2.遁走曲 ―Fuga―
少し空が白み始めた頃、零音が広間に戻ってきた。目の下にはうっすらと隈が出来ている。さすがの彼も精神的に参っているようだ。泰牙は彼を迎えると、お疲れ、と肩を叩いた。
「リオンちゃん、大丈夫か?」
泰牙の気遣いを素直に受け、零音は少しだけ笑った。
「うん…とりあえず熱は下がったみたい。今はぐっすり眠ってる」
「そうか…よかった」
「あれ…朽城先生は?」
零音が広間を見渡した。そこには泰牙と、部屋の隅で体育座りのまま震える舞桜の姿しか見当たらない。そういえば優慧の死体も消えている。
「ああ…睦月の死体、別の部屋に運んでった。多分、ライトやエリと同じ所に…」
泰牙の声が重く沈んだ。もうそこには4つの死体が転がっているのだ。それを想像し、零音も身を震わせた。ずっと目に付くところに放置されるよりはましだが、積み重なる死体を思い浮かべるとそれはそれで気味が悪いものだ。
一つ溜息を吐いて、零音は小さい声で泰牙に言った。
「やっぱり…朽城先生が怪しいよね。昨日も一人だけ後から来たし。もしかしたらわざと遅れて入ってきたのかも。疑われないように、って」
ひそひそと囁く零音の言葉を聞いた泰牙の口からは、意外な答えが返ってきた。
「いや…もしかしたら、そうじゃないかも知れねぇ。アイツは犯人じゃない」
零音は眉をひそめた。つい一昨日までは泰牙も「朽城が怪しい」と言っていたはずなのに。彼はそれをあっさりと否定した。零音は当然の疑問を口にした。
「何だよ急に…なんか気づいたのか?」
ところがそれを聞いた泰牙は急に動揺し始めた。ますます零音は眉間に皺を寄せる。
「なぁ、何だよ、何があったんだよタイガ」
どれだけ問い詰めても、泰牙はそれ以上の事を語ろうとしない。と、膝に顔をうずめて沈黙を貫いていた舞桜が投げるように言った。
「…あんたが犯人なんじゃないの?」
場の空気が凍りつく。それには思わず泰牙も舞桜を見た。
「何か隠してるなんて、あんただって怪しいじゃん。親友なんでしょ? あんたとレオン。親友にも言えない秘密? チョー怪しい」
食い入るように舞桜を見つめる二人を尻目に、舞桜は携帯を手にした。おもむろに開き、器用に操作する。
「ま、あたしは関係ないけど。あんたが何隠してようが、どーでもいいし」
泰牙が舞桜の肩を突き飛ばした。チッと舌打ちをしただけで、舞桜は携帯をいじる手を止めようとはしない。更に泰牙は彼女の体を押した。
「ちょっと待てよ…お前さぁ、関係ねぇ関係ねぇって言うけど、何か理由があるからここに連れて来られたんだろうがよ。関係してんじゃねぇか」
語気を荒げる泰牙を鼻で笑い、舞桜は目を上げずに言った。
「じゃあさ、あんたの彼女はどうなのよ? 招待状も持ってなかったし、ついでにさらわれただけなんでしょ? なのにほら、殺されちゃったじゃん。関係してる、あたしよりも先にね」
泰牙が言葉に詰まった。元はと言えば、依理子がここにさらわれてきたのは泰牙のせいでもあるのだ。その事をずっと気に病んでいた泰牙は、舞桜の言葉に何も言い返せない。
舞桜は勝ち誇ったように薄く笑った。
「第一さぁ、あたしああいう子キライなんだよね。お嬢様ぶっちゃって、何様ってカンジ。昔ライトに聞いたんだけど、なんか帰国子女で女子高通ってるんでしょ?」
舞桜はするどく泰牙を見た。
「神様だか何だか知らないけどさ、バッカみたい。偽善者ぶって、マジでムカツク。でも今頃、天国で後悔してんじゃない? あんたと一緒にいなきゃよかった、ってさ」
舞桜がそれを言い終わるのが早いか、泰牙は彼女に掴みかかっていた。しかしそれを予想していた舞桜の方が一枚上手だった。ぎりぎりでかわし、すかさず零音の後ろにぴったりと寄り添う。
「くやしかったらさぁ、本当の犯人見つけて、そいつ殺しでもしたらぁ? だってあんたがホントにムカついてんの、犯人にでしょ? あたしに八つ当たりしないでよ、そういうのマジ迷惑」
泰牙が行き場を失った拳を壁に打ち付け、塵を巻き上げた。ぎろりと舞桜を睨み、吐き捨てながら歩き去る。
「…あぁわかったよ、犯人見つけてやるよ! そん時はテメェ、土下座してエリに謝れよなぁ!」
「はいはい、頑張ってね」
泰牙の捨て台詞にもふてぶてしい態度を返し、舞桜は零音に擦り寄った。
