4.夜想曲 ―Nocturne―
また、夢だ。
雨の降る教室の片隅。セーラー服の彼女が、儚げに座る。
遠巻きに刺さる冷たい視線。
彼女は動かない。微動だにしない。
机の上には、引き裂かれた教科書。机は消えない落書きだらけ。
僕は見かねて彼女の手を取る。そのまま教室を飛び出す。
背中に浴びせられる冷やかし。
誰も救ってくれない。
彼女の涙。
消えない傷跡。
上空の天窓から差し込む強い日差しに焼かれ、零音は嫌々目を開けた。じりじりと照りつける真夏の太陽は黒ずくめの彼の衣服を熱で満たし、背中に伝う汗にうんざりして彼は起き上がった。
改めてこの空間を見ると、そこがどれだけ日常と掛け離れているかを思い知る。
「もう、昼か…」
天窓に見える太陽はちょうど彼の真上くらいの位置にあり、時計がなくても何となくだが時間を計ることは出来た。零音が眠り続けていたのでなかったら今日は8月31日だ。夏休み最後の一日。本来ならば減らない宿題に手を焼いている今頃。しかし彼らはどこかもわからない、殺風景な建物にいた。
ふと隣を見ると、一緒に横になっていたはずの莉音がいなかった。そこには頼人のパーカーだけがあった。
「おはよう、お兄様…」
声をかけられ、零音は顔を上げた。莉音だ。彼女の髪が日に透けて、眩しく輝いている。
「お兄様、大丈夫? 何だか顔色が悪いわ」
莉音はそそくさと零音の隣に身を寄せた。彼の顔色が悪いのは、きっと昨晩見た悪夢のせいだろう。こんな異様な空間にいるのだ、悪夢を見るのも無理はない。
あれからしばらく全員で探索を続けたが、結局何一つ収穫はなかった。その内に疲れが来たのか、一人また一人と休息を取り始めてしまった。依理子と零音はこの広間で全員が一緒に寝ることを提案したのだが、いがみ合ったままの泰牙と舞桜が全力でそれを拒否し、ここに残ったのは双子だけだった。
もうじき皆も起きて、またここに来るだろう。と、零音の予想通り、泰牙の荒々しい足音が廊下を近づいてくるのが聞こえた。
「レオン! リオンちゃん! 良かった、無事か」
しかし彼の思惑とは違い、泰牙の様子はどこかおかしかった。酷く焦っている。
「早く、一緒に来てくれ! セレナ先生が…!」
それを聞いて、零音は跳ね起きた。恐怖に顔を引きつらせる莉音の手を引き、泰牙の先導についていく。向かっているのは清玲奈と短い時を共に過ごした、あの部屋だった。角を曲がって、駆け込む。
「っ!!」
咽るような熱気が辺りを包んでいた。そしてそこに漂う、言いようのない異臭。どうやら彼らが最後だったらしい。先に来ていた面々は黙りこくったまま何かから目を背けている。
「一体何が…」
近くにいた舞桜と依理子に尋ねるが、二人とも口を開かない。反対側の角では優慧が口元を押さえ、尻餅をついている。零音は首を傾げ、ソファの脇に片膝をついている黎至に目をやった。
「朽城先生、何があったんですか? 木林先生が、どうかしたんですか?」
そして歩み寄る。気づいた黎至が、
「来るな! 見ないほうがいい!」
と止めるが、零音はそれよりも先にベッドの陰を覗き込んでいた。
赤。ただ一面の、赤。
うつ伏せで、そこには清玲奈が横たわっていた。赤いスーツ、転がる眼鏡、広がる血。ソファから転がり落ちたような格好で眠る彼女の脇には、禍々しい光を放つ凶器があった。これは、斧だ。
零音は後ずさった。一言も声を上げられない。背中が莉音にぶつかる。
「何があったの、お兄様…」
莉音の囁くような声が耳に入った。零音の脇をすり抜け、近づいていく。零音はその腕を掴んだが、時は既に遅かった。
