Because I (…) you
今日の仕事はオフィスビルの床の清掃だった。
ヨーコはまだ入って三ヶ月の新人バイトなので、業者がよく使う、固体でも液体でも吸い込む大きな掃除機のような機械や、洗剤を噴射しながら床を磨く重い機械は使っていない。主に水汲みや、機械に貯まった汚水を流しに行ったり、細々した所を拭いたり、モップや雑巾を洗ったりの雑用だ。
それでも、いや寧ろ、やることはなかなか沢山あり、ヨーコはあちらこちらを忙しく動き回った。
「謳野、お疲れさん、先休憩行ってきな。はいジュース代」
「サワさん、いつもあざっす。行ってきます」
サワさんの機嫌はそんなに悪く無いようだ。促され、ヨーコはビル外にある喫煙所に向かう。喫煙所の横の自動販売機で買ったコーヒーを飲み、一服。紫煙をゆっくり吐く。身体を伸ばす。水を一杯にいれたバケツを持って何度も往復したお陰で、腕も肩も腰も軋んでいる。肩と首を回すと、ポキポキと軽い音がなった。
別にヨーコは人より力が強い訳でも、掃除好きな訳でも無い。そんな彼女がむさい男所帯の中で、キツイ、汚い、危険(清掃は、高所での作業も多いのだ)の所謂3Kを役満で満たす清掃の仕事をやっているのには、多少の訳があった。
ヨーコは高校を卒業して直ぐに働き始めた。別に家が貧乏で大学に行けなかった、という訳では無く、早く家を出て自立したかったからだ。
特に荒れた家庭では無かった。が、全くの円満な、平和に満ちた家庭でも無かった。両親はヨーコが物心ついた時には離婚していて、母親がまだ二歳だったヨーコと五つ上の兄を引き取り、女手一つで二人の子供を育ててきたのだ。
兄は進んで幼いヨーコの面倒を見て、父親替わりを買って出た。母も昼夜仕事で忙しいながらも、優しく、時には厳しく子供を育てた。祖父母もしょっちゅう遊びに来たし、祖父母の家にも良く連れていってくれた。ヨーコが寂しい思いをしないように、家族皆が心を尽くしてくれた。
だが、父親の話題は誰もしなかった。
子供の頃、家族に父親の事を聞いた事がある。祖父母は曖昧に笑ってごまかし、兄は「いいじゃないかそんなこと。俺がお前のとーちゃんだよ、そう思ってろよ」と言うだけ。そして母親は一瞬、怒ったような、泣いたような顔をして、そして困ったような笑顔で「今度話すよ」と言った。
なんとなく、もうこれ以上聞いては母が可哀想だな、と思って、それでこの話はおしまいになった。
そういう訳で、家族皆に可愛がられ、且つ少々過保護気味に育ったヨーコだったが、いつまでも子供扱いしてくる家族に段々と辟易とし、思春期に差し掛かる頃には、高校を卒業したら直ぐに一人暮らしを始める事を決意していた。細々としたアルバイトで貯めた金は安アパートへの引っ越しに充分足りる金額となった。
勿論家族は一丸となって彼女を止めた。母親は少女の一人暮らしは危ないと大げさに心配し、就職先の内定が決まっていた兄は、金の事なら俺も援助するから大学進学しろと諭し、祖父母もやはりお金の事が心配なら、用意しておいたお金があるからと言った。
ヨーコはそれら全てを振り切るようにして、少ない荷物を纏めて、生まれ育った実家から出ていった。
母親の事が好きだった。たまに感情的になったりしたれけど、沢山愛して貰った。
兄の事が好きだった。妙にあれはするな、これはするなと小言を言われたが、大事にしてもらった。
祖父母の事が好きだった。母も兄もいない時には必ず面倒を見に来てくれて、向こうからは何も言わないけど、暖かく見守ってくれた。
家族の事は、好きだった。が、ヨーコはそこから逃げるように離れ、自立の手段を求めた。
保証人不要の安アパートに住所を写し、即日即払いの仕事を探す。資格不要で、給料がそこそこに良く、愛想が悪い人間でも出来る仕事。
幾つかバイトを転々とし、やがて居着いたのが、この清掃の仕事だった。
掃除の機械のモーターが回っていれば、音楽は聴こえなかったのだ。