「タイガ!」
零音が去り行く泰牙の背中を追おうとするが、舞桜の腕にしっかりと阻まれて立ち上がれない。そのまま泰牙の姿は見えなくなり、零音は仕方なく諦めた。彼が視界から完全に消えたのを確認し、舞桜は更に零音の体へ腕を絡ませた。
「やっと二人きりになれたね、レオン」
喜々として体を寄せてくる舞桜に曖昧な笑みを返しながら、零音はちらちらと入り口を気にしていた。彼の一人で突っ走る癖は相変わらずだ、出会った頃から変わらない。それで今まで何度も零音と頼人は奔走していた。今回もやりすぎなければいいが…。零音は泰牙が心配だったが、舞桜を一人にするわけにもいかないとその場に留まった。
「ねぇねぇ見てコレ! おっかしくない? リサの変顔!」
後ろから回した手で、携帯の画面を零音の鼻先に突き出す。そこにはプリクラのようなものが写っていた。舞桜と友人が、画面いっぱいに百面相をしている。舞桜は笑いながら、何枚も写真を見せてきた。
零音はいい加減、舞桜を制止した。
「…ねぇマオちゃん。ちょっと、リオンの所に行ってきてもいいかな? もしかしたら起きてるかもしれないから。リオンには俺がついてないと…あ、朽城先生か、タイガ探して戻ってくるように言うよ。マオちゃんも一人になると危ないから、さ」
早口になって腰を浮かす零音に頬を膨らませ、舞桜は憤慨した。
「ぶー、つまんない。あたしは、レオンと一緒がいいの!」
「でも、リオンが…」
「もう、いつもそうやってリオンの事ばっかり! レオン、絶対人生損してるよ。だって、妹の為に生きてるようなもんじゃん? それって、つまんなくない?」
舞桜の台詞は案外的を射ていた。
「レオンはさぁ、もっと自分を大切にした方がいいって! たまにはリオンのこと放っといて、あたしに付き合ってよ。あたし…心細いんだ、これでも」
そう言って舞桜はしゅんとうつむいた。彼女にしては珍しく弱気な顔だった。見慣れない姿に、零音が一瞬だけ躊躇する。
「ね、だからここにいて!」
再び零音が見た時には、いつもの無邪気な彼女に戻っていた。零音は腰を上げることができずにいた。するとそれを了承と受け取ったのか、舞桜は彼と腕を組んだ。仕方がない、もう少しだけこうしていよう…零音は時々入り口の方を気にしながら、舞桜の話に付き合い続けた。しかしいくら経っても、そこから他の三人が入ってくる様子はなかった。
二、三時間ほど過ぎただろうか。業を煮やした零音は舞桜をめて引き剥がした。
「ねぇマオちゃん、さすがに遅いよ、タイガも、朽城先生も…それにリオンが起きてるだろうし。一人で待ってるのが嫌なら、一緒に探しに行こうよ」
本心から心配そうな声を上げる零音に根負けし、舞桜は携帯を閉じた。少しだけむくれながら、彼の手を握る。
「…もう、仕方ないなぁ。じゃあ一緒に行こ」
彼の手を引っ張るようにして、ずんずんと廊下を突き進んでいく。最初に行ったのは莉音が寝ている部屋だ。そっと零音が扉を開けると、莉音は眠りに就いた時と同じ格好でソファに横たわっていた。零音は胸を撫で下ろした。
「よかった、何にもなくて…」
「ほら、何ともないってあたしが言ったとおりじゃん! 次、次」
後ろ髪を引かれる零音を強引に連れ、廊下の反対側へ。広間を一度通り過ぎて、角を曲がる。一つの部屋の前で二人は立ち止まった。ここは黎至が遺体を安置していると言った部屋だ。来てみたはいいが、二人ともそこを開ける気にはならない。
「おーい、朽城センセ、いるぅ?」
舞桜が雑にドアをノックした。数秒の後、中から気だるそうな返事が返ってきた。黎至の声だ、ここにいる。舞桜はもう一度ノックし、続けた。
「ねーセンセ、そこにさ、タイガも一緒にいるー?」
「いや、いないぞー」
今度はすぐに返事が返ってきた。それきりまた静かになった。
舞桜は零音を見ると、また歩き出した。泰牙を探す。犯人を見つけてやると言って出て行ったが、どこにいるかは全く検討がつかない。二人は連れ立って歩き、目に付く扉を片っ端から開いていく。犯人がそこにいる危険性を考えていなかったが、どの部屋ももぬけの空だったのが幸いだった。
最後の部屋の扉を開く。しかしそこにも、人影はない。舞桜と零音は顔を見合わせた。これで広間以外、全ての部屋を見た。泰牙はどこに行ったのだろう?
