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ゼロの狂詩曲  作者: 似櫂 羽鳥
2/8

6.前奏曲 ―Overture―

 7月20日。冬用の暖房しかない教室は噎せ返るような暑さで、全開になった窓からはぬるい風が流れ込んでいた。着席する生徒達は皆下敷きやノートを手に、忙しく顔面を仰いでいる。炎天下の校庭で終業式を終えたばかりの少年少女は明日から始まる長い休みに浮き足立ち、仲の良い友人同士で机を囲んで談笑に花を咲かせていた。担任である女教師が教室へ入ってきても、彼らのおしゃべりが止む気配はない。

 教師は手に抱えた紙の束をどさり、と教卓に置き、声を張り上げた。

「えーと、それじゃあ名前を呼ばれたら前に来てね。みんなお待ちかね、通知表のお時間よ」

 先ほどまでの楽しげなざわつきが一転、教室は溜息と絶望の喚声に包まれた。学生達の素直な反応に教師は苦笑し、通知表の名前を順番に読み上げていく。呼ばれた生徒は彼女からそれを受け取り、友人達に隠れるようにして中を確認する。予想以上の成績に安堵の表情を浮かべる者、落胆して机に突っ伏す者、反応は様々だ。

 教卓の通知表がなくなっても、教室内のざわめきは収まらない。教師は二回手を叩き、一段と大きな声で彼らに呼びかけた。

「明日から夏休みだけど、みんな羽目を外しすぎないようにね。遊びすぎて宿題忘れたら承知しないわよ?」

 はーい、と気の抜けた返事が所々から返り、教師はまたも苦笑を浮かべる。

「じゃあこれで一学期終わり! みんな気をつけて帰るのよ!」

 一際大きな歓声が上がり、生徒達は席を立った。早くも遊びの予定を立てている女子達が真っ先に教室を出て行く。

 そんな光景を眺めながらゆっくりと帰り仕度を始める一人の少年。透けるような銀髪が特徴的だ。右目を医療用の眼帯で覆い隠している。彼は御影零音(みかげ れおん)。成績は中の下、友達もそこそこ多く、いたって普通の高校生といえるだろう。

 彼の背後から、首にヘッドフォンを掛けた少年が忍び寄ってきた。

「レオン、成績どうだった? 俺様ヤバいかも、数学赤点ギリ!」

 と言いながら零音の肩に手を回す。人懐っこい笑みを浮かべる彼は真部頼人(まなべ らいと)、零音とは高校一年の頃からの親友だ。先程の口ぶり通り勉強は苦手だが、明るく楽天的な性格から人望は厚い。

 零音は少し意地悪い笑みを頼人に向け、通知表を彼の目の前に広げて見せた。

「じゃーん。なんと俺、今回は2以下がありませんでしたー」

「うぉ、すげぇ! なんだよー、お前ちゃっかり勉強してたのかよ!」

「そりゃあね。もう2年だし、そろそろ真面目にやっとかないと」

 頼人が彼の通知表をひったくり、自分のものと見比べてがっくりとうなだれる。1年の頃は二人で毎回赤点の数を競っていたのだが、今回は頼人の完敗に終わったようだ。

 零音は彼に奪われた通知表を取り返し、カバンにしまいながら言う。

「あ、ライト、これから暇? ちょっと寄りたい店あるんだけど」

「ああ、余裕で暇だぜ!」

「オッケー、ちょっと待ってて」

 親指を立てて右手を突き出す頼人に笑いかけ、彼は席を立った。教室の端、窓際最後の列の席へ真っ直ぐ歩いていく。

 そこには、彼と同じ髪の色をした女子生徒がうつむいたまま座っていた。零音は彼女の頭にそっと手を置き、小さな声で呼びかける。

「お待たせ。行こう、リオン」

 彼の声に反応し、莉音(りおん)と呼ばれた少女が顔を上げた。やや幼いが整った顔立ちをしていて、その肌は病的なまでに白い。長い銀髪を頭の片側に束ね、少し伸びすぎた前髪が左目を覆い隠している。その容姿からも解るように、零音と莉音は双子の兄妹だ。

 莉音は彼の声に答えるように、笑みを返した。二人は手を繋ぎ、教室の出口で待つ頼人の元へ歩いていく。どうやら、気づけば教室に残っていたのは彼らだけだったようだ。

 2年の教室棟は校舎の2階にある。1年は1階、3年は3階、そして最上階は音楽室や美術室といった実技教科の教室。校舎の真ん中に設置された吹き抜けの中庭は昼休みのお弁当スポットとして人気が高い。