「!!!!」
声にならない悲鳴の後、莉音の身体はその場に崩れ落ちた。慌てて零音は駆け寄り、彼女の名を呼ぶ。清玲奈の現場を調べていた黎至がそれに気づき、ぐったりとした彼女の様子を見た。
「…心配ない、気絶しているだけだ」
零音は安堵の溜息を漏らし、彼女をそっと抱きしめた。そこからは赤い死体が嫌でも目に入った。まるで壊れた人形のようだ。なぜか零音は虚ろにそんなことを考えながら、それをただ見つめていた。
その横では黎至が淡々と死体を調べ続けていた。倒れている彼女の周囲を確認し、まじまじと無残になった胴体を見つめている。と、彼は白衣の袖を掌に巻き付け、おもむろに隣へ放置された斧を手に取った。
「っ!」
立ち上がった黎至が高々と持ち上げた手斧を見た全員が息を呑んだ。鈍く光を反射する金属の部分には血と、脂肪のような白い肉片がべっとりこびりついていた。
誰一人動かない中、泰牙に寄り添うようにしていた依理子が突如部屋を飛び出していった。
「エリ!」
それを泰牙が慌てて追いかける。昼だと言うのに窓のない廊下は暗く、所々の部屋からもれてくる明かりを背に受けて彼らは走った。
依理子は息を切らせて、広間に飛び込んだ。そしてがくりと膝を落とし、両手で顔を覆った。追いついた泰牙がその背中をそっと抱きしめた。
「エリ…大丈夫か…」
囁くような彼の声は虚空へと吸い込まれていく。依理子は何も言わず、声を押し殺していた。苦しそうな表情を浮かべ、泰牙は彼女の頭を優しく撫でた。
少しの後、依理子がゆっくりと口を開いた。
「私…もう嫌…こんなの、普通じゃない…人が、殺されるなんて…」
嗚咽交じりに彼女は言った。
「タイガ…何で…何で私達が、こんな目にあわなきゃいけないの…」
泰牙は言葉に詰まり、ただ泣きじゃくる彼女をあやすしかなかった。
「ごめんな…俺が、あんな招待状なんか見せたから…犯人の顔拝んでやるなんて言ったから…あの日俺と出かけてなければ、エリが巻き込まれることなんかなかったってのに…」
口から出るのは後悔の言葉だけだった。依理子ははっと彼の顔を見、自責に顔を歪ませる泰牙に激しく首を振った。
「違うの、タイガのせいじゃない…!」
そして彼女はうつむいた。
「…ごめんなさい…」
「いいんだ…誰のせいでもないだろ。悪いのは犯人だ。これを仕組んだヤツだ…」
二人はきつく抱き合った。互いの首筋を伝う汗も気にせず、ずいぶん長い事そうしていた。いつの間にか天窓から覗いてはずの太陽はとうに西へ傾き、橙色の夕日が寄り添う二人の影を長く伸ばしていた。
泰牙の肩に首を預けて、依理子は重い口を開いた。
「ねぇタイガ…私達、いつになったら帰れるのかしら…」
それを受け、泰牙は虚空に視線を漂わせる。
「さぁな…あれだけ探したのに、抜け道の一つも見つからねぇ…あったのは水と食料だけだ。それだっていつまでもつか…」
弱気になる泰牙の顔を恐る恐る覗き込み、依理子はぽつりと言った。
「もしかして…このまま私達も…ライト君や、あの先生みたいに…」
「エリ!」
彼女の肩を強く掴み、泰牙は思わず声を荒げた。しかしそれに屈せず、依理子が同じように激しく言葉を吐き出す。
「だって、だって! こんなところに閉じ込められて、目の前で人が死んでて! きっと何かの罰なのよ、私達は神の怒りに触れてしまったんだわ!」
彼女は身震いすると、胸の前で十字を切った。
「きっと…私達も死ぬのよ…」
それきり彼女は瞳を閉じ、祈りの言葉だけをただ唱え続けた。
「エリ、そんなことあるわけねぇだろ! どうしちまったんだよ、なぁエリ!」