仕方なく、二人は広間に戻った。すれ違ったのかもしれない、そう思いながら。しかしその予想は見事に外れ、広間にも彼の姿はなかった。代わりにそこには、莉音がいた。
「…お兄様…」
ぼんやりと振り返り、零音と寄り添う舞桜を見つめる。零音は慌てて、絡められた舞桜の手を振りほどいた。
「どこに行ってたの…?」
きっと零音達が黎至の元へ行っているあたりで起き出してきたのだろう。病み上がりの彼女は空ろな瞳で零音を眺めた。零音は彼女に駆け寄った。
「ごめんねリオン、もう大丈夫なのかい? ちょっとタイガを探しに行ってたんだ」
二人は手を取り合った。舞桜はそれをちらりと見てまたふてくされたように携帯を開いた。
リオンはしばし考え込んだ後、思い出したようにああ、と声を上げた。
「タイガ君なら…さっき部屋へ来たわ…きっと私は眠っていると思っていたのね。声をかけようとしたら、出て行ってしまったわ…その後は、わからないけれど…」
完全に入れ違いだった。部屋に入って扉を閉めてしまえば、廊下からは中が全く見えなくなる。固まってうろうろしている間に、すれ違ってしまったようだ。
「そうだったんだ…じゃあ、もしかしたら今頃は朽城先生のところに行ってるかもしれない。躍起になってたから…何か聞きに行ったのかも。仕方ない、ここで待とう」
零音は莉音を気遣い隅に置かれた折り畳みの椅子を広げようとしたが、やめた。それは確か、優慧が座っていたものだったからだ…正確には、彼の死体が。仕方なく零音は直接床に莉音を座らせた。その隣に自分も座る。舞桜は仏頂面を押し通したまま、莉音を一瞥した。目が合うが、舞桜は彼女をせせら笑った。
彼らはそれから遅い昼食を取り、何をするわけでもなくただそこにいた。しかし一向に泰牙と黎至は戻らない。とっくに日は落ち、また広間の明かりはチカチカ点滅する裸電球だけになってしまった。
零音は立ち上がろうとした。いくらなんでも遅すぎる。この建物は決して広くはない、どんなに隅々まで回ったとしても、ここまで時間がかかるのはおかしい。
莉音は不安そうに兄を見上げた。彼女の気持ちを察したのか、零音は頭を撫でた。
「心配しないでリオン。ちょっと探しにいくだけだよ、すぐに戻ってくるから」
それを言い終わらないうちに、足音が広間に近づいてきた。
「…いやぁ、さすがに数が増えると置き場所に困るな…」
そんな独り言を呟きながら入ってきたのは、黎至だった。零音は安堵とも焦燥ともつかない溜息を吐いた。黎至が彼を目に留め、小首を傾げる。
「朽城先生、タイガを見ませんでしたか?」
零音は問うた。しかし黎至が首を傾げたまま、間髪入れずに返答した。
「いや、見ていないな。俺はずっとあの部屋にいたが、初見は来ていないぞ」
それに零音ははっきりと焦りの表情を見せる。何かを悟ったのか、黎至が咥えた煙草に火をつけず、口から離した。
「…まさか」
「今日の昼から一人でどこかに行ったきり、戻ってこないんです。探しに行ったんですが、どこにもいなくて…」
黎至は煙草を箱に押し戻した。
「そりゃまずいな。よし、手分けして探そう。御影兄妹は右の廊下を。笹倉、俺と一緒に来るんだ」
零音は頷き、莉音の手を取った。後ろでは舞桜がのろのろと立ち上がっている。それを視界の隅に入れただけで、零音は飛び出していった。莉音の手を引いて、走る。
端の部屋を空けた。莉音が先程まで眠っていた部屋だ。暗がりに目を凝らすが、何もない。すぐにそこを離れ、次の部屋へ。しかしそこにも変化はない。3つ目の扉を開けたくらいで、零音の背中を嫌な汗が伝った。
広間に一番近い扉に手をかける。舞桜と最初に開けた扉だ。廊下の反対側からは、同じように部屋を見て回ったのであろう二人が走ってきた。扉の前で合流し、互いに首を振る。意を決し、零音は目の前の取っ手に指をかけた。
大きく開け放つ。噎せるような熱気と、強い錆の臭い。真っ暗で何も見えないが、明らかに他の部屋とは空気が異なっていた。嫌な予感に立ち止まった零音を押し退け、黎至が部屋に入っていく。
