得力に欠ける感情論を振りかざしているようにみえるのです。

 日本で死刑を廃止したいのであれば、日本人の法に対する意識を改めなければなりません。手っ取り早い方法としては、宗教の力を借りるという手段があるでしょう。いまの日本では現実的ではありません。しばらく死刑がなくなることはないと考えられます。



【最後に:グローバル社会について】


 最後に報復について少しだけ触れておきます。

 重大な犯罪を犯した者は相応の報いを受けるべき、というのは人間がだれしも持っている価値観です。物語や小説などのオチとしても欠かせないものでしょう。世界的にみても歴史的にみても、報復は特別なことではなく、むしろ報復が動機となる攻撃は一般的です。私的な報復も近世まで認められていました。


 死刑と報復には密接な関わりがあることは言うまでもありません。死刑制度は被害者の報復権を肩代わりしている物だからです。よって、死刑廃止は報復権を不当に制限するものだ、と考えられています。被害者のやるせなさは想像に難くなく、制度維持派にとって有力な意見となっています。


 ではなぜ欧州は死刑を廃止できたのでしょうか。これはまったく確証がないことですが、答えの一つは歴史にあるのではないかと思います。

 欧州は国家間戦争の歴史を歩んできました。外交関係を友好敵対を目まぐるしく変化させ、常に利のある方と手を結んできたのです。20世紀に入るころの、ドイツの脅威を目の前にしたイギリスとフランスが良い例でしょう。彼等は先祖を殺したであろう相手国と同盟を結ばなければならない、という状態に頻繁に置かれてきたのです。このことから、報復感情を納得させるということに、抵抗を感じない、または慣れているのではないかと考えられます。

 この特性は歴史的な流れによって生じたものです。つまり、死刑廃止に踏み切ったからと言って、民族の先進性を見出すことはできないと考えられるわけです。

 

 そもそも、このグローバル化した現代社会で、もっともやってはいけないことは、こういった他民族の事情や辿ってきた歴史、価値観(合わせて文化とも言えます)を無視することです。

 帝国主義の負債を取り払おうと、先進国は各方面で躍起になっているようですが、武力以外にも他民族を侵略してしまう危険性があるということを理解しなければならないでしょう。いや、確実に理解しているとは思いますので、これは傲慢というものです。


 先に述べた通り、様々な事情や人間があって、その全てに適応できるような一文(法律)を作り出すことは、一国の中ですら難しいことなのであり、それを世界規模でやろうなどという試みはそもそも破綻しているのです。度合いの問題ならともかく、一か零かの問題で干渉するべきではないでしょう。


 反対に、現状のグローバル社会に参入するにあたって、重要なことは他者と同調することではありません。必要なのは自らの事情を正確に把握し、崩壊しないように制御するという事です。

 ある程度価値観を共有する日本国内でのご近所付き合いとはわけが違います。もし他者に合わせるならば、根本的で大規模な意識改革が必要なのです。それが簡単に達成できることではない以上、安易に他者の干渉によって己を形作るものを変えてしまうことは避けなければならないでしょう。



 知人と話していて、なぜ日本には死刑制度があるのか?と聞かれたので、咄嗟に社会的な意識という面から話しました。興味深い結論が出たので投稿させていただきました。

 法が最大の攻撃力を持つ必要があるから死刑はなくならない、というものも暴論のような気もしますが、外れてはないでしょう。


 国民の理解を得たうえで撤廃するのは将来的にも不可能だろう、というのが本考察での結論ですが、私個人の意見としては、どちらかといえば賛成派、というあいまいなものです。


追記(11月29日17時頃):死刑制度問題の周りにある別の問題も、感想欄でいただいております。意識の外に置かれていた話題もありました。ぜひそちらも併せて読んでいただければと思います。

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宗教や社会意識、価値観については拙作、幻想歴史読本でも書いております。
面白いと思っていただけたら、是非そちらもよろしくお願いいたします。
幻想歴史読本
― 新着の感想 ―
[一言] 問「何故日本人は、死刑制度を廃止しないのか」 答「現場での容疑者に対する射殺を原則的に禁止しているから。そして身分立場によらず〝個人〟による殺人を認めないから」 〝個人〟による殺人。復讐や…
[一言] 詳しくは知らないけれども、欧州においては神の名のもとに死刑にしていたのが盛大な冤罪だったという実例があるから、屁理屈を繰り出しても、「人が人を裁くなど神の名を語る行為だ」という視点をかわせな…
[一言]  ご返信ありがとうございます。私も、変に理屈をこね回しすぎて、分かり難い文章になってしまったようです。  おそらく、話が噛み合わないのは、私が「反宗教」であると同時に「死刑反対論者」である…
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