1.終曲 ―Finale―
莉音はただ、そのまま虚空を見上げていた。兄が出て行った後も、その姿は変わらなかった。天窓の真下に立ち、そこから見える星空を眺めているようにも見えた。
しゃくりあげながら、舞桜が顔を上げた。銅像のように佇む莉音をしばらく見ていたが、とうとう声をかけた。
「……何、やってんのよ…」
莉音は答えない。身じろぎ一つしない。舞桜は苛々を隠さず、少しだけ声を強めた。
「聞きなさいよ、ちょっと!」
そこでやっと莉音が彼女に目をやった。操り人形のようにぎこちなく首を傾け、無表情で舞桜の顔を凝視する。硝子のような目で。舞桜はその異様な雰囲気に、乗り出した身を引いた。
「…な、なによ…どうしちゃったのよ…」
だが莉音は首を向けただけで、何も言わない。天窓からの月明かりに照らされて、彼女はうっすらと光を放っているように透けていた。それはどこか神々しく、なのに見る者を畏怖で凍りつかせる輝きを持っていた。
と、莉音がゆっくりと唇を動かした。
「…あなたのせいよ…?」
舞桜はその言葉に肩を引き攣らせた。莉音は彼女に歩み寄り、尚も言葉を吐き続ける。
「あなたが…彼をけしかけたんでしょう? 知っているわ…だから彼は死んだ」
「違う!! あたしは悪くない!!」
近寄ってくる莉音から逃げるように、大きく首を振りながら舞桜はその場から後ずさった。
「アイツが、アイツが勝手に行っただけよ! あたしが殺したんじゃないってば!!」
その両目は錯乱したように左右に揺れ、焦点が合っていない。莉音はそれでも畳み掛けるように舞桜を追い詰めていく。
「なら…どうして彼は死んだの?」
「そ、それは…」
「…誰が、彼を、殺したの?」
舞桜の目の前に立ち、威圧するように見下ろして言葉を投げる。舞桜は更に錯乱し、急に立ち上がって莉音の頬を叩いた。乾いた音が鳴る。
「知らない!! 知らない知らない知らない!!!」
二度、三度。掌を往復させ、莉音の頬を赤く染めていく。5度目のそれが打ち下ろされる刹那、莉音は舞桜の手首を素早く掴んだ。
感情のない瞳のまま、莉音は舞桜に微笑んだ。口元だけ笑うその歪な笑みに、舞桜は背筋を凍りつかせた。
一方。
零音は半ば引きずるようにして、黎至を一番端の部屋まで連れ込んだ。顔だけ出して莉音たちがきていないのを確認すると、しっかりと扉を閉める。黎至はばつが悪そうに、きょろきょろと足元を見ては頭を掻いた。
ふう、と短く息を吐いた後、零音は強く黎至を見据え、彼の正面に人差し指を突きつけた。
「朽城先生…あなたが犯人ですよね…?」
一瞬戸惑いながら黎至は彼を見たが、ふっと笑ってまた視線を落とした。それはどこか諦めのようにも感じられて、零音は推測を確証に変えた。
「俺達はタイガがいなくなった後、全部の部屋を探しました。この部屋は熱をだしたリオンが眠っていた。あとで聞いた話ですが、タイガは僕達と入れ違いでここに来たそうです」
零音はゆっくりと吐き出しながら、窓際に動いた。もちろん、視線は黎至を向いたままだ。
「その前に、俺達はあなたのいた部屋に行きました。マオちゃんが声をかけたの、覚えてますよね? あなたは『タイガは来ていない』とすぐに言いました。その時はまだ他の部屋を見て回る前だったから、俺達は何の疑問もなくそれを鵜呑みにした」
間違えのないように一字一句を記憶と一致させながら、零音は長い言葉を紡ぐ。
「でもそれが誤算だった…あの時あなたは、タイガと一緒にいたんじゃありませんか」
そして黎至を射抜くような目で見、繰り返す。
「リオンがタイガを見たのは、きっとタイガが飛び出して行ってすぐの事だった。そのあとリオンは再び眠っていた。犯人捜しに夢中だったタイガは、きっと先生の所にも行ったはずです。あなたはタイガに詰め寄られて、あの部屋にタイガを連れ込んだ。殴って気絶でもさせたんじゃないですか? そしてその後すぐ、俺達が来た」
この部屋には電気がない。窓からの月明かりだけが部屋に差し込み、零音は逆光になって部屋の床に影を落とす。黎至は黙ったまま、下を向いて動かない。
「俺達は部屋を開けなかった。死体が幾つも転がるようなところに、俺達が入って行くわけがない…あなたの計算通りでした。俺達はあなたの言葉を信じて、またタイガを探しに行きました。見つかるわけがないですよね。あなたと一緒にいたんですから」
ここまで言っても声一つ出さない黎至を少し不穏に思いながらも、零音は続けた。
「俺達は諦めて広間に戻った。その時にはもう広間にリオンがいた。あなたは悠々とタイガを部屋から移して…殺した」
