追う者
2/追う者 始
ありったけの力で、ペダルを漕いだ。靴底が擦り切れるくらい懸命に。
それでも、サイレンの音は拭えない。
俺は、追われていた。四角い豆腐みたいな形の、冗談みたいに整然とした工場の、長方形のトンネルの先を見た直後に、見つかってしまったのだ。
警報音に気づいた時には、既に遅かった。その頃には、ドラム缶のような形の警備ロボットが三体ほど俺の目の前に立ち塞がっていたのだ。ロボットは扇状のビームを浴びせ、スキャンを開始し、俺の素性を瞬く間に暴いた。
『認識番号《h-238334》。あなたは一五四七時現在、自宅での学習活動を推奨されているはずです。また、あなたの当敷地内への立ち入りは、一〇代男性の正常な生活基準を大きく逸脱するものです。即刻退去して下さい。即刻退去して下さい』
ドラム缶の胴体から警棒のようなものを突き出し、ロボットは警告してきた。
「言われるまでもねえよ!」
警告が出た時点で、市当局や警察への通報は済んでいるはずだ。一刻も早く逃げる必要がある。俺は捨て台詞を残すと、急いでコンベア沿いに出口となっている搬出口へと走った。相変わらず労働者たちは無関心を貫いているようだった。それもそのはずだった。
ともかく俺は、陽光に照らされ、飴色に輝いている搬出口に飛び込んだ。後ろから、サイレンが輪唱して聞こえる。肩越しに、ドラム缶型の躯体が三体、赤いランプを点灯しながら走ってくるのが見えた。追ってきている。
搬出口の脇に停めておいた自転車にまたがると、俺は急いで発進した。
そういうわけで、現在に至る。警備ロボは、胴体下部に取り付けられた四つの車輪を使って、時速三十キロで追いかけてきている。形状からは想像もできない速さだ。だから、息が切れるほどペダルを回してようやく距離を保てるという体だった。
もうじき、工業区を抜ける。タマゴ型やらトウフ型やらの工場群とも、これでおさらばだ。
工業区を抜けると、旧時代的な情操教育区画のひとつである臨海区に差し掛かる。
昔は海や山、自然というのは情操を養うのに最適なものとされていたが、度重なる開発の結果、環境汚染が深刻化した関係で別の方策をとることとなった。VRによる教育である。仮想的に再現した自然やCG空間で、子供の感性を育てようというのだ。今となってはこのVRによる教育が主流で、本来の自然に触れて情操を育もうだなんて人間はほとんどいない。それ故、自然を多く残した、いわゆる情操教育区画は次第に放棄されていった。遥かな歴史の中では、自然が価値観や感性を育て、様々な資源を生んだ時代さえあったそうだが、現代社会でその面影を見出すことはもはや不可能に近い。自然は死んだ。人の進化の過程で不要とされたのだ。
差し掛かりつつある臨海区もまた、不要とみなされ放棄された区画のひとつだった。この市において、唯一自然らしい自然を残している区画である。
真っ白な工場群が遠ざかっていく。路面も徐々にひびが目立つようになり、あちこちからひょろひょろと雑草(現実で見たのはこれがはじめてだった)が顔を出している。建物は点在している程度で、視界はほとんど開けていた。どうやら臨海区に入ったようだ。
息を吸う。
都市区画特有の、不自然に澄んだ空気じゃない。
少し、生臭さの混じった、しょっぱい空気だ。
背後のサイレンの音が急に大きく感じられた。後ろを見る余裕はなかったが、追手はかなり近づいているようだった。はじめて見る臨海区の光景に気を取られて、漕ぐ脚がおろそかになっていたせいだ。追いつかれている理由はそれだけではない。明らかに、俺は疲弊してきていた。ほとんど全力疾走に近かったから当然といえば当然だが、限界が近づいてきていたのだ。全身汗まみれだったし、脚はもはや鉛のようだった。
「ん、ぐ、ぐぅぅっ」
残されているのは気力だけ。サイレンは刻々と近づいてくる。引き返してしまったほうがよいのではないか。回らない頭でそう思った。警備ロボに情状を酌量することはできないが、この一連の追跡劇は恐らく、ロボットに内蔵されたカメラによって、リアルタイムに監視されている。だとすれば、それを見ている者なりなんなりに、誠意を見せることで罪は軽くなるかもしれない。引き返す仕草だけでも見せておけば、矯正施設行きは免れるかもしれなかった。
ここで明かしてしまうが、俺の本来の目的はこの臨海区に到達することだった。それを純粋に濾過したなら、本物の海をみたいという欲求をみつけることができる。本当は、自分自身の目で広大な海原を捉えたかった。しかし、工業区を超える――その事自体がひとつの肝要事であって、そこを達成してしまった今、俺の心は、おとなしく引き返し、市の決まりに則った罰を受ける、という方向に傾きつつあった。
これに呼応するように、速度は落ちていく。人間が見れば、『逃亡を企てるも衰えを知らない追跡の勢いに、いよいよ観念した男』という風にみえるだろう。
あっという間に、警備ロボットは俺を包囲した。警棒を振りかざすも攻撃はしてこないところが、いかにもロボットらしかった。人間を傷つけることは、奴らの本意ではないのだ。彼らはけして、アシモフの三原則を超えることができない。
ロボットは合成音声でこう言った。
『認識番号《h-238334》。以後は、我々の誘導に従って下さい』
俺は降参の意を込めて両手を挙げ、
「了解」
と返す。
粘ついた潮の香りが、鼻腔をくすぐる。思えばこの感覚も、束の間のことだった。
写実的に生を描写したこの香りを、俺は今後二度と味わうことはないのだろう。
2/追う者 終
改めて読むとろくすっぽ調べずに書いたてきとーSF感がすごい(小並感)