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ゼロの狂詩曲  作者: 似櫂 羽鳥
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3.独奏曲 ―Sonata―

 夜が明けるまで、泰牙は依理子の骸を抱いたまま過ごした。天窓から太陽が覗き始める頃ようやく零音達の説得に応じた彼が依理子を手放し、黎至が運び出していった。それから小一時間が経つが、彼は部屋の隅で呆然としたまま誰とも口を利こうとしなかった。その気持ちを汲み、零音達も彼から少し離れたところで黙ったまま時が過ぎるのを待っていた。

 遺体を安置して戻ってきた黎至が煙草に火をつけた。そのオイルライターの音がコンクリートに反響する。

 あまりにも重苦しい空気に堪えられなくなったのか、舞桜が首からストラップで下げた携帯を開いた。相変わらず電波の入らない携帯に舌打ちし、それでもぱちぱちと弄り始める。他に音のない状況の中で、それは異様に響き渡った。

 ふと、それまで全く動かなかった泰牙が立ち上がり、つかつかと舞桜に歩み寄った。彼女の前に立つ。舞桜は怪訝な顔で座ったまま彼を見上げた。泰牙は全くの無表情のまま、そこから動こうとしない。

「…何よ」

 痺れを切らし、舞桜が苛ついた声を出した。と、泰牙が彼女の手に持った携帯を片手で弾き飛ばした。その拍子にストラップを繋いでいた金具が千切れ、携帯は乾いた音を立てて床を滑っていった。

「何すんのよ!」

 舞桜は吐き捨て、慌ててそれを追いかける。優慧の足元まで滑っていったそれを彼が拾い上げ、手渡すより早く舞桜が素早く奪い取った。ためつすがめつ眺め回し、どこも壊れていないことを確認すると一息ついて泰牙を睨んだ。

「ちょっと! 壊れてたらどうしてくれんのよ!」

「うるせぇ!」

 泰牙の本気の怒号に、優慧と莉音が肩をびくりと震わせた。しかし泰牙の勢いは止まらず、携帯を握り締めたままの舞桜に近づくとその右腕を掴みあげた。

「お前…よくそんなことしてられるな」

 そう言う泰牙の声は怒りに震えていた。

「人が、エリが殺されたんだぞ…何とも思わねぇのかよ!!」

 目尻に雫を滲ませ、激昂する。しかし舞桜はそれを意にも留めず、泰牙を睨み返した。

「ふん、彼女が死んで悲しいのはわかるけどさぁ、あたし関係ないし? っていうか、あたしが殺したんじゃないし。恨むんなら犯人を恨めば?」

 と、泰牙の手を振り払った。その悪びれもしない態度に更に怒りを増した泰牙は、彼女に掴みかかった。

「テメェ! ふざけんじゃねぇぞ!!」

「離してよ!」

 二人は喚きながら縺れ合い、床に転がった。さすがに零音が駆け寄り、二人を引き離そうと懸命に身を捩じ込む。しかし怒り狂った泰牙の力には到底敵わず、彼の振り上げられた拳を押さえるのが精一杯だった。やれやれ、と煙草を揉み消し、黎至が零音に手を貸した。

 零音の手を離れ、残された莉音は二人の喧嘩を怯えた目で見ていた。止めることもできず、ただおろおろと足踏みをする。

 舞桜の上に馬乗りになった泰牙を零音が何とか引き剥がし、その隙に黎至が舞桜を引きずり出す。なおも暴れ続ける泰牙。闇雲に両の腕を振り回す。

「うわっっ!!!」

「!!」

 泰牙を羽交い絞めにしようとした拍子に、彼の拳が零音の頬を殴打した。莉音が口元に手を当て、息を呑んだ。そして数歩後ずさり、ぐらりと倒れこんだ。

「リオン先輩!」

 それに気づいたのは優慧だった。騒ぎの横をすり抜け、半ば転ぶくらいの勢いで莉音に駆け寄る。

「大丈夫ですか?! しっかり!」

 優慧は莉音を助け起こそうと彼女の背中に手を回そうとした。しかし。

「いや!!」

 莉音はその手を短い悲鳴と共に叩いた。ぴしゃり、と高い音が鳴った。

「あ…」

 優慧は呆然と、払い除けられた掌と莉音を交互に見た。莉音は怯えながら後ずさり、優慧から離れようと足掻いている。しかし次の瞬間頭痛に襲われたのか、顔をしかめて動きを止めた。