そこだけは、声がかすれた。軽く咳払いをする。
「他の人の時も、先生だけなんですよ…単独行動してたのは。ライトの時も、木林先生の時も、エリスさんも、睦月君も。必ずあなただけは、ずっと一人でいた。これ以上動かない証拠がありますか? いい加減認めて下さい、朽城黎至、先生」
最後に強く名前を呼び、零音は黎至の反応を待った。彼は未だ床の一点を見つめたまま、指先だけで器用にポケットの煙草を取り出し、火をつけた。紫煙が立ち上る。
黎至が大きく煙を吐き出し、ゆっくりと顔を上げた。その顔には哀愁のような笑みが浮かんでいた。だが零音には、狂気に満ちた笑いにも見えていた。
「やっぱり、あなたが…」
「おっと、まだ早いんじゃないか? 俺が犯人だと決め付けるのは、な」
黎至がそのままの表情で、零音の言葉を遮った。思わず彼は眉をひそめた。
「丁度良かった。御影兄…お前に話したい事があったんだよ。大事なことだ」
「そんなこと言って…まだ言い逃れを」
「いいから聞くんだ!」
突然の怒号に、零音は開きかけた口をつぐんだ。静寂が支配する、黎至はもう一度大きく煙を吐き出すと、彼の目を真っ直ぐに見据えた。
「もしも―――自分が誰かに『作られた』存在だったとしたら、お前はどうする?」
突拍子も無い黎至の言葉。零音は眉をひそめた。
「お前の過去も、記憶も、全てが『作られた』ものだとしたら…」
「何を…言ってるんですか…?」
遠くを見ながら紫煙を吐き出す黎至に思わず零音は問いかけた。彼はちらと零音を見やり、ソファの背もたれに腰を下ろした。
「恐らく、今のお前にはまだ解らないだろうな、この意味が。だが…いずれ理解する時が来る。近い内に。その時お前は、冷静でいられるか?」
黎至の目が零音を見つめた。
「自分を…見失わずにいられるか?」
零音の頭に、鈍い痛みが走った。思わず右手でその額を押さえる。言いようのない感覚が彼の胸を襲う。呼吸が速くなる。
「レオン。お前はまだ知らない。本当の自分を。そして…御影莉音の事を」
急に莉音の名前を出され、零音は顔を上げた。黎至は相変わらず零音を見つめたまま煙草を咥えていた。灰が長く伸び、今にも地面へ落ちそうだ。
「本当の…」
零音の脳裏に莉音の姿がぼんやりと浮かんだ。か弱い笑み。憂いの眼差し。揺らぐ髪。記憶が逆巻く。幼い時分の二人が笑っている。額をくっつけ合い、目を閉じる。そうだ、『はんぶんこ』だ。辛いことも、嬉しいことも、はんぶんこ。猫のような莉音の瞳。隠されたもう片方は…。
「…これはお前達二人の為に用意された舞台だ。お前達が本当の自分を取り戻すための。演者は9人。主役はお前。そして監督は」
黎至は煙草を足で揉み消し、零音を見据えた。
「―――御影、莉音だ」
二人が見つめあった。張り詰めた空気が二人の間を流れていく。
「…リオン……」
ただ呆然と、零音はその名を口にした。訳もなく、言い知れぬ恐怖が身体を走った。新しい煙草を口に咥え、黎至はライターから勢い良く炎を上げた。
「さて…残された役者は4人。俺とお前、リオン、そして笹倉舞桜。この中で次に舞台から降りるべき人間が誰なのか…解るだろう?」
零音ははっとして駆け出した。座ったままの黎至と交差する。彼は零音の背中を一瞥し、煙を吐くだけだった。
冷や汗か脂汗かわからないものが零音の全身を流れる。建物の中は異様な静けさで、零音の靴底が擦れる音だけが妙に響いた。
広間が見えた。祈りにも似た気持ちを抱いて、零音は雪崩れ込んだ。
誰も、いなかった。
「リオン! マオちゃん!! どこだっ!!!」
零音は広間を見渡したが、何度目を凝らしても人影はなかった。零音は飛び出し、惹かれるようにある部屋の前で立ち止まった。
黎至が死体を安置した、あの部屋だ。
なぜか導かれるようにして、零音は扉の前に立った。深呼吸をする。どうか、どうかいませんように。
意を決し、零音は扉を開いた。軋む音を鳴らしながら、重苦しくそれは口を開ける。点滅する電球。折り重なった6つの死体。
その手前に立つ、影。
手にはバットのようなものが握られ、その先端は薄明かりでもわかるくらいに禍々しい色に染め上げられていた。それを持っているのは、細く白い、華奢な腕。
「あ……あ…っ…」
まだ新しい血の臭いが、零音の鼻をくすぐった。影はゆらりと揺れ、その姿を露にする。
いつの間に彼を追ってきたのか、零音の背後には黎至の姿があった。彼は驚愕に恐れく零音を押しやり、影の前に立った。
