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ゼロの狂詩曲  作者: 似櫂 羽鳥
3/8

5.変奏曲 ―Variation―





 夢を、見ていた。

 小さい頃の夢だ。

 深夜、ろうそくの明かりで暖をとる僕ら。ストーブなんか与えてもらえない。僕らは、みなし子で、いらない子だから。

 僕とリオンは薄いシーツに包まって、ほっぺたをくっつけ合う。こうするとあったかいんだ。それに、僕らは一人じゃないって、少し元気になれる気がする。

 リオンは僕なんかよりももっとかわいそうだ。だから僕がリオンを守ってあげなきゃいけない。リオンが泣いていると、僕も悲しくなる。ちょっとでもリオンが辛くないように、僕がリオンの苦しいこととか痛いこととかをもらってあげなきゃ。

 僕とリオンはいつもこうやって、おでこをくっつける。そうして「はんぶんこ」にするんだ。悲しみは、はんぶんこ。つらいことも、はんぶんこ。

 ほら。ぼくらは、ふたりでひとつ。




 後頭部に痛みを感じて、零音は目を覚ました。暗い。ごつごつしたコンクリートの質感が背骨を押す。ぼんやりと霞む思考で、零音は自分の身に起こったことを思い返した。家中の明かりが消えて、誰かに後ろから薬か何かを嗅がされて、気を失ったようだ。外に出ようとした。探さなきゃいけなかったからだ。何を?

「…リオン…リオン…!」

 弾かれるように彼は飛び起きた。同時に、辺りを見回す。見慣れない場所だ。消えた裸電球が一つ吊るされただけの殺風景な空間。剥き出しのコンクリートの壁は所々剥がれ落ち、床との境目に細かく粒子となって積もっている。天窓が一つ、そこからは三日月が見える。

 零音はぎしぎしと軋む体をゆっくりと持ち上げた。ぐるりと部屋中に視界を移した。彼から少し離れた所に、こちらに背を向けて横たわる人影を見つけた。黒いワンピース、たゆたう銀髪。

「っ、リオン!!」

 駆け寄って彼女の肩を揺さぶる。二、三回繰り返したところで、莉音はうっすらと目を開いた。

「…お兄、様…?」

「リオン! ああ、よかった…!」

 ぼんやりと零音を見つめる彼女を抱きしめる。莉音は彼の腕の中で静かに吐息を吐いた。

「私…お兄様が出て行った後、お湯を温め直していたの…そうしたら、急に目の前が真っ暗になって…」

 零音は記憶の糸を辿るようにぽつり、ぽつりと話す彼女の唇に指を当て、言葉を遮った。だいぶ覚醒したようだ、彼女が体を起こす。怯えて零音の腕に縋りつきながら、莉音は不安な声を上げた。

「ここは…どこなのかしら? 一体、何が起こっているの…?」

「わからない。僕が帰ったらリオンがいなくなってて、探しに出ようとした所で誰かに薬を嗅がされた。さっき目が覚めたら、もうここにいたんだ」

「お兄様、これ…」

莉音が傍らに転がる紙片を手に取った。それは紛れもなく、先日彼らの家に届いた怪しい招待状だった。

「どうして、これが…」

「リオン、持ってきたのかい?」

「いいえ、私、知らないわ…」

 零音はその招待状を握りつぶし、懐にねじ込んだ。莉音を支えながら立たせ、寄り添ったまま改めて周囲を見渡す。暗がりにようやく目が慣れてきた頃、月を覆っていた雲が少し途切れた。月明かりが部屋に差し込む。

 彼らの周りには、他にも人が倒れていた。微動だにしないそれらに戸惑ったが、零音は意を決してその一人に駆け寄った。うつ伏せで横たわるその人物を転がし、確認する。生きている。

「…ライト…?」

 ぼんやりと照らされたその顔は、親友の頼人だった。慌てて強く揺さぶる。間もなく顔をしかめ、頼人は目を覚ました。

「うぅ…痛ってぇ…」

 頭を押さえ、うめき声を上げる。みると彼の額には大きなこぶが出来ていた。まるで重いもので殴られたような。

「ライト、ライト!気がついたか?」

「ああ、レオン…って、何でお前が?!」

 頼人は跳ね起きた。しかし傷が痛んだようで、再び彼は顔をしかめる。零音は彼の上体を支えながら、声を落とした。

「わからないんだ。きっと誰かにさらわれたんだと思う。ライトは?」

「俺は…お前に借りてたCD返そうと思って、お前ん家に向かってた。そしたらいきなり飛び出してきた奴に思いっきり殴られて…気を失ったんだ」

 頼人は額のこぶをさすった。

「ったく、最悪だぜ!」

「なぁライト。お前の所にも例の招待状、届いたって言ってたよね?」

「ああ、あれだろ…ゼロがどうのこうのとか言うやつ。なんか捨てるのも気味悪ぃからそのままにしといた」

「これのことかしら…?」

 いつの間に頼人の背後へ回っていた莉音が、彼が寝ていた床から封筒を取り上げた。零音がポケットにしまったものと全く同じ、黒い二つ折りの厚紙だ。

「なんだよ…何でここに…」

 頼人はそれを莉音から受け取り、気味悪そうに眺めた。その時、彼らの近くで影が動いた。

「!」

 いち早く気づいた零音が莉音を庇うように後ずさる。横たわっていた影がゆっくりと身を起こした。うっすらと月明かりに、金の髪が透ける。

「タイガ…? タイガなのか?」

 零音は小さく問いかけた。影は目を凝らし、零音達の姿を認識すると声を上げる。

「レオンか? それにライトまで…リオンちゃんも一緒かよ。ったく、ここはどこなんだ?」

 泰牙は立ち上がると、零音達がしたのと同じように辺りを見回した。そして己の隣に横たわる人物を見つけ、慌てたようにその体を揺さぶる。見るとそれは小柄な女性のようだった。名前を呼ぶ泰牙の声に焦りの色が浮かぶ。