「ダメですよ、じっとしてなきゃ!」

 優慧は懲りずに莉音を支えようとした。頭痛が激しいようだ、莉音は今度は黙って身を委ねた。抵抗できなかった、と言うほうが正しいかもしれないが。優慧はポケットからハンカチを取り出し、莉音の額に浮かぶ玉のような汗をそっと拭った。

「大丈夫ですか? あ、お水、持ってきましょうか?!」

 苦しそうに顔を歪める莉音に、優慧は焦って声を上げる。莉音はますます顔をしかめた。何とか優慧から逃れようと、差し伸べてくる手を軽く押しのける。しかし優慧は興奮し、その手を止めようとしない。

 彼らから少し離れたあたりでは、やっと喧嘩の騒ぎが収まった。泰牙は荒い息を吐いたまま仏頂面であぐらをかき、舞桜は黎至に礼も言わず再び携帯に目を落とす。零音は泰牙の拳が当たった所を軽くさすりながら、慌てて莉音の元に走り寄った。

「リオン、ごめんよ! 大丈夫かい?」

「お兄様…!」

 莉音は待ち望んでいた声に、優慧の体を押し退けて零音へ手を延ばした。その手を零音が握ると、ようやく莉音は安心したような表情を浮かべた。それを為す術もなく見ていた瞳に、羨望の色が浮かぶ。その視線は莉音ではなく、彼女の手を取る零音に向けられていた。

「お兄様…大丈夫? 痛かったでしょ…」

 莉音は少し痣になった零音の頬をそっと撫でた。優慧の視線はその指先へ一心に注がれている。

 ――あの指の先にいるのが、僕だったらいいのに。




 彼――睦月優慧は、夏休みでも塾を休んだことがなかった。勉強一筋で生きてきた彼には娯楽がない。むしろ勉強そのものが娯楽だった、

 そんな彼の胸に訪れた初恋。きっかけは学校の廊下だった。彼はクラスメートから押し付けられた日直の仕事を生真面目にこなし、大量の提出物を抱えて階段を駆け上がっていた。早くしないと、塾に遅れてしまう。

「あっ!」

 足元の見えない中で、彼は盛大に転んだ。その拍子にノートがばさばさと踊り場へ散らばる。体を立て直し、必死にそれを集める。通り過ぎる生徒達は優慧を気の毒そうに見るが、通り過ぎていくだけだった。

 と、彼の視界に細い足が見えた。その人は立ち止まり、彼の手の先にあった一冊のノートを拾い上げた。次々に拾っていく。優慧は目を丸くし、手を止めた。

「…はい、これ…」

 彼女は集めたノートを優慧に差し出した。その時優慧は初めてその顔を見上げた。端正な顔立ち。人形のように無表情で、長い前髪に片目が隠れている。露になっているもう片方の目は、金のような黄色をしていた。

「あ…ありがとう、ございます…」

 呆けたまま、優慧はそれを受け取った。その時、指先が触れた。細く乾いた彼女の人差し指は雪の様にすべらかで冷たく、一瞬で優慧の心をときめかせた。その人は機械的に立ち上がると、くるりと踵を返して階段を上っていった。足音を立てない優雅な後姿を、優慧はぽかんと見つめていた。

 それが、優慧と莉音の出会いだった。そして、優慧は恋に落ちた。




「――とにかく、タイガもマオちゃんも、少し落ち着いてよ。これ以上犠牲者を出すわけにいかないんだから、ケンカなんかしてる場合じゃないだろ」

 零音の声で、優慧は現実に引き戻された。彼には少々困った癖がある。妄想だ。勉強のし過ぎで自然と身についた集中力は、要らない場所でも発揮されてしまう。今も彼は莉音と自分のことを想像し、夢の世界に逃避していた。

 溜息をつく零音に、泰牙が目を合わせず言った。

「…悪い、レオン。俺、ちょっと一人になってくるわ。まだ整理つかねぇから、頭冷やしてくる」

 そして立ち上がると、広間を後にした。舞桜はふん、と鼻を鳴らし、変わらず部屋の隅で携帯を見つめていた。

 二、三度首を振り、零音は莉音の隣に座った。まだ頭痛が治まらない莉音はこめかみを軽く押さえ、零音にもたれかかる。ああ、まただ。優慧の胸に黒い感情が渦巻いていった。




 莉音のクラスはすぐにわかった。優慧の一つ上の学年であることは、上履きのラインの色で気づいていた。双子の噂は学校中に知れ渡っていたため、優慧の耳に入るのにも時間はかからなかった。