「やはり…お前だったか。御影莉音、いや…もう一人の『リオン』」
影の頭を覆っていた黒いフードがはらり、と取れた。明滅を繰り返す白熱灯に透ける、銀色の髪だ。影を落とす前髪の奥で、その瞳だけが異様に輝いていた。左目は猫の色、右目は――血の赤。唇が非対称な笑みを浮かべる。床を引きずる金属製のバットが、ごり、と耳障りな不協和音を奏でた。
三人はそのまま静止した。まるでこの空間だけ、時が切り離されてしまったようだった。誰も動かない。零音は動けなかった。恐怖と絶望に目を見開き、震える足でそこに立っているのがやっとだった。
「……おはよう、私のレオン…」
莉音の口からは、今まで聞いたこともないような妖艶な音色が流れた。
誰も動かなかった。この部屋には古びた柱時計があったが、それすらも生を忘れたように止まったままだ。振り子が不自然な位置で止まっている。おそらく螺子が切れたのだろう。
最初に音を立てたのは莉音だった。彼女は持っていたバットを床に投げ捨て、それは不快な金属音を残してその場に倒れた。彼女は不気味な微笑を湛えていた。
「レオン…ほら、邪魔なものは全部消してあげたわ。ねぇ、一緒に遊びましょうよ。昔みたいに…」
そう問いかけられた零音はただ呆然と、彼女を見るしかなかった。あまりの驚愕に、何も答えることが出来ない。莉音の言葉に答えたのは黎至だった。
「御影莉音。君に、聞きたいことがある」
しかし莉音はそれに何の反応も返さず、一歩ずつ零音に近づいていった。反射的に零音が後ずさる。
「どうして逃げるの? レオン…またあなたのおもちゃを作ってあげたのよ、嬉しいでしょう?」
零音はいやいやをするように小さく首を振った。
「リ、リオン…何で、こんなことを…」
二人の距離は中々縮まらない。その中間に黎至が立ち塞がった。
「…なぁに、朽城先生?」
ようやく莉音が、うんざりしたような声を黎至に投げかけた。それを逃さず、黎至は落ち着き払って彼女に言う。
「聞かせてくれ。どうしてこの面子が、ここに集められたんだ? 君と零音、そして俺はまだ解るが…他の奴らに関しては、どうも腑に落ちない」
黎至の質問に意表を突かれたのか、莉音はけたたましく笑い転げた。そして急に真面目な顔をし、口元を歪める。
「なんだ、そんなこと…簡単よ。邪魔だったの、私たちの世界には、ね」
「邪魔…?」
「そうよ。みぃんな邪魔者。私とレオンに近づく者は全員、この世から消えてなくなればいい。だから殺したの。ただそれだけよ」
当然のごとく、莉音はさらりと言ってのけた。黎至が一つ溜息を吐き、真っ直ぐに彼女を見据えた。
「じゃあ、一人ずつ教えてくれないか。どうして君達にとって邪魔だったのか。俺が知りたいのはそこなんでね」
莉音は鼻で黎至を笑った。
「…仕方ないわね、じゃあ教えてあげるわ。最初は…ライトね」
彼女の独白が始まった。死体の周りをうろうろと歩き回りながら、まるで物語を読んでいるかのように淡々と話し始めた。
「彼はね、私とレオンを引き離そうとしたの。レオン、覚えているでしょう? 彼は言ったわ、『妹を突き放せ』ってね」
と、彼女は急に激昂した。声を荒げ、足を踏み鳴らす。
「許せないわ! 私とレオンを遠ざけようとするなんて!」
かと思えば再び柔和な笑みを浮かべて、黎至を見つめる。
「…本当はもっと楽に殺してあげるつもりだったんだけど、失敗しちゃったみたい。意外だわ、人って拳銃三発じゃ案外死なないものね」
何の感慨もなく話す莉音を見て、零音は軽い吐き気のようなものをおぼえた。唾を飲み込み、必死に涙をこらえる。
黎至が少しの間を空けて、続けた。
「…木林清玲奈、彼女は?」
「ああ、あの人…だって彼女、レオンに色目を使っていたじゃない? 成績やら生活のことでよくレオンだけを呼び出していたもの。もしかしたら生徒以上の目で見ていたんじゃないの、気持ち悪い!」
莉音は足を止め、くるりとターンをした。そして零音の瞳を見た。
「ねぇレオン。昔、彼女の背中がきれい、って言ったわよね?」
零音はぼんやりと、それでも必死に記憶を辿った。ああ、確かあれは夏のある日、英語の授業中だ、黒板に向かって板書をする清玲奈のシャツ越しに、下着が透けていたのだ。それを目ざとく見つけた頼人が零音の耳元でこう言った。
『なぁレオン、セレナ先生の背中っていいよな! あのシャキッと伸ばした感じ、たまんねぇ!』
零音は苦笑しながら、曖昧に『そうだね』とだけ答えた。それを莉音は見逃さなかった。
彼が思い出したのを悟ったのだろう、莉音は薄く笑った。