しかし依理子はもう何も答えなかった。
泰牙はうつむき、彼女の肩から手を離す。
「…どこに行くの?」
ゆっくりと立ち上がり歩を進める泰牙の背中に、弱弱しい依理子の声。振り向かず、泰牙は答えた。
「…何でもねぇよ。ちょっと頭、冷やしてくる」
広間の入り口を出る時、丁度入れ替わりに入ってきた莉音の肩とぶつかった。互いに一瞬だけ目を合わせて、泰牙は廊下の奥へ遠ざかっていった。
それを目で追っていた莉音は、広間に目をやった。依理子は相変わらず天窓に顔を向けたまま、手を組み祈りを続けていた。莉音は少しずつ歩み寄ると、彼女の隣に膝をついた。
「…怖いの…?」
莉音は消え入りそうな声でそれだけ言った。
「…怖いに…決まってるじゃない…」
彼女には視線を向けず、依理子は呟いた。組まれた彼女の指は微かに震えているように見えた。莉音はスカートの裾を折り、彼女の隣に腰を下ろした。
依理子はちらりと横目で莉音を見、腕を下ろす。
「あなたは…怖くないの? いつ殺されるかも解らないのに…」
しばし逡巡した莉音は、薄く笑った。
「怖く、ないわ。だって、私にはお兄様がいる」
頭の左側で一つに纏められた長い髪を揺らして、莉音は凛と正面を見据えた。
「お兄様が、守ってくれるもの。だから、怖くないわ」
そして依理子に向き直った。
「あなたも、そうでしょう? 彼が…守ってくれる、でしょう?」
依理子の顔には隠しきれない不安があったが、それでも彼女はふっと息を吐いて微笑んだ。
「そうよね…タイガが守ってくれる。きっと…」
依理子は泰牙が去っていった扉の先を見つめた。同じ方に目をやり、莉音が誰にも聞こえない位の声で言った。
「…神様なんて、どこにもいない…」
泰牙は足音も荒く、廊下を突き進んだ。とは言ってもそこまでの距離がない道はあっという間に行き止まり、踵を返す。あらぶる感情に収拾がつかないまま、彼は何度もそこを往復した。
角を曲がり、人影が見えた。咄嗟に身構えるが、確認して拳を下ろした。そこにいたのは零音だった。
「レオンか…」
小さく口にする。彼は同じように泰牙の姿を確認し、走りよってきた。
「タイガ、エリスさんは? 大丈夫なのか?急にいなくなったから、びっくりして…」
零音は依理子が部屋を飛び出していったことを知らなかったようだ。清玲奈の死体を目にして、きっと放心したままだったのだろう。泰牙は鼻の頭をかいた。
「ああ、広間にいる。とりあえず落ち着いてるよ…むしろ俺の方がどうかしちまいそうだ…」
「ライトの…こと?」
零音は視線を床に移した。
「それに木林先生…俺、わからない。何で二人があんな目にあわなきゃいけなかったのか。誰が…二人を殺したのか」
眉間に皺を寄せる零音の肩を、泰牙がさすった。もう片方の手で壁を強かに殴りつける。
「…許せねぇよ。おかしいよ!」
埃っぽい壁には泰牙の拳の跡がくっきりと残った。それをぼんやりと見つめる零音。泰牙はくるりと反転しその壁にもたれ、重い口を開いた。
「俺さ…何となく、アイツが怪しいと思うんだ」
その言葉に零音が反応した。彼を強い眼差しで見据え、続きを待つ。
「アイツ…朽城の野郎だよ。怪しくないか?昨日ここで目を覚ました時、ヤツは一人でいた。みんな同じように気絶してたってのに」
「…先に目を覚ましてたって」
「信じられるか? それにアイツは、さらわれたことに驚きもしねぇ。ライトや木林先生が死んでるのを見た時も、異常なくらい冷静だった。普通出来るか? あんな冷静に死体触る、なんて…」
泰牙は言葉を切った。脳裏にライトの最期が映ったのだろう、眉間を歪ませる。