「エリ、エリス!」

 間もなくして、彼女の瞼がゆっくりと開いた。やはり気を失っていたようだ。心配そうに覗き込む泰牙の顔を見つめ、唇から吐息を漏らす。

「タイガ…」

「気がついたか、よかった…」

「あれ…私達、さっきまで公園に…」

 篠宮依理子(しのみや えりす)――泰牙の彼女だ――は泰牙に支えられて体を起こすと、彼の肩越しに零音達の姿を見つけた。まだ状況が理解できていないのだろう、どこかぼんやりとした瞳でこちらを見ている。

 零音は寄り添う莉音の手を強く握り、呟く。

「タイガ達も…さらわれたのか」

 それは依理子の耳にも聞こえてきた。彼女は泰牙にぴったりとくっつき、答えを待つように彼の顔を見つめる。泰牙は零音達を見据え、強く言い放った。

「も、ってことは…お前らもなのかよ?」

「ああ。俺とリオンは自宅で。ライトはうちに来る途中の道端で。タイガ達は?」

 泰牙は記憶を辿るように空中を仰いだ。

「確か、昼間エリと出かけてて、その帰り…」

「タイガは私を家まで送ってくれるって、駅から歩いていたの」

 その言葉じりを依理子が引き継ぐ。

「途中、公園に寄って…タイガから変な招待状を見せられたの」

「そうだ、招待状…あんまりタチの悪い悪戯だったら仕掛けた奴の事許さねぇって。あれに書いてあった日って今日だろ? もし本当に迎えに来るんだったら、そいつの顔を拝んでやろうと思ったんだ」

 泰牙は忌々しそうに舌打ちをした。依理子がそれを諌め、続ける。

「私、止めたの。もし危ない人だったら怖いからって。そしたら急にタイガが後ろから…」

 そこまで言って依理子は体を震わせた。泰牙が彼女の肩を抱く。

「…タイガが、後ろから誰かに殴られて、その場に倒れたの。その後私も…黒い袋みたいなもの被せられて、お腹を殴られて…」

「で、今に至るってわけだ」

 頼人が顎に手を当て、まるで何かを推理するかのように言った。

「手口は同じだな、俺達と。それに招待状…」

「俺とリオン、ライト、それにタイガも、同じものを受け取ってる。エリスさんは多分、その場に一緒にいたから…口封じ的な事じゃないかな…」

「私達…誘拐された、っていう事…?」

 依理子の口から出たその単語に、思わず全員が押し黙った。いつもは気丈な泰牙ですら、少し不安げな表情を浮かべて地面に目を落としている。

 重苦しい空気を振り払うかのように、零音が声を張り上げた。

「と、とにかく、他の人たちも起こそうよ。きっと俺らみたいに気絶してるだけだろうから」

 それに頷き、泰牙が立ち上がる。

「そうだな。話聞きゃ、何かわかるかも知れねぇ」

 それを合図に、彼らは四方へ散らばっていった。零音と莉音はすぐ近くに横たわっていた女性を、頼人はその奥にいる男を、泰牙と依理子は部屋の隅に倒れる女性をそれぞれ起こしていく。しかし彼らはその人々の顔を見、一斉に戸惑いの声を漏らしていた。

 零音達が起こしたのは赤い縁の眼鏡をかけたスーツ姿の女性。それは彼らの担任、木林清玲奈(きばやし せれな)だった。夏休みの学校で部活顧問の仕事を終えた後、帰宅途中で頼人同様背後から何者かに殴られたらしい。持っていたらしい鞄はこの場になかったが、彼女のスーツのポケットには例の招待状がしっかりと収まっていた。

 頼人は清玲奈の奥にいた男を起こすのに苦労していた。学生服をきっちりと着こなした、見るからに真面目そうな男子生徒だ。彼の傍らには鼠色の学生鞄が無造作に転がっていた。ようやく目を覚ました彼に話を聞く。彼は睦月優慧(むつき ゆえ)、零音や頼人達と同じ高校に通っている。学年は一つ下だ。塾の帰り、人気の無いバス停でバスを待っていたところを連れ去られた。催涙スプレーのようなものを吹きかけられ、頭を強打されたようだ。彼の後頭部にはまだ新しいかさぶたがしっかりと残っていた。もちろん、鞄の中には招待状。

 その反対側の壁際。泰牙と依理子が向かった先には若い女がぐったりと横たわっていた。今にも下着の見えそうなミニスカートから細い足が覗いている。彼女は眠りが浅かったらしく、泰牙が肩を揺さぶったらまもなく目を覚ました。彼女はきょろきょろと辺りを見回し、一目散にある人へ駆け寄っていった。

「レオン!」

 ふらついた清玲奈を助け起こす零音の腰に抱きつく。慌てて振り返った零音が、驚愕の声を上げた。

「マオ、ちゃん?!」

「レオン、どうしてあたし、こんなところにいるの?! あたし、友達と渋谷行って、帰ってきて一人で歩いてたの。そしたら、そしたら!」

 零音の腰にきつく腕を回しまくし立てる。

「何か知らない奴が急に出てきてさ、突き飛ばされたの! 殴られそうになったんだけど、あたし怖くて逃げたの! そしたら追いかけてきて、腕つかまれて…あたし、必死で抵抗したんだけどさ…!」

「お、落ち着いてマオちゃん」

「結局殴られちゃって…あたし、怖かったよぉ!!」

 零音の言葉も聞かず、一方的に喋り続けて笹倉舞桜(ささくら まお)は零音にしがみついた。零音は戸惑いながらもそれを振り払うことが出来ない。その騒々しさに、全員が呆然と注目している。やっとのことで零音は舞桜を引き剥がした。