「だからね。斧で割ってあげたの。その方がもっと綺麗だと思ったから」
零音の視界に、死体の山が映った。淡い桃色のシャツがやけにくっきりと彼の目に焼きついて離れなかった。視線の先を、莉音の細い足が遮る。息もつかぬ間に、黎至が畳み掛けた。
「篠宮依理子はどうなんだ? 君とは直接関係ないはずだろう。何故彼女を殺した?」
「そう。関係なんてないわ」
間髪入れずに莉音が立ち止まり、言い放った。
「私とは関係ない。でもね、彼女と深い関係にある人間がいたでしょう。そっちが問題なのよ」
おそらく泰牙のことであろう。集められた面々の仲で依理子と直接関係しているのは彼だけだ。
「私が許せなかったのは彼の方。だからあの子には死んで貰ったわ。その方が…彼が苦しむと思って」
ふふ、と楽しげに笑う莉音は、もう常軌を逸しているようにしか見えなかった。
「…そういうことか」
「ええ。それに、神様崇拝が少し気味悪かったしね。でも彼女はどうでもよかった。ええと、次は…あぁ、あの男の子ね」
莉音は思い出すように小首を傾げ、そして眉間に皺を寄せた。
「彼…本当に気持ち悪かったわ」
優慧が部屋の扉を開いた。案の定、そこには双子の姿があった。突然の彼の訪問に驚いたのか、零音は怪訝な眼で優慧を見た。
「どうしたの? 何か用?」
努めて明るく、零音は優慧に問いかけた。しかし優慧はそれを無視し、莉音におずおずと歩み寄る。莉音は咄嗟に、兄の後ろへ隠れた。
「あの…リオン先輩、ちょっとお話が…」
莉音は下を向いたまま何も言わない。優慧もどうしたらいいか解らず、その場に立ち尽くすしかなかった。見かねた零音が助け舟を出す。
「睦月君…だよね。リオンに用? ここで話して構わないけど」
「いえ! リオン先輩だけに聞きたいことが、あるんです」
緊張のあまり、最後は声が上ずってしまった。彼の顔が見る見るうちに真っ赤になる。
と、莉音が掴んでいた兄の服を離した。そして小さく返事を返す。
「……少し、なら…」
優慧の顔は更に上気した。隠し切れない照れと喜びを前面に押し出した調子で、彼は意気揚々と頷いた。
「じゃあ、行きましょう! すぐに終わりますから!」
浮かれて部屋を出て行く優慧に、莉音が続いた。一定の距離を保ちながら、彼についていく。誰もいない廊下の途中で、ふと彼女が立ち止まった。それに気づいた優慧が同じく立ち止まり、莉音に駆け寄る。広間にいた時と同様、彼女は頭痛に耐えるようにしてこめかみを押さえていた。
「だ、大丈夫ですか!」
莉音から返事はない。焦った優慧はそっと彼女の肩を抱こうとした。
しかしそれより先に、莉音が優慧の腰元に抱きついた。まさかの展開に、優慧は息を呑んだ。制服のベスト越しに、彼女の体温がじわりと伝わってくる。
彼が動けずにいると、莉音は小さな声で言った。
「ねぇ、さっきはごめんなさい。私、驚いてしまったの…お兄様以外の男性に触られたの、初めてだったから」
自らの胸に顔をうずめたまま話す莉音をまともに見ることもできず、優慧はただ何度も頷くだけだった。
「…本当にごめんなさい…親切にしてくれたのに、あんな態度をしてしまって…」
「い、いえ、気にしてませんから! 僕こそ、失礼しましたっ!」
「いいの…ねぇ、睦月君」
突然呼びかけられた自身の名に、優慧は飛び上がりそうになった。覚えてくれていた。それだけで充分だった。しかしそれに続いたリオンの言葉は、優慧を更に舞い上がらせた。
「お礼がしたいわ…今日の夜、広間で少し、話をしましょうよ。できれば…二人きりで…」
堪えられなくなり、真っ赤に染まった顔を莉音に向けた。上目遣いの彼女は珍しく微笑んでいた。優慧の知る限り、莉音が兄以外の人間に笑いかけているのを見たことがない。
優慧の緊張はピークに達した。体が硬直する。喜んで、と言いたいのに、ぱくぱくと口を動かすことしかできない。そんな彼に莉音はふふ、と笑いかけ、顔を近づけた。耳元へ。
「…待っているわ。必ず、一人で来てね…」
目を丸くして動けない優慧にお構いなしで、莉音はそれだけ言うとくるりと背を向けた。小走りで走り去っていく。きっと彼女を待つ兄の元へ戻って行ったのだろう。後には惚けたように直立する優慧だけが残された。あまりの驚きに、眼鏡がずり落ちている。しかし彼はそれを直すこともできないくらい、放心していた。
「先輩が…僕を……」
ひねり出した言葉は、そんな間抜けな台詞だけだった。しかしそれは言葉にすると突然重さを増し、沸々と心に歓びを湧き上がらせた。高ぶる気持ちを抑えることもなく、優慧は飛び上がって天を仰いだ。