「確かに…」
零音は彼の言葉を取り、顎に手を当てて思い返した。
「昨日ライトが殺される前に探索してる時、朽城先生は一人だった。リオンは広間にいたし、ライトと俺はそれを見てる。ライトと別れた後、他の部屋を見て回った時、マオちゃんと木林先生は同じ部屋にいた」
「俺とエリはずっと一緒にいたし、途中で睦月…だっけ? あいつも一緒になったんだ。一人だと心細いからってな…」
「うん、つじつまが合う…ライトは俺と反対方向に行った。そっち側の部屋を探してた人物は一人だけ…」
二人は顔を見合わせた。
「朽城黎至…」
ほぼ同時にその名前を口にする。導き出した答えに納得しながらも信じたくない、そんな表情のまま二人は静止していた。零音が続ける。
「…でもさ、動機は?」
ところが泰牙は言葉に詰まり、困ったように目をそらした。
「さぁな…それはわかんねぇ。セレナ先生とは俺達の知らない理由があってもおかしくないけど、ライトは…」
「だよね。ライトと朽城先生、接点ないもん。ライトがカウンセリングなんて絶対受けるわけないし」
と、真面目に言った零音の言葉に泰牙は吹きだした。きょとんとした瞳で零音が首をかしげた。
「何?」
「お前、失礼! お前の中で、どんだけライトは能天気なんだよ!」
腹を抱えて笑う泰牙につられて、零音も笑った。廊下に二人の笑い声が響いた。
「はー、久々に笑ったわ。ま、この話は俺達だけの秘密な? 確証もねぇし、朽城に聞かれたらヤバイかもしれねぇから」
「わかってる。みんなを不安にさせるわけにもいかないしね」
二人は目を合わせて、小さく頷いた。
「エリスさん…大丈夫かな。今一人でしょ?」
零音が泰牙に言った。泰牙は少し考え、先程のことを思い返した。
「大丈夫だ、確か俺が出てくる時、リオンちゃんとすれ違ったから。多分一緒にいるだろ。それよりレオン、リオンちゃん大丈夫なのか?」
泰牙は不自然に話題を変えた。
「さっきだって倒れちまったし…ここに来てからずっと具合悪そうじゃないか」
「さっきはちょっとショック受けちゃっただけだよ。リオンの頭痛はいつものことだし、心配しなくても大丈夫」
泰牙と依理子が現場を離れてすぐ、莉音は目を覚ました。彼らがいないことに気づいた零音がそわそわしていると、莉音自ら探すように促したのだった。零音は彼女をその場に残し、泰牙たちを追ったのだった。他の部屋を見て回っているうちに、広間に行った莉音とは入れ違いになったのだろう。
零音は壁に背中を預けた。
「むしろ、さ…俺、リオンが自分のことはいいって言ったのに驚いて…嬉しかったんだけど、何となく寂しかったな…もうリオンは俺がいなくても立てるのかもしれないね」
彼の瞳に憂いが見えた。泰牙は茶化すように彼の髪を撫で回した。
「ばーか、お前がいなきゃだめに決まってんだろ! そりゃ誰だって強くなるさ。でもなぁ、お前達は特別なんだよ。二人じゃなきゃダメなんだ」
彼はふっと悲しげな笑みをこぼし、零音の頭に乗せた手を止めた。
「俺とエリはさ…どうなんだろうな…時々わからなくなるんだよ、エリのこと」
零音は少し背の高い泰牙の顔を見上げた。泰牙は自嘲めいた笑いを浮かべ、零音を見下ろす。
「一緒にいるとそりゃ楽しいし、落ち着くよ。だけど…知らず知らずのうちに、エリのこと傷つけたりしてんじゃねぇかって心配になる。ほら、俺さ、こんな性格だろ? ケンカしてムキになって、我に返るとエリが悲しそうな顔しててさ…どうしたらいいのかわかんなくなっちまうんだよ…」
「そういうものなんじゃないの? 彼氏彼女って」