「そ、そうだったんだ。大変だったね」

「ホント、最悪だよぉ! でも、今はレオンがいるから、もう怖くないよ」

 マオはわざとらしく猫なで声を出し、零音を上目遣いで見つめた。曖昧に笑みを返す零音の腕に自分の腕を絡め、肩にもたれかかる。その時、零音の背後にいた莉音と軽く目が合った。マオは彼女にしか見えないところで、にやりと唇を歪め勝ち誇った微笑を浮かべた。

 と、大きな物音がした。皆がそちらを見やる。錆の浮いた鉄の扉が開け放たれている。その先の暗闇から、長身の男が姿を現した。

「皆さんお目覚めのようで」

 気だるそうに煙草をふかし、頭を掻く。その顔を見て、清玲奈が眉をひそめた。

「…朽城先生…?」

「おや、木林先生。終業式以来ですかね?」

 まるでこの状況を何とも思っていないかのような口ぶりで、ひらひらと手を振っている。

 彼は朽城黎至(くちき れいじ)、零音達の学校に配属されているいわゆる『スクールカウンセラー』だ。主に生徒たちの悩み事を聞いたり、ちょっとした相談などを受けたりする。いじめなどのやや重い相談から恋愛相談の様な些細な事まで、思春期の子供たちの話し相手になるのが彼の仕事だ。

 普段通りの雑な髪型に無精髭、薄汚れた白衣という格好で彼はここにいた。

「いやぁ、俺も気づいたら倒れててね。皆より先に目が覚めたから、ちょっと散歩してきたんだ」

 面々から送られる怪訝そうな視線を感じ、黎至は頭を掻いた。

「ぐるっと建物の中見て回ったんだが、外に繋がる扉は全部鍵が掛かってたよ。それだけじゃない、窓にも全部鉄格子がはめられてる。完全に閉じ込められたみたいだな」

 彼はそう言って白衣の胸ポケットから黒い紙片を取り出した。あの招待状だ。それを目に留め、零音が鋭い視線を向けた。

「朽城先生も…それ、受け取ったんですか」

 射抜くような眼差しをさほど気にも留めず、黎至は紙で顔を扇いだ。

「ああ、ポストに入っていた。新手のイベントか何かと思っていたが、まさか本当に犯行声明だったとはねぇ…」

「犯行声明って、物騒なこと言うんじゃねぇよ!」

 あまりに飄々とした黎至の態度に苛ついたのか、泰牙が怒りを剥き出しにした。しかしそれすらも黎至は気にせず、相変わらず皮肉めいた笑みを浮かべるだけだった。

 今にも飛び掛りそうな勢いの泰牙を制し、あくまで冷静に零音は言葉を紡いだ。

「…本当に、どこにも出口は無かったんですか」

「ああ、そう言っただろう。信じられないなら確かめてくるといい」

 真っ先に泰牙が扉を出て行った。それに続くようにして、零音と頼人も黎至の横をすり抜ける。泰牙の後を追って建物を回っていく。何もない殺風景な部屋が5つ、先程彼らがいた広めの部屋、それだけだった。黎至の言った通り、全ての窓には頑丈な格子がはまっていてびくともしない。廊下の先に大きな両開きの扉を見つけ、三人が駆け寄る。しかし押しても引いてもその扉はわずかにすら動かなかった。

 やがて三人が元の部屋に戻ってきた。かすかな期待に賭けていた黎至以外の面々も、彼らの沈んだ表情を見てがっくりと肩を落とした。彼らが無言のまま部屋に入り、黎至が壁にもたれて二本目の煙草に火をつけた時、突然優慧がはっと顔を上げた。

「そ、そうだ、携帯!」

 慌てて傍らの鞄を漁り、携帯電話を取り出す。二つ折りのそれを開くが、画面の表示を目にして再び頭を垂れた。

「そんな…圏外、なんて…」

 横目でそれを見ていた黎至が煙を吐き出す。

「外の景色を見る限り、とんでもない山奥、という訳でもなさそうだ。つまり、この建物の周辺だけ電波が遮断されている。犯人によって…かな」

 沈黙が流れた。完全に閉じ込められたという事実に直面し、誰一人声も上げられなかった。

 零音の隣にぴったりと寄り添っていた舞桜が、唐突に床を両手で叩きつけた。

「あーもう! 何なのよこれ! 最っ悪!! 暑くてベタベタするし、お腹空いたし!」

 そのまま勢いよく立ち上がり、足音も荒く部屋を出て行こうとする。見かねた頼人が追いかけ、彼女の腕を掴んだ。

「離してよ!」

「ちょっと待てって! どこ行くんだよ?」

 舞桜は強引に頼人の手を振り払った。

「あたし、何か食べる物探してくる。だって、いつまでもこうしてたって無駄じゃん! 犯人は最初っからあたし達を閉じ込めるつもりだったんでしょ? だったら水とか食料とか、どっかに隠してるはずじゃない」