 彼らは螺旋状に折り重なった階段を下り、談笑しながら玄関へと向かった。主に話しているのは零音と頼人で、莉音は手を引かれながら二人の後ろを歩いているだけだったが。

 と、頼人が下駄箱にある人影を見つけた。大きく手を振りながら呼びかける。

「お、タイガー! これからレオン達と買い物行くんだけど、お前も来るかー?」

 靴を履き替えていた男子生徒は手を止め、こちらを見た。短く切り揃えられた金髪に、鋭い双眸。彼は3人の姿を確認すると、目の前でぱちんと両手を合わせた。

「悪い、これから部活。夏の大会あるから抜けられないんだ」

 初見泰牙(はつみ たいが)はバスケ部に所属している。2年になってレギュラーメンバーに昇格し、今まで以上に部活に打ち込んでいるスポーツ少年だ。ちなみに零音、莉音、頼人の三人は帰宅部。

「夏休み中なら空いてる日あるから、遊ぶ時は連絡くれよ!」

 そう言い残し、泰牙は大きなスポーツバッグを抱えて校舎を出て行った。




 焼け付くような日差しに照らされたアスファルトから陽炎が立ち上り、街路樹にとまった蝉達が耳障りな合唱を奏でている。どこの学校も今日が終業式なのだろう、繁華街へ続く通りには制服姿の子供達が溢れていた。

 零音達もその中に混じり、片手に途中のコンビニで買ったアイスを持って歩いていた。

「あーあっついなぁ!! こんな日は可愛い女の子とプールとか海とか行きたくなるね!」

 溶けてきたアイスキャンディーを齧り、頼人が言う。零音も同じくアイスを一口頬張ると、苦笑しながら答えた。

「わかるけどさ、そろそろ受験の準備だよなー。先輩も、『2年の夏からやっといたほうが楽』って言ってたし」

「うぉぉやめろぉぉ! 俺に現実を見せないでくれぇ!」

 頼人は大げさに頭を抱えた。

「でもまぁ…マジでやらなきゃなんだよな、そろそろ。進路とか何にも考えてねーけど」

「そうそう。今から大学とか就職とか言われても、全然実感沸かないよね」

 と、頼人は相変わらず零音に手を引かれて静かについて来るだけの莉音に振り返った。

「リオンちゃんは? もう進路とか考えてる系?」

 しかし莉音は黙ったまま、うつむいて顔も合わせない。気まずい沈黙が流れ、諦めたように頼人は前を向き直った。

「あーあ、お姫様は今日もご機嫌斜めですか」

 頼人から顔を背けるようにして歩く莉音。零音はそれを見て頼人に「ごめんね」と小さく言う。

「いいっていいって、気にしてねーし! リオンちゃんが喋ってくれないのはいつもの事だしな! ま、俺様としては仲良くなりたいんだけどねぇ」

 頼人と双子が知り合ってからもう1年が経つが、未だに莉音は頼人とほとんど言葉を交わしていない。元々内気で人見知りをする彼女は、兄以外の人物とほとんど交流がないのだ。最初の内はクラスメートの女子から話しかけられたりしていたのだが、莉音はそれにもほとんど返事を返せなかった。いつしか彼女に話しかける者はいなくなり、クラスでも少し浮いた存在になってしまっていた。零音が同じクラスでなかったら、今頃彼女は不登校にでもなっていたかもしれない。

 零音と頼人が丁度アイスを食べ終わった頃、目的の店が見えてきた。何の変哲もない寂れた雑貨屋だ。しかし今日は妙に人が多い。どうやら近隣の学校のほとんどが今日で休みに入るのだろう、見慣れない制服を着た女子生徒たちが集団で店に入っていた。

 零音はそれを見、小さく溜め息をこぼして言う。

「あーあ、これじゃゆっくり見れないな…」

 人の多い場所を嫌う莉音を気にしているのだろう。傍らの莉音は兄の後ろに隠れるようにして人目を避けている。

 残念そうな表情を浮かべる零音。頼人が彼の首に腕を回し、頭を2、3回叩いて言う。

「まぁ明日から休みだし、また次回、ってことで」

「仕方ないね、そうしよう」

 零音も諦めたように首を振り、踵を返した。もと来た道を戻り、くだらない話に花を咲かせながら繁華街から離れていく。学校からの帰り道に差し掛かると、最初の十字路の前で頼人が立ち止まった。

「じゃー俺帰るわ。暇な時連絡くれよな! あと宿題のコピーよろしく♪」

「まーたそうやって俺に頼る! ま、期待はしないでよ」

「充分助かりますって! そんじゃまたな!」

 大きく手を振り、彼は十字路を右に曲がっていった。その姿が見えなくなるまで、零音は彼を見送った。頼人が完全に視界からいなくなると、双子は手を取り合ったまま、頼人と反対方向へ歩いていく。