 最初はお礼を言いたいだけだった。誰もが無視していく中で、一人だけ自分を気に掛けてくれた優しい先輩。

 いつからだろうか。優慧は気持ちを抑えられなくなり、頻繁に莉音のクラスへ顔を出すようになった。とは言っても、直接莉音に話しかけたり、教室に入るわけではない。休み時間やクラス移動の際、わざと莉音のクラスの前を通っては遠目に中を覗く。莉音の席はいつでも窓側の一番後ろだ。教室の前を通り過ぎる一瞬のうちに、優慧は彼女を確認してその姿を目に焼き付けた。

「御影莉音、先輩…か」

 彼は莉音の噂話には特に耳を澄まし、一つも漏らさずその情報を頭に叩き込んだ。

「お兄さんの、零音先輩…」

 零音の姿はいつも見ていた。仕方がないのだ、彼はいつも莉音と共にいるのだから。

 毎日のようにクラスへ通いつめ、それでも感情を抑えられなくなった彼はとうとう玄関で待ち伏せをした。二人が誰よりも遅く教室を出ることはとっくに知っている。優慧は図書室で時間を潰し、時計を確認して昇降口へ急いだ。下駄箱の陰に身を寄せる。予想通りの時間に、二人は手を繋いで降りてきた。

「リオン先輩…」

 しっかり繋がれたリオンとレオンの手を見て、優慧の胸は苦しくなった。兄妹以上に仲が良いのは知っていたが、こうして直接その様を見るのは初めてだったのだ。

 その指の先に、自分の手があったなら。どんなに幸せだろうか。

 並んで歩く二人の後を一定の距離を置いて追いかけながら、彼はリオンの華奢な掌を思い浮かべた。そして想像の中で、その指に自分の指を絡ませた。きっと彼女の指は、とても心地いいのだろう。細くて、冷たくて…




「どうした、ぼさっとして」

 突如耳元で、男の声がした。思わず悲鳴をあげる。いつの間にか優慧の隣には黎至がしゃがみ、怪訝そうに彼を見ていた。口にくわえられたままの煙草から、細く煙がたなびく。

 黎至は慄く優慧の顔を嘗め回すように眺め、にやりと唇と歪ませた。

「ははーん、恋の悩みだろう。そういうのには敏感なんだ、職業柄な。どうだ、俺に相談してもいいんだぞ?」

 あからさまに瞳には好奇心が踊っている。その目をきっと見据え、優慧は強く言い放った。

「け、結構です。そんなんじゃ、ありませんから」

「隠すなって。恥ずかしいことじゃないだろ? 誰だって恋の一つや二つ…」

「結構です」

 もう一度優慧はきっぱりと言った。意地の悪い笑みを浮かべながら、黎至は煙を吐いた。優慧の顔にそれが当たり、まともに吸い込んだ彼は大きく咳き込む。ニヤニヤしたまま黎至は離れていった。優慧は胸を撫で下ろした。

 誰にも悟られないように、今度は横目で莉音を見た。相変わらず零音の肩にもたれたまま、兄と何か会話を交わしている。優慧は息を呑んで耳を済ませたが、彼女の小さな声は聞き取ることができなかった。先程よりは幾らが痛みが引いたのだろう、眉間に刻まれた皺が消えていた。

 零音が彼女の手を取る。そして二人一緒に立ち上がった。リオンを休ませてくるから、そんなことを入ったような気がしたが優慧には聞こえていなかった。莉音だけを目で追っていた。

 銀色の髪が光に透けて、キラキラしている。美しい髪。白い肌。柔らかいその皮膚に、頭の中で頬を寄せる。やっぱりだ、とてもいい匂いがする。

 二人は広間を出て行った。それに続くようにして、黎至もどこかに消えていった。優慧は莉音の歩いた所を辿り、舞桜に気づかれないようさりげなくその上に座った。息を大きく吸い込む。想像の莉音と同じ匂いがして、優慧は嬉しくなった。

 その内、舞桜も携帯いじりに飽きたのか立ち上がっていなくなった。去り際にパンを持っていったから、きっとどこかで昼食を取ることにしたのだろう。優慧は安堵の溜息をついた。舞桜は彼の一番苦手とするタイプの人種だ。だったら一人の方がよほど気が楽だった。