 言いながら、舞桜の影は遠ざかっていった。それを見送りながら、清玲奈も小さく頷く。

「確かに…笹倉さんの言う通りね。ここで落ち込んでたって始まらないわ。ちゃんと探せば、何か見つかるかも」

「そ…そうですよね。ゆ、誘拐に監禁なんて、サスペンスドラマじゃあるまいし…」

 繋がらない携帯電話を鞄に押し込み、優慧が眼鏡を指で押し上げる。

 出て行った舞桜の形相に呆気に取られていた泰牙は、小さくかぶりを振って震える依理子の手を握った。

「もしかしたら、どこかしらに出口が」

「そうだよ、早く帰らねーと! 俺様、明日デートじゃんか! 愛しのリカちゃんとせっかくここまでこぎつけたんだ、ドタキャンなんてできるかよ!」

 泰牙の言葉を遮って、大げさなポーズをとる頼人。その緊張感のない台詞に思わず他の面々は溜息を吐いた。彼の頭を後ろから叩き、零音が全員を見た。

「よし、手分けして探そう。終わったらこの部屋に戻ってくる。何か見つけたりしたら、大声で知らせること。それでいい?」

 零音が同意を求めると、頼人と泰牙が力強く頷いた。そして廊下へ出て行った。依理子は泰牙の後を追っていく。清玲奈と優慧も小走りで彼らの後に続き、黎至は煙草を壁で揉み消して気だるそうにその場を後にした。同様に零音が歩き出したが、莉音は座ったまま動かない。ついて来ない莉音に気づき、零音が彼女に駆け寄る。

「リオン、大丈夫かい?」

 零音は莉音の頭を撫でた。莉音は辛そうに顔を歪め、こめかみを押さえる。

「お兄様…ごめんなさい、何だかとっても頭が痛いの…」

「無理しないでリオン。ここで休んでいるといいよ。すぐに戻ってくるから。いいね?」

「……ええ、解ったわ…」

 莉音はゆっくりと立ち上がり、部屋の隅の角に腰を下ろした。蹲り、しきりにこめかみを揉んでいる。

 と、廊下から頼人が顔を出した。

「おーいレオン、早く来いよ!」

「ちょっと待って、今行く!」

 頼人は零音の返事を聞く前に、零音達の元に駆け寄ってきていた。顔色の悪い莉音を見、心配そうに莉音の隣へしゃがむ。

「って、大丈夫か、リオンちゃん?」

「ちょっと頭痛が酷いみたい」

 零音が彼女の額に掌を当てる。どうやら熱はないようだ。頼人は少し考えた後、腰に巻いていたパーカーをするりと解き莉音の肩にかけた。

「これ、使ってよ。なんなら下に敷いちゃってもいいからさ」

 優しく笑みを投げかけ、小走りで出入り口へ向かっていく。と、リオンが口を開いた。

「あ、あの…!」

 思わず頼人は立ち止まり、振り返った。莉音は肩のパーカーをそっと掴み、恥ずかしそうにうつむいた。

「…あ…ありがとう……」

 思いがけない莉音の台詞に、零音と頼人は顔を見合わせた。そして笑う。頼人はおう、と声をかけ、そのまま立ち去った。残された零音は彼女の頭を撫で、走って部屋を出て行った。


 俺の覚えている限りで、リオンちゃんと話したのはこれが初めてかもしれない。いつだって彼女は兄貴のレオンの後ろに隠れて、目も合わせてくれないほうが多かった。

 俺が部屋を出て扉の影に立っていたら、レオンが出てきた。俺はレオンと目を合わせると照れたように頭を掻いて、宙を仰いだ。

「俺、初めてリオンちゃんと話したかも」

「俺もびっくりした」

「あー! 絶対嫌われてると思ってたぜ! でもまぁ、意外とそうでもなかったっぽいな! リオンちゃんって、意外とツンデレ系?」

「調子乗りすぎ!」

 俺の額にレオンのチョップが炸裂した。それはちょうど殴られた時のこぶに当たって、俺は顔をしかめて頭を抱える。大して痛くもなかったけれど、大げさな俺のリアクションにレオンは本気でごめん、と謝ってきた。

 俺は額をさすりながら、レオンの目を真っ直ぐ見つめた。

「よかったな、レオン。やっと出来てきたんじゃないか? リオンちゃんの兄離れ」

 そう言うと、レオンは微笑んだ。少し寂しそうな顔で。

「そうなのかな…」

「いいことじゃねーか! こっからリオンちゃんももっと人と話せるようになって、友達作ってさ。可愛いから彼氏だってすぐできるだろうしな。そしたら俺様とWデートとか?!」

 茶化しながら、レオンの肩を叩く。

「お前も、早く妹離れしろよ? これからもずっと二人で、ってわけにはいかねーんだからさ」

 俺は二人と高校に入ってから知り合った。仲の良過ぎる二人はクラスでも少し浮いていて、他の誰とも関わろうとしなかった。そんな二人を見かねて、俺が帰りに誘ったのがきっかけだった。

 レオンは小さく溜息を吐いて、壁に寄りかかった。

「妹離れ、か…」

 兄弟が心配だ、って気持ちは痛いほどわかる。俺には下に4人の弟妹がいるから。俺も相当の兄バカだから、弟達がかわいくて仕方ない。

 でも俺からしたら、レオンとリオンちゃんの関係はやりすぎにしか見えなかったんだ。

 2年になって少し経ったくらいの頃に、俺はレオンとこんな話をしたことがあった。

『レオンさぁ、いい加減リオンちゃんと離れてみろよ? そりゃあリオンちゃんが心配なのはわかるぜ? あの性格だしな。でもなぁ…いつまでもお前がそばにくっついてたら、リオンちゃん、独り立ちできないだろーが』

『…いいんだよ、俺がずっとリオンと一緒にいるから。今までも、これからもね』

『あのなぁ、そんなこと、ずっと続かねーよ。俺も、お前も、リオンちゃんだって大人になって、働いたり、結婚したりするんだぞ。その時になってもずっと離れないつもりか?』

『…』

『そりゃ無理だろ。みんないつかは一人で生きてかなきゃいけない。今の内から考えとかねーと、後々困るぜ? 知ってるか、お前ら他のクラスの連中から、「近親相姦」とか噂されてんだぜ。まぁ俺からしても、カップルみたいに見えるくらいだからなぁ』