 背中に刺さる夏の太陽が二人の影を作る。

 少し歩いた頃、莉音が今日初めてその口を開いた。

「…ごめんなさい、お兄様。また私、彼に失礼な態度を取ってしまったわ」

 か細く弱弱しい声。隣にいる零音にしか聞こえないような音量で彼女は言った。

 零音は優しい笑みを浮かべて彼女を見た。しかしそれは先程親友に向けられていた明るいだけの笑顔とは違い、どこか影を帯びた表情だった。

「いいんだよ、リオン。友達なんか作らなくてもいいさ、僕がずっとリオンの傍にいるから」

 うつむいたままだった莉音が顔を上げた。零音を見るその眼差しはまるで恋をしている乙女のように歓びを湛えていた。莉音は兄の手をしっかりと握り、兄もまた妹の掌をぎゅっと握り返した。

 見慣れた帰り道。この道を再び歩くのは、おそらく1ヶ月半も先のことだろう。零音は額に滲んだ汗を片手で拭うと、囁くように莉音へ言う。

「明日から夏休み。誰にも邪魔されず、ずっと二人でいられるね」

「そうね。私、とっても嬉しいわ…お兄様」

「僕もだよ、リオン」

 二人は顔を見合わせて微笑み、繋いだ手を再びしっかりと握り締めて歩いていった。


「ただいま」

 誰もいない部屋に、二人同時に挨拶する。広いマンションの一室。ここが彼らの城だ。二人は鞄を適当に置くと、思い思いに自分の時間をすごす。三人掛けの大きなソファに莉音は腰掛け、分厚い文学書を開いた。ページを繰る音が静かに響く。零音はその横に座り、先程ポストから持ってきた郵便物を一枚ずつ確認していく。とはいっても、その殆どはくだらないダイレクトメールとチラシばかりだ。一瞥し、丸めてゴミ箱へ放り込む。

 と、その中に見慣れないものが混じっていた。

「何だろ…これ」

 零音がそれを摘み上げる。莉音も気になったのか、本から目を上げた。零音の手にあるのは真っ白な封筒が一枚。宛名も住所も差出人の名前も記されていない。それどころか封すらされていない。零音はそれを裏表と返して見、怪訝な顔をする。

「何も書いてない…誰からだろう」

「新手のダイレクトメールじゃない? ほら、そうなっていれば中身が解らないから、必然的に封を切るでしょう? 必死で宣伝したいのね、きっと」

 莉音はふふ、と小さく笑い、再び本に目を落とした。

「なるほど。じゃあその必死さに乗せられてみますか」

 零音も笑いながら、中身を取り出す。二つ折りの綺麗な厚紙が滑り出てきた。それにもまた、特徴は無い。ただの真っ黒だ。おもむろに彼はそれを開いた。


【御影零音様 莉音様 Welcome to "Rhapsody of Zero"

 皆様、過ぎ去る夏を如何お過ごしでしょうか。

 貴方は狂詩曲の演者に選ばれた大変幸福な存在です。

 夏休み最後のひと時を、特別な皆様同士でお楽しみ下さい。

 どうか皆様が『ゼロ』に導かれますことを、心よりお祈りしております。】


 ワープロで印刷されたそっけない金色の文字で、そう綴られていた。予想していた物と違う内容に、零音が困惑の声を上げる。

「何…これ…」

 兄の動揺が伝わったのか、莉音がそれを覗き込んだ。本を置き、食い入るように文面を見入る。暫く逡巡した後、零音の腕にすがりながら呟く。

「…気持ち悪い、何かの悪戯かしら…」

「わからない。差出人の名前もないし、きっとそうだと思うけど」

 怯える莉音を宥めるように手を握り、零音は手紙を机に放る。と、彼のポケットから無機質な着信音が鳴り響いた。その音にびくり、と驚く莉音。零音は手紙をちらりと見た。警戒しながら、それを取り出す。そしてすぐに安堵のため息を漏らした。画面には『ライト』と表示が出ていた。莉音の頭を撫で、彼は通話のボタンを押した。