「どうなんだろうな。俺も彼女出来たの初めてだからさ、よくわかんねぇ」
はぁ、と泰牙は大きく溜息をついた。
「多分、だけどさ…タイガは本気で好きなんだよ、エリスさんのことが。だからそうやって悩むんだと思う」
遠くを見ながら、零音は言った。
「お互いに大好きで、心から愛してるから、心配したりケンカしたりするんだ。それってすごく…うらやましいよ」
いつになく真摯な零音の台詞に、泰牙は照れてうつむいた。
と、泰牙が何かに気づいて唇に人差し指を当てた。足音だ。コンクリートを鳴らす靴底の音。二人は恐る恐る廊下を見た。そこにいたのは壁伝いに歩いてくる莉音だった。
「リオン…どうしたの? 具合が悪いのかい?」
駆け寄った零音が彼女に問う。しかし莉音は兄の手を取り、そのまま泰牙に歩み寄った。
後ろに握った兄の手を強く握り、彼女はたどたどしく言葉を発した。
「あなたに…伝言。エリスさんから…『少し、一人にして』って…それだけ…」
泰牙と目が合い、咄嗟に彼女は下を向いた。
「私…彼女と一緒にいるから…」
莉音は顔を赤くしてうつむき、もと来た方向へ走り去っていった。後に残された零音と泰牙が、呆けたようにそれを見守る。頼人同様、莉音が泰牙と会話を交わしたのはこれが初めてだった。
小さくなる莉音の背中を見つめて、零音は少しだけ寂しそうに笑った。
「…神様なんて、どこにもいないのよ…」
莉音の言葉に、依理子ははっと顔を向けた。そして自愛に満ちた眼差しを、彼女に投げかけた。
「そんな事ない、神様はいるわ。主は私達を、いつも見守ってくださるのよ」
彼女はカトリック系の高校に通っている。しかもイギリスからの帰国子女だ。幼少からキリストの教えに習って生きてきた彼女には、莉音の言葉が本当に信じられなかったのだろう。
しかし莉音はそれを冷たい笑みで流した。
「いないわ。そんなもの。いたとしても、人を救ってなんかくれない。神はただ、見ているだけ」
莉音の強い口調に気圧されながらも、依理子は勤めて穏やかにそれを諌めた。
「きっと救ってくださるわ。まだその時が来ていないだけよ…主は等しく、皆を愛してくださっているのだから」
「じゃあ何故彼らは死んだの?」
莉音が依理子を見た。長い前髪に隠れていない方の瞳が、闇夜に光る猫目の様な色を湛えていた。
「何故私達はこんな所につれて来られたの?神がそう望んだの?」
彼女は取り付かれたように依理子の肩を掴んだ。その目はまるで人形のように冷たい。
「神が人を平等に救ってくれるなら、どうして私は…」
そこまで言って、莉音は顔をしかめて頭を抱えた。依理子が彼女に触れたが、莉音はその手を打ち払った。驚いた依理子が呆然と彼女を見つめる。
少しして、莉音は苦痛から開放された。険しくしかめていた表情が少し落ち着く。
「…大丈夫?」
依理子の問いかけに、莉音は短く答えた。
「何でもないわ…少し、頭が痛いだけ…ごめんなさい…」
弱弱しく息を吐く莉音に、依理子は再び手をかけた。今度は振り払うことなく、莉音は大人しく彼女を受け入れた。それまでこめかみを押さえていた右手で自分の体をかき抱き、莉音は小さく言った。
「私を救ってくれるのは…お兄様だけよ…何もしてくれない神様なんか、私はいらない…」
もう依理子は何も言わなかった。それほどまでに、莉音の口から漏れる言葉には深い闇が潜んでいるように感じられたからだ。莉音が顔を上げた。
「あなたの彼は…例えどんなことがあっても、あなたを、救ってくれる?」
依理子は彼女の背中をさする手を止めた。