『…やっぱり、変なのかな。俺達って』

『…変とは言わねーよ。ただ少し、近すぎじゃねーかとは思う。そろそろお互いに「兄妹離れ」したほうがいいぜ、マジで』

『兄妹、離れ?』

『そ。お前はお前、妹は妹。試しに突き放してみろよ、リオンちゃんのこと。ホラ、ライオンは自分の子供を崖から突き落とすって言うだろ? それだよそれ』

『…先陣の谷?』

『あーまぁそうとも言うな。とにかく、リオンちゃんのことが本当に大切なら、あの子のためにも一回離れてみたほうがいいって』

『…でも、リオンは俺がいないと…』

『だーもう! それがダメなんだっつーの! もう二人とも17だろ? 案外大丈夫だって! 最初は心配だと思うけどな、その内慣れるよ』

『…そうかな』

『そーそー。ってなわけで早速、今週の日曜ヒマだろ? マオちゃん経由で合コンの話来ると思うから、お前も出席決定な♪もちろん、リオンちゃん抜きで』

『まぁたその話?』

『だってしょうがねーだろ、リカちゃん誘ってくれる代わりに、絶対レオンも連れて来いって言われちまったんだからよ! ここは一つ、親友のためだと思って…』

『はいはい却下。第一合コンとか興味ないし』

『そこを何とか! 今回お近づきにならねぇと、マジでもうチャンスないんだって! な、お願いします! なっ!』

『…もー。しょうがないなぁ…今回だけだからな』

『うぉぉさすがレオン! 俺様の心の友! 恩に着るぜ!』

 その次の日曜、約束どおりレオンは一人で来た。こっそり聞いたら、リオンちゃんには俺達と遊びに行ってくる、とだけ言ったらしい。正直に合コンなんて言ったらきっと離してくれないから、とレオンは苦笑していた。その後俺は無事にリカちゃんのアドレスをゲット。でもレオンはやっぱりリオンちゃんが心配だったみたいで、何度も何度も携帯を確認しながら途中で帰ってしまった。内心そうなるのはわかっていたが、それでも一人で留守番させる決心をしただけ俺は偉いと思った。

 なんつーのかな。長男気質、っていうか…もう父親の気分なんだ、この二人といる時は。おせっかいなのかも知れないけど、なんかほっとけなくて。二人が強くなるためなら、なんでもしてやる、いくらでも助けてやるって、そう思ってしまう。よし、ここは俺様に任せろ、一肌脱いでやる…ってな。ウザいだろ、だって俺様だもんな。

 寄りかかったままの姿勢で、レオンは目を閉じた。そして首だけ俺に向ける。

「ライトの言ったこと、案外正しかったのかも。リオンの心を閉じ込めてたのは、俺だったのかもね。気づかなかった。ありがと、ライト」

 そう言って穏やかな笑みを見せた。改めて礼なんて言われると照れる。俺は鼻をすすってそっぽを向いた。

「まぁ、気にすんなって。それより早いとここから出ようぜ! 明日のデートがかかってるんだからな!」

「どうせまたふられるんだろ? もう何度目だよ、合コンで知り合った女の子にアタックして玉砕すんの」

 レオンの眼帯をしていないほうの目が無邪気に瞬いた。

「へへ、うるせーよ!」

 いつものように軽口を叩くレオンに手を振り背を向けて、俺は薄暗い廊下をひとり進んでいった。




 零音は片っ端から部屋を回っていく。先にいた人物に進展を聞き、次の部屋へ。廊下の端の部屋はまだ誰も見ていないらしく、零音はその部屋に飛び込んだ。先程いた広間のような場所と同じく、コンクリートの壁が剥き出しのままだ。長いこと放置されていたのだろう、壁にはところどころひびが入り、埃っぽい匂いが充満していた。他の部屋とここが唯一違うのは、部屋の片隅に一台のソファが置いてある所くらいだろうか。これもずっと使われていなかったようだ、黒い革張りの座面には薄埃が積もっている。汚れてはいるが、仮眠を取るくらいにならどうにか使えそうだ。

 それ以外、ここには特に何もなさそうだった。窓の格子は螺子でしっかりと止められていて、力ずくではどうにもならない。通気口のようなものも一切見当たらず、ましてや抜け穴などがあるはずもない。零音は力なく肩を落とし、部屋を出ようとした。

 と、その時だった。

 耳をつんざくような破裂音が、建物内に響き渡った。零音は一瞬びくりと身体を震わせたが、すぐに廊下へ飛び出していた。探索に出ていた他の人々も、同じように部屋から転がり出てくる。互いに顔を見合わせる。

「リオン!」

 零音は叫ぶと、走り出していた。長い廊下を駆け抜け、広間に飛び込む。しかしそこにリオンの姿はなかった。

「リオン!! リオン!」

 半狂乱になりながら、零音は彼女を探した。零音が最後に彼女を見た部屋の隅には、頼人のパーカーだけが空しく落ちている。零音は広間を出た。

 次の瞬間。

「いやぁぁぁぁぁぁっ!!!」

 甲高い悲鳴が響いた。零音はとっさに声のしたほうへ走っていた。それは広間から少し奥に入った廊下の先から聞こえた。間違いない、莉音の声だ。

「リオン!!!!」

 零音はその部屋に飛び込んだ。最初に目に入ったのは震えながら立ちすくむ莉音の背中だった。零音はその背中を抱きしめる。彼女の肩越しに見えたもの、それは。

「………ライ、ト……?」

 壁に飛び散る赤黒い液体。それは粘り気を帯びたまま下へ向かって線を描いている。その線が途切れる所には、よく見慣れた青の髪。しかしそのシャツは赤く染まり、四肢は力を失ってだらりと下がっていた。