莉音の口から自分に向けられて出た言葉を何度も反芻し、かみ締める。
「リオン先輩が、僕の名前を呼んだ…二人きりで、話がしたいって…!」
本気で天にも昇れそうな気分だった。そこへふらりと出て行った舞桜がすれ違った。小躍りする優慧を目に留め、何か変なものを見たような目で彼に言った。
「…気持ち悪」
いつもならその言葉に打ちのめされてしまう優慧だが、今の彼は微塵も気にかけなかった。余裕に溢れた表情でそれを聞き流し、澄ました顔で一瞥する。ただ視線は莉音が去っていった方を見つめながら、湧き上がる感動と喜びに目を細めた。
「ちょっと優しくしたら簡単に呼び出せたわ。馬鹿みたい。私はレオンが眠った後に部屋を抜け出して、広間に行った。あの子、私の姿を見るなり飛び上がって喜んでいたわ」
莉音の顔に不敵な笑みが広がる。新しい玩具を手に入れた子供のようだった。
「それでね、彼を椅子に座らせて、耳元で囁いてあげたの」
「…驚いた? 私が、あなたの名前を知っていたこと…」
彼の肩に手を置き、莉音が問いかけた、唐突な質問に、優慧の頭は真っ白になる。
「あなた…よく私の教室に来ていたでしょう?」
ふふ、と含んだような笑いを漏らす莉音。優慧は驚きに声も出ない。何と言うことだ、自分の行動を、彼女は知っていた。途端に恥ずかしさが胸を襲い、彼は耳まで真っ赤になった。
莉音は彼の周りを円を描く様に歩いた。
「気づいていたのよ…あなたのしてたこと、全部…玄関で待ち伏せして、私達の家までつけてきた事もあったわね…」
あの日のことだ、二人が手を繋いでいるのを、初めて目撃した放課後。そのことまで、気づいていたなんて。
「私のクラスの時間割…全部覚えているんでしょう? 教室移動の時、必ずすれ違うものね、あなた…」
ああ、そうだ。この人のことは全部知っている。必死で調べた。少しでもその姿を見られるように、勉強と同じくらい本気になった。
莉音は顔を優慧の頬に寄せた。体温が感じられる程の近さで、優慧の動悸が激しくなる。
「あなた…私のこと、好きなんでしょう?」
優慧は耳たぶに吐きかけられる甘い吐息を感じて、全身の神経をそこに集中させた。
「知ってるわ、あなたがずっと私を見ていたの。いつも感じていたのよ、あなたの視線」
彼女の声は甘美な毒のように、優慧を痺れさせていく。頬は上気しきって、もう湯気が立ち上る勢いだ。莉音は彼の肩に、後ろからそっと腕を回した。
「ねぇ…ちゃんと言って。あなたの口で」
彼女の声に酔わされた優慧は、意を決してその腕に触れた。彼女は逃げなかった。雪のように白く冷たい莉音の両腕。それが今、自分だけに向けられている。ごくり、と生唾を飲み込んだ後、優慧は言われるがまま、途切れ途切れに言葉を紡いだ。
「ぼ、僕は…リオン先輩を、愛しています…」
何とか言い切った。極度の緊張感で目が回る。莉音はその格好のまま離れようとしない。それどころか、ゆっくりと優慧のネクタイに手を掛け始めた。酷く緩慢な動作でそれを解いていく。優慧の心臓ははち切れんばかりに拍動していた。
するり、とネクタイが解ける。莉音は彼の反対側の耳に、吐息まじりの声を囁いた。
「…教えてあげる、私の気持ち…私ね、ずっと…」
背中と柔らかい胸が、密着していた。彼女の体温を感じようと、優慧は目を閉じた。
しかし次にやってきたのは甘い愛の告白ではなく、気管を締め付ける自らのネクタイだった。
我に返り、優慧は首を掻いた。ネクタイと首の隙間に指を挟もうとするが、きっちりと巻き付けられたそれを空しく引っかくだけたっだ。
莉音は冷徹に、彼へ言った。
「…うざかったのよ、あなたのこと。私には彼だけいればいいの。目障りなのよ、あなた」
苦痛に顔を歪める優慧を何の感慨もなく見下ろし、ネクタイの両端を渾身の力で引っ張りあげる。
「せん、ぱ…」
かろうじて優慧が声を絞り出す。両手に力をかけ続けながら、莉音は再び優慧の耳元に口を引き寄せた。
「だから、ここで殺してあげるわ」
そう呟く。すると優慧が、首を掻きむしる指を何故か止めた。どことなく苦しみの表情の中に、快楽のようなものが見て取れる。莉音は眉根を寄せ、少しだけ手を緩めた。
優慧は小さく息を吸い込み、目を閉じて幸福に身を委ねた。
「ああ…先輩に殺されるなら…幸せ、です…」
そして笑顔を見せた。莉音は冷たく嘲笑すると、あとはひたすらに彼の首を絞め続けた。優慧の体から力が抜ける。座ったままうなだれて死んだ彼の顔は、恍惚の笑みに満ち溢れていた。