彼は手探りで壁を伝い、スイッチを押した。短い瞬きの後、電球に弱い光が灯る。突如視界が開け、零音は我が目を疑った。部屋の中央に横たわる金髪の周囲に、まだじわじわと赤い物が広がっていく。大きな水溜りのようになった血の海に、泰牙が、変わり果てた姿で横たわっていた。
「あ…っ…」
零音の後ろで、舞桜が嗚咽を漏らした。ぱっちりと見開かれた二重瞼の瞳に、みるみる雫が溜まっていく。重力に負けた水滴は涙となって次々と零れ落ち、口元に当てられた彼女の指先を伝っていった。
零音は呆然と立ちすくんだ。莉音の冷たい手を、しっかりと握る。莉音も彼と同じく、黙ってぼんやりと動かなかった。
黎至が彼らの視界を遮った。白衣の裾が血で汚れるのも気にせず、血溜まりに膝を着く。零音達に見えないように泰牙の死体を少しだけ動かし、その喉元に大きな傷が口を開けているのを見つけた。彼の体はまだ温かい。しかしどろりと開ききった瞳孔が、彼にもう魂がないことを物語っていた。
「…一度、広間に戻れ。俺は、後から行く」
無残すぎる死体を直視させないよう体で隠しながら、立ち上がって黎至は零音達に静かに言った。
「いいか。戻ったら、絶対に散らばるな。三人で固まっているんだ。わかったな」
低く囁くような声で言い、彼は扉を閉めた。残された零音達は呆然と動けない。金縛りにあったように、そこへただ立ち尽くす。
莉音が、そっと兄の手を引いた。それでようやく零音は我に返った。黎至に言われた言葉を反芻し、今にも倒れそうな舞桜を支える。彼女は零音に背中を押されて、とぼとぼと歩を進めた。
広間に着いた途端、緊張の糸がぷつりと切れたように舞桜が叫んだ。綺麗に纏められた髪を振り乱し、形振り構わず泣き喚く。あんな光景を見た後だ、当然の反応だろう。莉音も声こそ上げなかったものの、放心して天窓を仰いでいた。
零音はまた、あの夢に迷い込んだような感覚に苛まれていた。生々しい現実を目の当たりにしたはずなのに、心はふわふわと雲を歩いているような気分だった。灰色の壁も、舞桜の叫び声も、全てが遠くにあるようで実感がない。一つだけリアルなのは、繋いだままの莉音の手。その冷たさだけが、零音の心をここに繋ぎとめていた。
かして、黎至が無言のまま戻ってきた。白衣の裾が大きく血に濡れ、これが現実であることをひしひしと語っていた。さすがの黎至も今回ばかりは軽口を叩かず、黙って煙草を燃やした。
落ち着きを取り戻し、ぺたりと座り込んで中空を見つめていた舞桜が、口を開いた。
「あたしじゃ…ない…」
三人が舞桜を見る。一斉に注目され、舞桜は視線を彷徨わせた。
「いや…見ないでよ…あたしじゃない…あたしのせいじゃない!!」
最後は叫ぶように吐き捨て、両手で顔を覆った。悲鳴にも近い否定の叫びが、広間の壁にぶつかって広がった。事情を知らない黎至は怪訝な顔をするだけだったが、その場に居合わせた零音は声をかけることが出来なかった。莉音だけは上の空で、まるで舞桜の声すら聞こえていないようだったが。
気まずくなったのか黎至が頭を掻き、広間を出ようとした。ところが先回りし、入り口を零音が塞いだ。刺すような視線で問い詰める。
「…どこに行くんですか、朽城先生」
黎至は彼から目線を泳がせ、尚も頭を掻いた。
「いや…初見の遺体、まだちゃんと調べてないからな。お前達は先に休んでていいぞ」
口ごもりながら答え、零音の脇を抜けようとする。しかし零音は全力でそれを制した。
「駄目です。僕と一緒に来て下さい。先生に、聞きたいことがあるんです」
黎至にしか聞こえない位の音量で伝える。目で威圧され、黎至は仕方なく頷いた。それを確認し、零音は首だけ後ろを向き直った。
「リオン、マオちゃんと一緒にいてあげてくれるかい? すぐに戻るから。頼んだよ」
莉音は兄の声にもぼんやりと顔を向けるだけで、答えなかった。零音は彼女を安心させるために笑いかけると、黎至と連れ立って廊下へ出て行った。