 間もなく、零音を追って全員がその場に集まってきた。立ちすくむ双子を押しのけてその光景を見たそれぞれが、嗚咽と悲鳴を上げる。優慧はその場で嘔吐する始末だ。

 零音がふらりと頼人に近づいた。壁にもたれて座る彼の隣に膝をつき、震える声で言う。

「…ライト…なんで…どうして…」

「殺された…のか…?」

 泰牙が小さく呟いた。舞桜がごくりと唾を飲み込んだ。

「殺された、って…なんなのよ、それ…」

「そのまんまだろ…ライトは、誰かに、殺されたんだよ…!」

 零音の瞳から、とめどなく涙が溢れた。それは傍らに投げ出された頼人の足にぱたぱたと落ち、ボトムに染みを作っていく。人溜まりからは清玲奈のすすり泣く声も聞こえてきた。

 零音は頼人の肩を掴み、激しく揺さぶった。

「ライト…何でだよ…ライトぉ!」

「………ってに…」

 零音が手を止めた。頼人の前髪が揺れた。

「…勝、手に…殺すんじゃ…ねーよ…アホが…」

 掠れた声でそう呟くと、頼人はゆっくりと顔を上げた。口元からは一筋の血が流れ、荒い息を吐いている。絶望に沈んだ顔をしていた泰牙が慌てて駆け寄り、彼の腹にあるであろう傷口を押さえて流れる血液を止めようとする。羽織っていたカーディガンを依理子が差し出すが、頼人は気力で右腕を持ち上げ、それらを制した。

「いいって…汚れる、から…」

「ライト、何があったんだよ?!誰 にやられたんだ!」

 思わず零音の語気が荒くなる。

「誰に……さぁ…わかんねー…黒い、マントみたいな…顔は…暗くて…」

「黒い、マント…?」

「それより、さ…レオン…これからもリオンちゃんのこと、守ってやれよな…」

 頼人は彼の言葉にかぶさるように、微笑を浮かべた。

「昔お前に色々言ったよな…でもさ…結局妹を守ってやれんのは、兄貴しか、いねーから…」

「なん、だよ…こんな時に…」

「こんな時、だから、だよ…いいかレオン…リオンちゃんの手、しっかり…握っててやれよ、な…」

 頼人は苦しそうに一度息を吐くと、虚空を見つめた。

「はは、情けねーな…一肌脱ぐ前に、風穴…空いちまったぜ…」

 その視線の先には立ちすくむ舞桜や清玲奈達の姿があったが、彼の瞳にはもう見えていないようだった。優しい『兄』の目をして、遠くを見ている。

「ああ…そうだ…ヒロト…悪ぃ、お前のプリン、食ったの俺だ…お前が俺のアイス、食ったから…おあいこだな…」

 新たに血を吐きながら、彼は見えない誰かに呟き続ける、

「ユキト…夏休みの宿題、ちゃんと終わらせろよな…どうせ明日、泣きながら手伝ってくれって、言うんだろ…」

 レオン達はその光景を、何も言わずに呆然と眺めているしかなかった。

「ハヤト…この前貸したゲーム、早く返せよな…俺だって、まだやってねーんだから…」

 彼の顔にはただ優しい微笑だけが浮かんでいた。

「それから、アユム…あんまり他の兄ちゃん達に、つっかかるんじゃねーぞ…女の子なんだから…また、泣かされるぞ…っ」

 大きくむせるのと同時に、血の塊が彼の口から溢れ出る。呼吸が少しずつ弱まっていく。それまで穏やかだった表情が一変し、大粒の涙で頬を濡らした。

「…いやだ…怖いよ…っ……死にたく…ねーよ……父ちゃん……母、ちゃん………」

 頼人は何度も『母ちゃん』と繰り返し、最期に細く長く息を吐き出して、そして。

 それまで沈黙を守っていた黎至が彼の元へ歩み寄る。ゆっくりと膝をつき、彼の青白い首筋に指を当てた。皆が黙して見守る中、手を降ろして静かに首を振った。零音と泰牙は親友の躯に覆い被さり、喉が枯れるまで叫びながら泣いていた。




 それからどのくらいの時間が過ぎただろう。

 最初にいた広間に、残された8人の姿があった。それぞれ壁際にもたれたり座ったりしたまま、誰も一言も発しない。衣擦れと互いの息の音だけがこの空間に反響していた。

『ライトが殺された』――その事実は全員の胸に重く圧し掛かった。月明かりに照らされた血の色、急速に失われる体温。瞬きをする刹那、零音は何度もそれを思い出してしまう。目の前で親友が死んだ。あまりにも現実味のない出来事に心が追いついていないのだろうか、どこか悪い夢を見たような感覚が零音の中にあった。

 黎至が部屋に戻ってきた。彼はライトの遺体を一応確認してくると言って先程の場所に行っていたらしい。彼は戻ってくるなりポケットから煙草を取り出し、火をつけて細く煙を吐いた。

「さっきの――真部が亡くなった部屋に、洗面台とトイレがあったよ。試しに使ってみたが、どうやら水道は生きてるらしい。とりあえず脱水の心配はなくなったな」

 そこで洗ってきたのであろうか。水に濡れた両手を白衣の裾でぬぐっている。

「それから、ソファもあったな。ちょっと汚いが、使えそうだった。真部の遺体は別の部屋に移しておいたから、血痕だけ気にしなきゃ大丈夫だろう。誰か、寝る時に使いたい奴いるか?」

 その言葉に泰牙が反応した。鬼の形相で彼へ向かっていく。

 と、それより先に零音が黎至の前に立っていた。

「朽城…先生。どうして…そんなに冷静なんですか。ライトが…殺されたっていうのに…っ」

 見ると、握り締めた零音の拳は小刻みに震えていた。

「先生は、何とも思わないんですか…?! 人が、死んだんですよ、ここで! 俺の…俺の友達が、殺されたんだ!!」

 整った顔を涙でぐしゃぐしゃにし、零音は黎至に詰め寄っていく。初めて見る零音の激しい怒りに驚きを覚えながらも、泰牙は彼の腕を掴んで制した。しかし黎至は相変わらず怠惰そうな様子で、煙草をくゆらせるだけだ。