莉音は身震いし、細い肩を両手でさすった。
「ああ気持ち悪い。思い出しただけでも気味が悪いわ。でも、彼とっても幸せそうに死んでいったから、これで良かったのね」
そう言って可笑しそうに笑う。ちらりと零音に視線を向けるが、彼は完全に呆気に取られたまま、小刻みに震えて莉音を見ているだけだった。
黎至があくまで冷静に、彼女を促す。
「初見は何故殺した?」
くすくすと笑うのを止め、莉音が彼に向き直る。しばし逡巡した後、ああ、と両手を打ち鳴らした。
「だって彼、気づいてしまったんだもの。私がここで何をしているのか。殺すしかないじゃない?」
あたかも当然のように言い放ち、莉音は黎至を見つめた。
「それにね…元々彼は、もっと苦しめてから殺すつもりだったのよ。彼は私の大事なものを盗ってしまったから。苦しませて、もっともっと痛めつけてから殺そうと思っていた。だから…彼女を殺したのよ」
「篠宮、か…」
「そうよ。彼女を殺されて、かなり落ち込んでいたじゃない?荒れていたものね、彼。私は仕返しをしただけ。私の大事なものを奪った彼から、彼の大事なものを盗ってあげただけよ。なのに…」
莉音の瞳が妖しく光った。
「彼、自分から殺されに来たんだもの。仕方ないじゃない?」
彼女は耳にかかる髪をかきあげた。そこには小さなイヤリングがぶら下がっていた。零音の耳たぶにも、同じものが下がっている。夏休みの初めに、彼がお揃いで買ってきたものだ。
「私、ちょっとうっかりしちゃって…これを、広間で落としちゃったの。睦月優慧を殺した時に。探したんだけれど、見つからなくて…それもそうだわ、だってこれ、タイガが持っていたんだもの」
優慧の死体を見つけた泰牙が駆け寄り、ネクタイと共に拾い上げたもの。それは莉音のイヤリングだったのだ。彼はそれに見覚えがあった。しかし零音と莉音の二人ともがそれを持っているのも知っていた。だから彼はそれを敢えて隠し、犯人を導き出そうとしたのだ。零音と再び推察をした時に『黎至が犯人ではない』とはっきり言ったのも、確証があってのことだった。
莉音はイヤリングを揺らした。
「彼ね、私が眠っていた所に来たの。叩き起こされて、これを突きつけられた。これが死体の傍に落ちてた、やったのはお前だなって…私――リオンは無くしたものが見つかって、喜んでるだけだったけどね。その後も彼に迫られて、でもリオンは知らないとしか言えなかった。仕方が無いわ、本当に、リオンは何も知らないんだもの…」
泰牙は執拗に莉音を問い詰めた。しかし彼女は知らないの一点張りで、彼から逃げるばかりだ。痺れを切らした泰牙は、彼女に掴みかかった。
そこで、二人の莉音は入れ替わった。
「向こうから飛び掛ってきたから、私もつい本気で相手をしてしまったわ。まさかリオンがやり返してくるなんて思わなかったんでしょうね、案外あっさりと隙を見せてくれた」
莉音の猛攻にひるんだ泰牙を見逃さず、莉音は彼を組み伏せた。両足で泰牙の腕を押さえ込み、背中に乗り上げる。泰牙は暴れもがいたが、全体重をかけられた状態では成す術が無かった。莉音は隠し持っていたナイフを右手に持つ。そしてそれを泰牙の喉元に押し当てる。さすがに彼も暴れるのをやめた。
「殺す前にね、教えてあげたの。何で私が彼を殺すのか。だって彼、気づいていないみたいだったから。ちゃんと教えてあげないと、彼も納得できないでしょう?」
首に冷たい刃を感じながら、泰牙は莉音の台詞を待った。しかしそれは彼にとって心底想像もしなかった理由だった。
「せっかくだから、先生とレオンにも教えてあげるね。私が彼を嫌いになった理由。彼が私から奪った物。それは…」
莉音は白い指で、自らの口をなぞった。
「レオンの、唇」
予想もしない言葉に、黎至は目を丸くした。零音も同様だ。
「僕の…唇?」
そして莉音がしたのと同じように、自分の口を指でなぞる。
「ええ、そうよ。覚えているでしょう? 一年の球技大会で…」
そこまで言われて、零音の脳裏に記憶が蘇ってきた。
一年の時から、泰牙は零音達と違うクラスにいた。その頃はまだ零音と頼人が仲良くなったばかりの頃で、三人とも泰牙とは面識が無かった。全員参加の球技大会の決勝戦。野球の試合で、初めて彼らは顔を合わせた。
満塁ツーアウト、打てば逆転の戦況で、バッターボックスに立ったのは零音だった。元々運動の苦手な零音はぎこちなくバットを握る。彼の先でボールを握っているピッチャーが泰牙だった。