 優慧は莉音の残り香を探して、再び息を吸った。コンクリートとうだる夏の匂い。それしか鼻腔には届かなかった。

 コツ、と足音が聞こえ、優慧ははっとそちらを見た。そこにいたのは黎至だった。淡い期待に一瞬胸を膨らませた優慧は、がっくりと肩を落とした。

「なんだ、そんなに落ち込まなくてもいいだろ。傷つくなぁ」

 おおよそそんな気持ちは見せずに、黎至はへらへらと笑った。むっとして優慧が彼を睨む。興味がないと言わんばかりに目をそらし、鞄から塾のファイルを取り出して読みふける。

「おっと、そう怒るなよ睦月。お前に忠告しておきたいことがあってな」

 関わりたくないという彼の意思表示を完全に無視し、黎至は煙草をくゆらせた。優慧は返事を返さなかったが、黎至がその場を離れる気配はない。仕方なく小さく溜息を吐くと、手元から目を上げた。

「…何です? 忠告って」

「お前、御影妹が好きなんだろ?」

 唐突に核心を突かれ、優慧は動揺してファイルを取り落とした。慌ててそれを拾うが、その行動は肯定と取るには充分だった。

 確信に満ちた表情で黎至は更に優慧に近寄った。

「わかるさ、お前の視線の先にはいつも御影妹がいるからな。誰だって気づくぞ」

 黎至は笑った。まるで小ばかにしたようなその笑い方に、優慧は少なからず怒りを覚えた。しかし勤めて冷静に、眼鏡を中指で押し上げる。

「…ぼ、僕がリオン先輩を本当に好きだったとして、それが朽城先生と何か関係が?」

 その様子にくっくっと喉の奥で笑い、黎至はしゃがんで優慧の瞳を見つめた。

「いいか。悪いことは言わない、彼女に関わるのはやめておけ」

 予想もしない黎至の言葉に、優慧は思わず彼を見つめ返した。黎至は先程までの薄ら笑いを止め、真剣な顔をしていた。

「後悔することになる。それが嫌なら、御影妹のことは忘れるんだ。いいな?」

 黎至はきっぱりと言い放った。もちろん、優慧には何の事か全く理解できていない。眉根を寄せ、彼を見返す。

 黎至は彼の返答を待たず、また立ち上がった。長くなった灰をその辺に落とす。振り向かず、背中で言った。

「まぁ…それでもいいって言うなら無理には言わないがな。忠告はしたぞ。どうするかは…睦月次第だ」

「ちょ…ちょっと待ってください!」

 広間を出て行こうとする彼を、優慧が呼び止めた。曖昧なことだけを言われたままでは、流石に彼の気が治まらない。優慧はファイルを荒々しく閉じると、傍らに置いて立ち上がった。

「さっぱり訳が分かりませんよ、それじゃあ。どういうことですか? ちゃんと言って下さい!」

 拳を握り締める優慧を見て、黎至はあーなどと妙な声を上げては頭を掻く。

「詳しい事は話せない。これでもスクールカウンセラーだ、生徒のプライバシーは遵守しなけりゃならないからな…知りたいなら、本人か兄貴に聞いてくれ。まぁお前にその勇気があるなら、だが」

 黎至は淡々と言い放ち、革靴を鳴らして広間を抜けて行った。取り付く島がない。優慧はそれ以上聞き出すのを諦め、またファイルを開いた。しかし黎至の言葉が気になり、紙面に書かれた公式は全く頭に入らなかった。

 少しの間、ただぼんやりと数字を目で追う。かぶりを振り、それを閉じた。意を決し、立ち上がる。駄目だ、どうしても気になる。彼は広間を真っ直ぐ突っ切り、廊下に出た。そこで舞桜とすれ違ったが、軽く会釈をして通り過ぎる。

 零音と莉音が休息に使っている部屋。扉は閉まっていた。優慧はその扉の前に立ち、取っ手に手をかける。開ける前、意を決したように深呼吸をした。

 黒い影が、廊下を横切った。




 深夜だった。部屋の床で僅かな惰眠を貪っていた零音は、けたたましい絶叫で目を覚ました。反射的に飛び起き、声のした方向へ走る。彼の前には泰牙が同じように走っていた。声は広間から聞こえてきた。あれは、舞桜の悲鳴だ。