 彼らのやり取りを部屋の端から眺めていた舞桜が、手に持った携帯電話を弄びながら嘲笑を漏らした。

「ちょっとー、ケンカなら外でやってくんない? マジ暑苦しいんですけど」

 全員が振り返る。舞桜はちらりとそれぞれの顔を一瞥し、また携帯の画面に目を落とした。

「それよりさぁ、早く食べ物探しに行かない? あたしもう限界、お腹空きすぎて死んじゃう」

「テメェ…ふざけんじゃねぇぞ!」

 彼女に掴みかかったのは泰牙だった。舞桜の右手に握られた白い携帯を叩き落し、強く肩を掴む。それでも舞桜は彼を睨み付け、手を振り解くと床に転がった電話を拾い上げた。その悪びれもしない態度に泰牙の怒りは更に増し、掴みあげた彼女の肩を壁に押し付ける。

「やめなさい、初見君!」

 見かねた清玲奈が声を張り上げた。

「笹倉さんも、そういう言い方はよくないわ。人が一人、亡くなったんだから…」

 清玲奈は自分の腕を掻き抱いた。気を削がれたのか、泰牙は舞桜に向けていた腕を引っ込める。彼女を睨んで短く舌打ちすると、依理子の元へ戻っていった。舞桜は清玲奈に気の抜けた返事だけ返し、またしゃがんで携帯をいじっている。清玲奈は溜息を漏らした。

 一方で、零音も黎至に食って掛かるのを止めた。部屋の隅でうずくまる莉音と肩を並べて座る。莉音の手元には、頼人が彼女に渡した派手なパーカーがあった。それが目に入ったとたん、再び零音の瞳に涙が滲んだ。

「それ…真部君の、よね?」

 いつの間にか零音の隣に、清玲奈がしゃがんでいた。慌てて零音は眦をこする。清玲奈は彼の隣に腰掛けて壁によりかかると、眼鏡を外した。

「明るくて…誰とも仲が良くて。クラスの中心的な存在だったわね、真部君…先生も彼にはたくさん思い出をもらったわ」

 微笑みながら宙を見上げる清玲奈の目にも、うっすらと光るものが浮かんでいた。その水滴は次第に大きくなり、はらはらと彼女の薄く化粧された頬を伝わっていく。

「木林先生…」

「ふふ。ダメね、生徒の前で泣いたりなんかして。真部君にしかられちゃうわ」

 それでも彼女の涙は止めどなくこぼれ続ける。零音はそっと、自分のシャツの袖口で彼女の頬を拭いた。その隣、莉音はパーカーを握り締めて、兄の手をじっと見ていた。

 と、勢いよく清玲奈が立ち上がった。手に持った眼鏡をかけ直し、顔を上げた。

「さぁ、もう一度、よく探索してみましょう! 気分の悪い子はここに残って、ただし絶対に一人にはならないこと! 先生は真部君が探してた部屋のあたりを見てくるから、何かあったらそこにきて頂戴ね」

 担任の口調に戻り、てきぱきと指示を出して颯爽と広間を出て行った。




 広間にはまだ体調のすぐれない莉音と、依理子が残ることになった。その他の者達は再び廊下を辿り、個室へと散開していく。零音は最初に探索をした部屋に戻ったが、やはりこれといって新たな収穫はなかった。

 ふと、彼の脳裏を清玲奈の姿がよぎった。さっき強がって立ち上がった清玲奈の膝は、微かに震えていた。彼女の足元に座っていた零音だけが気づいただろう。何かを押し殺したような清玲奈の視線が、零音の脳裏から離れなかった。彼は部屋の捜索を止めると、その足で清玲奈の向かった先へ歩いた。

 木林清玲奈――彼女は俗に言う『良い先生』をそのまま体現したような教師だ。零音達の通う学校に赴任してからさほど年数は経っていないが、生徒達からの信頼も厚い。教師と生徒のコミュニケーションを第一に考えていて、行事や催し物は積極的に参加している。成績、家庭、学校での悩み、どんなことでも相談に乗ってくれる。彼女の周りにはいつも生徒達が群がり、笑顔に溢れていた。

 零音は暗い廊下を手探りで進んだ。角を曲がると、開け放たれた一つの部屋から月明かりが漏れていた。そこは先刻、彼の親友が息を引き取ったあの部屋だった。

 そっと、入り口から身を滑り込ませる。やはりそこには清玲奈の姿があった。頼人の亡骸はなく、彼が座っていた場所には赤茶色に変色しかけた血の跡だけが残されていた。

 清玲奈はその血痕がついた壁際にへたり込み、ただ呆然と壁を見つめながら泣いていた。

「…先生…」

 零音が入ってきたことには気づいていなかったらしく、彼が声をかけると肩を強張らせて振り返った。幾筋もの涙の線で、彼女の化粧はぼろぼろに崩れていた。

「レオン君…どう、何か見つかった?」

 それでも気丈に涙を拭い去り、立ち上がって零音に笑顔を向ける。零音は歩み寄り、どう言葉をかけていいか迷いながら視線を彷徨わせていた。そんな彼の姿に微笑を漏らし、清玲奈は壁に向き直った。