『初見ぃ、打たれたら御影とキスだからな!』
泰牙のクラスメートが冗談半分で野次を飛ばした。泰牙はそれを嘲笑い、全力で振りかぶった。スポーツにだけは自信がある、初心者に打たれるはずが無い。しかしその自信が仇となり、少し力みすぎてしまった。手を離れたボールは緩やかな放物線を描いた。
しまった、と彼が思った時にはもう遅かった。がむしゃらに零音が振り抜いたバットは小気味良い音を上げ、白いボールは遠く中空を抜けていった。誰もが絶句する。サヨナラホームランだった。
ゲームセットの笛がなり、肩を落としてマウンドを降りた泰牙を待っていたのはクラスメートの奇異の視線だった。先程野次を飛ばしていた一人が歩み寄り、ニヤニヤと笑いながら泰牙に言う。
『初見、打たれたらキス、だよな?』
それを皮切りに、泰牙のクラスでキスコールが湧き上がった。観戦していた学年全員がそれを聞いていたのが更なる不幸だった。キスコールは他のクラスにまで飛び火し、校庭全体が二人をはやし立てた。その中にはもちろん頼人の姿もあった。
背中を押され、人ごみを掻き分けるように零音が躍り出た。彼もまた戸惑い気味に、やめろよ、と苦笑しては周りを宥める。しかしそれで収まるはずが無かった。向かい合った零音と泰牙の視線がぶつかる。二人ともどうしていいかわからず、ただ視線を泳がせた。沸きあがる声は止む気配も無い。取り囲まれ、泰牙が吐き捨てるように言った。
『くそっ! 確かに打たれちまったからな。仕方ねぇ、責任とってやるよ!』
そして零音の肩をがっちりと掴んだ。
『ちょっ、初見君?! っ…!!』
抵抗しようとする零音の唇は、泰牙のそれで塞がれてしまった。同時に周囲からどよめきと歓声が上がった。誰もがその光景を一目見ようと、彼らの周りに人垣が出来た。
莉音は観衆の一番前で、呆然と立ち尽くしていた。
「そんな…あんなの…ただの遊びじゃないか…」
零音が震える声で言った。莉音はそれを受け、不快に顔をしかめる。
「彼も同じ事を言ったわ。あんなの遊びだ、ただの冗談だろうって…でもね、私にとっては違うのよ。彼はレオンにキスをした。私の…私のレオンに!」
怒り狂い、傍らに横たわる泰牙の死体を強く蹴った。くるくると豹変する莉音の態度についていけず、零音は呆けたようにそれを見ているだけだった。
「…だから、もっと苦しませるつもりだった。彼から愛する者を奪い取って、地獄の底に突き落としてから殺したかった。自業自得なのよ」
そしてまた急に落ち着きを取り戻し、その顔に微笑を宿した。
「彼が謝らなかったから、ナイフを彼の首に刺した。でもそのまま切ったんじゃすぐに死んじゃうでしょう? だから抉ったの。ゆっくり、ゆっくり、時間をかけて、彼の喉を引き裂いてあげたの」
恍惚の表情で話す莉音。生々しいその語り口に情景を思い浮かべてしまい、黎至は思わず固唾を呑んだ。
「先生は医学の心得があるからわかるでしょうけど、首を切っただけじゃ即死にはならないのね。致死量に至るだけの血が流れきるまで、苦しみながら死んでいく…彼にふさわしい死に方だったわ!」
「そして…笹倉、か」
その名前を聞いた途端、莉音の笑みが消えた。氷のように冷たい視線で、先程まで握っていたバットを見下ろす。
「彼女は…アイツだけは、死んでも許さない。絶対に」
莉音の声のトーンが下がる。赤く光る左目に、憎しみの炎が灯った。
「アイツはレオンと私を邪魔してくる、最大の敵よ。私たちに付きまとって、隙あらばレオンを狙ってくる女豹。私とレオンが特別な関係にあるのが気に入らないんでしょう、私とレオンをわざと引き離そうとしたり、レオンを合コンに誘ったり。本当に邪魔。大っ嫌い。虫唾が走る」
莉音は舞桜の片腕を掴んで、彼女の口を押さえた。その掌には折りたたまれた布が隠されていて、舞桜は一瞬のうちに気を失った。そのまま無造作に引きずるようにして、莉音は広間を出て行った。
舞桜が次に目覚めた時、最初に目に飛び込んできたのは積み重なる死体の山だった。恐怖に顔を引きつらせ身をよじるが、彼女は椅子に拘束されたまま身動きが取れなかった。
突如、彼女の視界に何かが飛び込んできた。それは扉から入ってきた黒いマントの人影。舞桜は薄明かりに目を凝らし、その顔を見た。
「アンタ…だったのね…」
フードの奥に見えたのは、紛れも無い莉音の顔だった。能面のごとく無表情のまま、莉音は舞桜を見ていた。縛られたままで、舞桜は声を荒げる。
「ちょっと、あたしをどうする気?! ふざけないでよ!」