 広間に入っていく。思ったとおり、そこにいたのは舞桜だった。床にへたりこみ、目を見開いて部屋の隅を指差している。零音はそちらに目をやった。

 チカチカと点滅する裸電球の明かりに、誰かがぼんやりと影を作っていた。椅子に座り、うなだれている。だらりと弛緩した体は、彼に頼人の死体を思い出させた。白いベスト、チェックのズボン、床に転がる眼鏡。

 優慧が、死んでいる。

 先に駆け寄ったのは泰牙だった。彼は優慧の肩を揺さぶり、名前を呼ぶ。しかし何度かそれを繰り返した後、手を離して目を背けた。

「ダメだ……」

 ぼそりと泰牙は言った。それをきっかけに、舞桜が再び泣き叫び始めた。泰牙はそれを一括し、彼の眼鏡を拾い上げた。

 ――その時泰牙が床から眼鏡ではない物を一緒に拾い上げていた。しかしその瞬間を見た者はいなかった。後ろ手にそれをポケットにじ込む。後はただ悲しみだけを顔にして眼鏡を握り締めた。

 少し遅れて、黎至が広間に駆け込んできた。

「…遅かったか」

 黎至の独り言は誰にも気づかれないまま、闇に吸い込まれた。泰牙の後を引き取り、優慧の死体を調べ始める。舞桜は泣きじゃくり、傍に佇む零音の足にすがり付いてきた。

「もう…何なのよコレ…! あたし、もうヤダ…帰りたい…」

 零音はそれを振り払うでもなく、ましてや慰めるわけでもなく、ただ立っていた。居眠りをするような格好のまま冷たくなっている優慧の体が、蝋で出来た人形のように見えたのだ。これで4人目だ…ここで何者かに殺されたのは。しかし零音は何度その異常な光景を見ても、どこか夢みたいな感覚だけしか感じられなかった。その理由は、彼にすらわからなかった。

 黎至が優慧の首元からある物を抜き取った。それは優慧の制服についていたネクタイだった。

「首を絞められたのか…それも一気に。首すじに多少もがいたような傷跡があるが、争った形跡はない」

 まるで殺人現場を検める刑事のように冷静な口調で、黎至はネクタイをぴんと伸ばした。

「それにしても、凄い力だ。鬱血の後がしっかりと残っているからな…」

「おいレオン…そういえば、リオンちゃんは?」

 黎至の言葉を遮って投げかけられた泰牙の問いかけに、零音ははっとしてようやく感覚を取り戻した。一緒に休んでいたはずだ。舞桜の声に気づかず眠っているのか…あるいは。

「…リオン!」

 零音は踵を返した。廊下を駆け、部屋へ戻る。暗い廊下の途中に、何かが見えた。

「リオン!」

 床に投げ出された黒い塊は、莉音だった。駆け寄り、体を起こす。ぐったりとしたままの彼女は熱っぽい呼吸を繰り返すだけだ。零音は何度もその体を揺さぶった。

「おい! いたか!」

 彼の後を追って、泰牙が走り寄ってきた。莉音の姿を見ると驚き、戸惑ったように零音を見る。零音は彼女の額に手を当て、その汗を拭った。

「すごい熱だ…とにかく、寝かさないと…!」

 零音は一番近い部屋に彼女を抱いて入っていった。そこに置いてあったソファに莉音を横たえ、手を握る。ちょっと待ってろ、と言い残し、泰牙は部屋を飛び出した。間もなく戻ってくる。

「これ、濡らしてきた。ないよりはマシだろ」

 彼の手には薄汚れたタオルが握られていた。おそらくどこかの部屋から拾ってきたのだろう。零音は返事もせず、それを奪い取るようにして莉音の額に乗せた。莉音の呼吸は落ち着かない。

「リオン…ごめんね、気づいてあげられなくて…ごめん…」

 零音は妹の手を強く握り、後悔に顔を歪ませた。その声が届いたのか、莉音の指が微かに動いた。ゆっくりと、薄く目を開く。

「リオン!」

「お兄様…」

 二人は同時に言い、見つめ合った。

「…大丈夫…少し休めば…すぐに良くなるわ…」

 莉音は兄を気遣い、それだけ口にするとまた瞳を閉じた。しかし幾らか、先刻よりは穏やかな寝顔をしている。零音は深く溜息をつき、彼女の手を自らの額に寄せた。

「リオン…」

 泰牙は二人を残し、そっと部屋をあとにした。その瞳は何かを観察するように細かく動き、零音と莉音の「ある物」を確認して小さく頷いた。

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