「…真部君、きっと痛かったでしょうね……」

 ぽつりと呟く。

「一人ぼっちで、寂しくて、とっても怖かったでしょうね、きっと…」

 彼女は壁に染み付いた赤い部分に、指を這わせた。

「先生…守ってあげられなくて、ごめんね…」

 そして頼人がいた所に蹲り、膝を抱え声を震わせて泣いた。


「先生ね。今の学校に来るちょっと前、教師を辞めようと思ってたのよ」

 二人は黒いソファに並んで腰掛け、窓から微かに見える街の灯りを眺めていた。

「前にいた学校でいろいろあってね…先生、自信なくしちゃったの」

「いろいろ、って…」

 ぽつり、ぽつりと言葉を紡ぐ清玲奈。零音はぼんやりと視線を窓の外から彼女に移し、尋ねた。彼女は自重するようにふふ、と苦笑する。

「…知ってる? 教師ってね、意外と子供みたいなものなのよ。あなた達から見たら大人だし、先生って立場だからきっとわからないでしょうけど。実際学校にいる先生同士の関係も、生徒と同じ」

 彼女は淡いピンクのネイルが塗られた指先を膝の上で組んだ。

「うわべ、社交辞令、蹴落とし合い。そんな毎日なのよ、教師の日常も。いじめなんてよくある話。先生ね…前の学校で、ある先生にいじめられてたの」

 意外な彼女の言葉に、零音は目を丸くした。清玲奈も彼を見、視線がぶつかる。まじまじと見つめられて、零音は視線をそらした。

「いじめって…嫌がらせ、とか?」

 零音はもじもじと指を弄びながら、問うた。

「ううん、そんなもんじゃなかったわ。嫌がらせなんてまだ可愛いものよ。本質は子供同士のいじめと変わらないけど、相手は社会に出ている大人。だから絶対に自分が疑われないように、追い詰めてくるの…」

 そう言って外を見た清玲奈の脳裏に、あの地獄の日々が蘇る。ちらりと彼女の顔を伺った零音は彼女の瞳に深い悲しみを垣間見て、黙ってそのまま見つめ続けた。

「生徒達にね、色々仕掛けるの。生徒が私を嫌いになるように、あることないこと吹き込んで、ね。その手口が巧妙で、誰もその先生を疑わなかった。むしろ、全部の矛先は私。噂って怖いのよ、あっという間に生徒から教師陣にまで広まって、気づいたら学校のどこにも私の居場所はなくなってた」

「言わなかったんですか、本当のこと。だって先生、気づいてたんでしょ? その先生が、悪いって…」

「うん、もちろん知ってたわ。でも言わなかった。言ってもどうにかなる問題じゃないって諦めちゃったのね。結局私はそのままなし崩し的に、その学校を離れた」

 空を覆っていた雲が少しだけ晴れ、細い三日月が垣間見えた。

「その後は、ずっと家で臥せってたわ。『学校』が怖くなってしまった。何度か採用試験も受けに行ったわ。けれど…面接で新しい学校に行った時、足が震えてそこに入れなかったの。そのまま面接を放り出して、逃げ帰ってから一人で泣いたわ」

 零音は黙り込んでしまった。学校で見る清玲奈は誰からも慕われるような教師で、まさか彼女の過去にこんな一面があったとは思いもしなかったからだ。

 彼女は少し間をおき、また続けた。

「もう教師になるのは辞めようって、思ってた矢先…手紙が届いたの。例の学校の生徒から」

「…手紙?」

「そう。その子が一年生の時に私が担任だった。その子はね、学校に入ってすぐ、不登校になってしまった女の子」

「不登校…」

「中学生の時からいじめられてたんですって。地元の公立高校だから、同じ中学から上がってくる子がほとんどで…その子と、その子をいじめていた子。同じクラスになっちゃって」

 清玲奈がゆっくりと話す内容に、零音は胸が痛くなった。似ていたのだ、彼女の話に出てきたその子が。

「彼女は、入学式の次の日から学校に来なかった」

 思わず彼は目を瞑った。蘇る嫌な記憶。遠巻きにこちらを見る奇異の目。陰口。

「先生ね、彼女の家に何度も行ったわ。だって、わからなかったんだもの、理由が。元々学校自体もそういうのを見て見ぬフリしてたから。でも気になって、やっと本人から聞いたわ。でもその内、私がそれどころじゃなくなって…彼女が登校してる姿、見れないままだった」

 零音は脳内で再生される映像を断ち切るように、目を開いた。

「その子からね、手紙で言われたの。『あの時先生に話せなかったら、私は今頃自殺していたと思う。先生がいてくれて良かった』って。それでね…なんだか救われたの。ああ、私はちゃんと『先生』だった、ってね」

 清玲奈は勢いをつけてソファから降りた。月明かりに照らされ、部屋に長く影が伸びる。零音に振り向いた彼女の顔は逆光でよく見えなかったが、晴れやかだった。

「それで、今の学校に来たのよ。もう、やんちゃな子ばっかりで毎日大変! 例えば、真部君みたいな…ね。って私、生徒に何話してるのかしら」

 彼女は小さく笑って零音の頭を撫ぜた。顔を近づけ、少しだけ真面目な面持ちで、彼に言った。

「ねぇレオン君。悩み事があるなら、何でも先生に言って頂戴ね? あなただけじゃないわ、妹の…リオンさんも。先生は、あなた達を見捨てたりしないから」

 零音はその目を真っ直ぐ見据えたまま、頷いた。そして笑いかけた。清玲奈は安心したように彼の髪を梳き、彼を立たせる。

「さぁて、早くこんなとこから帰りましょうか! 夏休みもあと2日、あなた達、まだ宿題終わってないでしょうから。特に君と初見君は、ね」

 いつもの調子に戻った清玲奈に笑みを向け、零音はここで少し休むという彼女を置いて、部屋を後にした。扉を抜け、小走りで廊下を進む。


 彼の進んだ先、その反対側の廊下の影で、闇が揺れた。

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