だが莉音は静かに彼女を見下ろしただけで、言葉を発しない。舞桜はがたがたと椅子を揺らしてもがいた。
「解いてよ! アンタがやったこと、レオンにばらしてやる!」
と、舞桜の右頬に強烈な痛みが走った。驚き彼女が視線を走らせると、莉音がその左手を振りぬいたままの姿勢で静止していた。平手打ちが炸裂したのだ。
「…ちょっと、何するの…」
舞桜が言い終わらない内に、今度は左頬を打ち付けられた。彼女が言葉を放つ間もなく、何度も顔の前を掌が往復する。先程舞桜が莉音にしたように。しかし自由の利かない舞桜は、その手を止めることはできなかった。
舞桜がやったそれの倍くらい掌は打ち下ろされ、彼女の両頬は真っ赤に腫れていた。最後の一撃で椅子ごと倒れ、床に転がる。
「う…っ……」
痛みを通り越して感覚の鈍ってきた頬に舞桜はうめき声を上げた。ぐったりとされるがままに横たわる彼女に抵抗の意思がないことを確信し、莉音は緩慢な仕草で彼女の拘束を解き始めた。
「ねぇ笹倉さん…わかる? 私がどれ程、あなたを憎んでいるか…」
彼女を縛り付けていたロープをゆっくりと解きながら、莉音は優しく彼女に語りかけた。
「あなた、生意気なのよ…私とレオンの間に割り込んできて、邪魔ばかりして…私たちの世界に、あなたは必要ないの」
完全に拘束を解いたが、やはり舞桜は何度かうめくだけで動く気配が無い。少し満足したのか、莉音は彼女に背中を向けた。
「あなたなんか足元に及ばないくらい、私とレオンは深い絆で結ばれているの。それを壊そうとする奴は、例え誰であっても許してはおけないわ…」
莉音は頭にかぶったフードのせいで、背後が全く見えていない。音も無く舞桜が立ち上がっていたことに、彼女は気づいていなかった。莉音が振り向いた刹那、舞桜が彼女に飛び掛った。バランスを崩した莉音が転倒し、二人はもつれ合ってその場に転がる。二人とも奇声を上げながら、互いに掴みあった。舞桜の付け爪が莉音の腕に食い込む。負けじと莉音も彼女を蹴り飛ばし、よろけた舞桜の左頬へ力任せに裏拳を撃ち当てた。鈍い音が鳴り、舞桜は壁へ激突した。
荒い息を吐きながら、莉音は舞桜を睨んだ。脳震盪を起こしたのだろうか、舞桜はずるずると壁に背を預けてへたり込んだ。そのまま動かない。
莉音は彼女が完全に停止したのを見届け、部屋の入り口に横たえてあった鈍器を手に取った。金属バットだ。恐らく最初から用意していたのであろう。それを軽々と持ち、舞桜の前に立ちはだかる。
「あまり私を怒らせないで…私、こう見えて意外と短気なの」
強い眩暈に耐えながら、舞桜は莉音を見上げた。
「でも…もう遅いけどね!」
彼女が最後に見たのは、赤く光を放つ莉音の瞳と目の前に振り下ろされる凶器だった。
「…打ち所が悪かったのか、彼女は一撃で動かなくなってしまったわ。もっと痛めつけてから殺してあげるつもりだったのに…」
莉音は悔しそうに爪を噛んで、舞桜の死体を見た。それはほかの死体の山とは少しだけ離れた場所にぽつんと放置してあった。
「だから、何度も殴ったわ。二度とその顔で、レオンを誘惑できないくらいに。自慢のネイルも全部剥がしてやった」
見れば確かに、青黒い痣が全身に至るくらいの量で刻まれている。爪は折られ、彼女の周りに無残にも捨てられていた。うつ伏せになった顔の脇には、真っ二つになった携帯電話が転がっている。莉音はおもむろに歩み寄ると、携帯の破片を勢いよく踏み潰した。プラスチックの爆ぜる音が響き渡った。
黎至は溜息を吐いた。煙草が切れたのだろう、ポケットをまさぐって箱を取り出し、握り潰して捨てる。
「なるほど…それがこの事件の全様か」
「全部じゃないわ。まだ、あなたがいる」
黎至は顔を上げた。莉音が真っ直ぐに彼を見据えていた。
「あなたで最後なの。私とレオンだけがいればいいのよ」
ふっと自嘲めいた笑みを漏らし、黎至は白衣のポケットに深く手を突っ込んだ。莉音はつかつかと彼に近寄り、下から覗き込むようにして見上げた。
「朽城先生…わかっているんでしょう? 私がこうなってしまったのは、全てあなたのせいだ、っていう事」
黎至は何も言わなかった。それはどう見ても肯定として受け取れる沈黙だった。
彼の後ろで怯えたように立ちすくむ零音に、莉音の視線が向いた。
「レオン。まだ思い出せないのね…なら、私が思い出させてあげるわ。この人のやったこと、全て。この人が壊した、私たちの過去を」
吊るされた電球が一際大きく点滅した。それと同時に、止まっていた柱時計の振り子が前触れも無く時を刻み始めた。