――見透かされたように感じだ。
「どんなに恐ろしい事が起きても、それでも…あなたを守ってくれるかしら?」
莉音は真っ直ぐに依理子の顔を見つめた。依理子は目をそらした。「もちろん」とは、言えなかった。莉音は彼女の胸の内にある不安を見抜いているかのようだった。
彼女は――自分に自信がなかった。容姿は普通、頭脳も並かそれより少し上程度、秀でて何かが得意なわけでもない。そんな自分を、泰牙は選んでくれた。そのことにいつも疑問を感じ、焦っていた。彼は、こんな私のどこを好きになったのだろうか。しかしそんな事は聞けなかった。
畳み掛けるように、莉音の言葉が突き刺さる。
「あなたたちは…本当に、互いの全てを、愛しているの?」
打ちのめされた依理子は、ただ黙って床を見つめた。
しばし、二人は沈黙した。莉音はそれ以上何も言わず、また依理子も口を開かなかった。斜陽は更に角度を狭め、天窓には一番星が顔を覗かせた。
「……リオンさん。お願いがあるの。タイガに…少し、一人にしてって…伝えてくれないかしら」
ようやく絞り出した依理子の声には、力がなかった。莉音は小さく頷くと、腰を上げた。後には依理子が一人残された、彼女は積み重なる胸の不安に、唇をかみ締めた。
また、夜が来た。広間には全員の顔がある。しかし昨日までとは違い、二人の人間がいない。清玲奈の遺体も黎至が別の部屋に移し、あの現場にはもう誰も入ろうとはしなかった。黙ったまま時を過ごす7人。部屋の中心にはわずかなパンやお菓子がまとめて置かれていた。別の部屋にあったキャビネットにあったものだ。誰ともなくそこから手に取り、無言で食事を取る。そんな中、黎至は紫煙を吐き出していた。
零音は泰牙と依理子の様子を伺った。二人は少し距離をとり、互いを見ずに菓子パンを齧っていた。時々気になるのか、泰牙が依理子をちらと見る。しかしすぐに顔を背ける。
「…辛気臭いな」
唐突に黎至が口を開いた。短くなった煙草を壁で揉み消す。だがそれに答える者はいなかった。黎至は舌打ちをし、広間を出て行った。別の部屋で休息を取るのだろう。
零音は耐え切れず、泰牙の元に歩み寄った。
「…タイガ。そんなに気になるなら、傍にいてあげればいいじゃん」
泰牙は無言でパンを飲み下した。だが動く気配はない。エリスも同じだ。ちらちらと泰牙を気にしては、あえて無視しているように見える。
零音は痺れを切らし、泰牙の頭を叩いた。
「ってぇ!」
「なんだよ、ウジウジしてさ。タイガらしくもない。男はいつでも本気でぶつかる、じゃないのかよ!」
決まり悪そうに下を向く泰牙に、零音は仁王立ちのまま言った。
「タイガ達だって、好きだから一緒にいるんだろ? こういうつらい時に励ましあわなきゃ、意味ないじゃんか。恋人、なんだから」
ようやく二人が視線を合わせた。小さく息を吐いて、零音は泰牙の耳元で囁いた。
「ほら、ちゃんと話せって、お互いの気持ち。きっと今までより、もっと分かり合えるはずだから」
そして向き直る。舞桜と優慧がぽかんと口を開けて、その光景を見ていた。
彼らに向かって零音は目配せをした。舞桜はいち早くそれを察し、悪戯っぽく笑って腰を上げる。優慧は未だ訳が分からないといった表情をしているが、隣に寄ってきた舞桜に無理やり立たされ、背中を押されて広間を出て行く。舞桜もその後に続いた。
零音は踵を返し、端でぼんやりと視線をさまよわせていた莉音にその手を差し出す。
「行こう、リオン」
莉音はにこりと笑い、彼の掌を握った。
残された泰牙と依理子は距離を保ったまま、互いにそっぽを向いて身じろぎしていた。話し出すきっかけがつかめない、と言ったところか。
「あの!」
堪えかねた二人が同時に振り返った。あまりにも同じタイミングに思わず依理子が吹きだし、釣られて泰牙も声をあげて笑った。そしてどちらともなく、手を繋ぐ。
ひとしきり笑ったのち、先に口を開いたのは泰牙だった。
「その…ごめんな」
依理子は彼の顔を見た。目が合い、微笑む。
「エリの気持ち、わかってやれなくて。怖いよな…こんなことになってさ」
泰牙は罰の悪い顔をして彼女を見つめた。それに依理子は穏やかな笑みを返す。
「ううん、いいの…私こそ、あんなこと言ってごめんなさい。タイガだってつらいよね…先生に、親友まで失ったんだもの。私、自分のことで精一杯で、タイガの気持ち考えてなかった」
二人の距離が縮まった。肩を寄せ合い、繋いだ手をしっかりと握り合った。日に焼けた泰牙の大きな掌が、依理子の華奢な指を包み込んだ。
「ねぇ、タイガ…」
「何だ?」
二人の間には頬が触れるくらいの間隔しかない。少し泰牙よりも低い所にあった依理子の顔が持ち上がり、泰牙の口に自分の唇を重ねた。
長い、暖かいキスだった。
湿った音を立てて二人の唇が離れ、再び見つめあった彼らの頬は朱に染まっていた。泰牙は照れ隠しに鼻先をこすり、改めて依理子の目を見、ポツリと言った。
「エリ…やっぱりお前が好きだ。世界で一番、愛してる」
意外な泰牙の言葉に、依理子は一瞬の驚きを見せ、頬を赤らめて微笑んだ。
「私も…大好き。ずっと、離れないから…」
そのまま二人は見つめあい、再びキスをした。額をつけ、笑う。
「そうだ。エリ、ここから出られたらさ、お台場行こうぜ。お前、行きたがってただろ? 俺も大会終わったし、部活の休みも増えるからさ。デート、しようぜ。約束だ」
「ホント? 嬉しい!」
他愛ない会話。今の二人にとって、それが幸せだった。泰牙はその後も次々と二人の予定を立てていく。その度に依理子は喜び、あれこれと計画を練る。覚えきれないほどの予定で、二人の頭はいっぱいになっていった。満ち足りた空気が二人を包んだ。
「…これからも、ずっと一緒だ。絶対にお前を守るよ。俺の命に代えても」
それまでの和やかな雰囲気から一転し、泰牙は真剣な面持ちで遠くを見つめた。依理子も同じ所を見る。床に置いた手はしっかりと組まれ、泰牙の体温が全ての指を通して依理子に伝わってきた。暖かかった。
「ありがとう、タイガ…私、幸せよ。だってタイガに、こんなにも愛されてる…」
依理子の言葉は語尾がかすれて聞き取れなかった。泣いているようにも聞こえ、泰牙はあえて彼女を見なかった。ただ固く手を握り、彼女の存在を感じる。依理子の頭が、彼の肩にもたれかかってきた。安心したように体重をあずけてくる。泰牙は自分より小さな頭を守るように、居住まいを正した。
「ケンカしたっていいんだよな。二人で乗り越えればいいんだ。レオンが教えてくれた。はは…あいつ、彼女もいねぇのにな。俺よりも人を愛することを知ってる。きっと…リオンちゃんのおかげなんだろうな」
「リオンさん…私、彼女と話してから考えたの。私ね…ずっと不安だった。タイガはどうして私なんかを選んだんだろうって。でも気づいた。それは答えのないことで、ただ好きだから一緒にいるんだって。私も、同じだもの…」
依理子は言葉を区切った。
「私も、タイガが好きで、だからこうやって一緒にいる。理由なんかないの。それだけなの。ああ、それでいいんだって…そしたら、不安なんてどこかに行っちゃった」
優しく言葉を紡ぐ依理子の表情は、きっと綺麗な笑顔なのだろう。正面を見たままの泰牙には見えなかったが、彼はそう感じていた。
「タイガ…ありがとう、好きになってくれて。私を、愛してくれ…」
グシュ。
鈍い音で、依理子の言葉は遮られた。短い嗚咽。泰牙は彼女を見た。
目に飛び込んできたのは、彼女の胸元から伸びる金属の棒だった。
グシュ。
それが増えた。少し間隔をあけて。依理子の口から、暖かいものが流れ落ちた。
グシュ。
さらにもう一本。彼女の体を突き抜けた棒の先端はぬらぬらと赤く禍々しい光を放つ。
依理子の体が、その場にくずおれた。前のめりに、泰牙の膝に倒れ込む。驚愕に硬直していた泰牙はそこでようやく我に返り、彼女の肩を抱いた。
「エリ、エリ!!!」
彼女の背中に突き刺さるもの。それは三本の矢だった。依理子の体が小刻みに痙攣する。まだ息がある。
「しっかりしろ、エリ!!」
泰牙は彼女を揺さぶり、激しく声を上げた。見る見るうちに彼女の唇は紫色に変わっていく。先ほどまで泰牙と口付けをし、愛を囁いていた唇が、急速に熱を失う。
「っ!」
泰牙は咄嗟に振り向いた。彼らが背にしていた広間の入り口。裸電球の薄明かりの中で、彼は必死に目を凝らす。見えた。黒い影が、ひらりと空間を横切っていった。
「待てよコラァ!」
しかしその怒号は暗闇に吸い込まれていった。未だ痙攣の治まらない依理子を膝に抱き、泰牙は動けない。彼はその影を追うのを諦め、依理子に向き直った。白い肌がより一層白く血の気を失っている。優しく抱き起こし、体を貫く凶器に触れないようにして体を支えた。
「…あ…タイ、ガ……」
変色した彼女の唇から、吐息のような声が漏れた。泰牙は少しだけ顔を近づけ、名前を呼ぶ。
「わ…たし…しあわせ、だった、よ…タイガと…いられ、て…」
「わかったよ…わかったから、もう喋るな! 今誰か呼んでくるから」
しかし依理子は力を振り絞り、微かに首を振った。
「お、ねがい…ここに、いて…はなさ…ないで…おねがい…」
泰牙は浮かしかけた腰を戻した。依理子はほっとしたように微笑を浮かべ、息も絶え絶えに泰牙の頬を撫でた。その手を、泰牙が握る。冷たくなってゆく。
「タイガ…だい、すき……わすれ、ないでね…わたしの…こと…」
「ダメだエリ! これからデート、たくさん行くんだろ?! ここから出て、思い出作るんだろうが!! だから…だから!」
泰牙の瞳からは、大粒の涙がとめどなく溢れていた。
「約束だろっ…お台場…行くって…!」
彼の言葉が詰まった。依理子の手を握る指が震える。
「ごめん、ね…約束…まもれそうに…ない……ごめんね…」
依理子も泣いていた。青白い彼女の頬の上で、二人の涙が混ざって溶け合う。
彼女は、笑った。
「あり、がと…タイ…ガ………あい、し、て、る」
短く言葉を切り、瞳を閉じた。泰牙の頬に触れた指が力を失い、弛緩して重さを増した。それきり、彼女の目が再び開くことはなかった。
「っ…エリ……あああああぁぁぁぁぁっっっ!!!」
泰牙は動かなくなった彼女を強く抱きしめ、絶叫した。それは広間に響き渡り、大気を震わせた。何度も叫ぶ。泣き叫ぶ。
零音と莉音が広間に飛び込んできた。そこに入ろうとして、躊躇する。彼らには泰牙の背中とその足元に覗く依理子の細い足しか見えなかったが、何が起こったのか想像するには充分だった。咆哮を続ける泰牙に声をかけることも出来ない。二人に遅れて舞桜、優慧、黎至の三人もそれを見る。誰も、何も言えなかった。
天窓からは天の川が見えた。星の道は雲に遮られ、一際明るい二つの星を引き離していた。
まるでそれは、永遠の別れのように。