「もしもし」

『もしもしレオンか? 俺俺、ライト』

「知ってる」

『なぁなぁ、俺んちのポストに、変な手紙が入ってたんだけど』

 意外な頼人の言葉に、零音は眉根を寄せた。

「手紙…って、もしかして何も書いてない真っ白い封筒で、中に招待状が入ってる?」

『そうそう…って。何で知ってんだよ!』

 零音は机に放った手紙をもう一度手に取った。きっと頼人も今、同じものを手にしているのだろう。

「それさ…俺の所にも来たよ。ご丁寧に俺とリオンの名前が書いてあった」

『おい、マジかよ! でさ、これ、何だと思う?』

 莉音が服の裾をきゅっと握った。彼は微笑みかけ、莉音を抱き寄せた。

「わかんないけど…悪戯じゃないかな? だって誰が出したのかもわかんないし、そもそも意味がわかんない」

『だよなぁ…サッパリわかんねー。さっきタイガにも電話したんだけど、なんかタイガのとこにも同じの届いてるっぽいんだよ』

「え、マジ?」

『マジマジ。タイガは、「タチの悪い悪戯だ」ってキレてるみたいだけどさ』

 零音は返事を返しながら、手紙を隅々まで確認した。先程の文面の下に、同じワープロの楷書体で続きが記されている。


【演目『ゼロの狂詩曲』

 八月三十日、○○市郊外の某所にて。

 同日の夜、お迎えに上がります。】


 それだけだった。裏面にも何も書かれていない。と、頼人が言葉を続けた。

『で、どうする?』

 その言葉じりに多少の好奇心を感じ取り、零音は呆れた笑いを漏らした。

「どうするって…無視するに決まってるじゃん。気味悪いし」

『でもよ、ちょっと面白そうじゃね?』

「はいはい。俺は遠慮する」

『何だよつれねーなぁ。まぁいいや、とりあえず俺も放置してみるわ』

 短い挨拶の後、通話は終わった。内容が横で聞こえていたのだろう、莉音が不安そうに零音を見上げた。零音は苦笑し、彼女の額に自分の額を合わせる。

「大丈夫、ただの悪戯だよ。こんなのもう忘れよう」

 言い聞かせるように彼は言うと、手紙を丸めて投げ捨てた。莉音が落ち着いたのを見て零音は立ち上がり、夕飯の仕度に取り掛かった。冷蔵庫の中身を確認する。今日の献立は莉音の好きなオムライスだ。

 鼻歌交じりに調理を始める零音の後ろで、ソファに座ったままの莉音が机に放置された手紙をぼんやりと見つめていた。




 学生の夏休みは長い。双子は毎日何をするわけでもなく、二人だけの日々を満喫していた。零音は時々友人と外へ出かけるが、莉音は全く家を出ずに過ごしていた。

 たまに零音が出かけた日は、落ち着かないようにそわそわと帰りを待つ妹の姿があった。零音が帰ってくると待ち侘びたように玄関で出迎える。並んでソファに座り、零音の話を楽しそうに聞いている。

「そうだ。今日はリオンに、お土産があるんだった」

「お土産?」

「そう。終業式の日に店まで行ったけど入れなかっただろう? あの時買おうと思ってたものがやっと手に入ったから」

 そう言って零音はポケットから小さな包みを取り出した。花柄の可愛らしいそれを、莉音の掌に乗せる。

「開けてごらん」

 莉音はいそいそとテープをはがし、中身を取り出した。小さなチャームのついたイヤリングだ。

「可愛い…」

「リオンに似合うと思って、ずっと狙ってたんだ。付けてみてよ」

 莉音は髪をかき上げると、右の耳朶にイヤリングをつけた。それを見て零音は満足したように微笑む。

「うん、とっても似合うよ」

「嬉しい。ありがとう、お兄様」

「ほら、見て」

 零音は左の耳にかかった髪を上げた。その左耳には、莉音が付けている物と同じイヤリングが留まっていた。

「お揃いだよ。僕とリオンは、ずっと一緒だ」

「お兄様…嬉しいわ、とっても…」

 二人は顔を見合わせて笑った。


「お兄様、そういえばこの前の手紙、どうしたの?」

 ある暑い夜、唐突に莉音が口を開いた。エアコンが苦手な莉音を気遣って、窓を開けて風を入れるだけでこの熱帯夜を凌いでいる。だが外から吹き込んでくる風は生暖かく、ソファでくつろぐ零音の首筋を汗が伝っていた。

 彼は眼鏡を外し、床に寝転んでいる莉音に目を向けた。

「ああ、あれね…捨てたよ、気持ち悪いし」

「そう…確か、あれに書いてあった日って明日じゃない?」

 莉音は本に目を落としたまま彼に言った。零音は宙を仰ぎ、ああ、と小さく声を漏らした。

「そういえばそうだったかな…あんまり覚えてないや」

「ふうん…まぁいいわ。どうせ悪戯でしょうしね」

 今日は8月29日。長かった夏休みもあと二日で終わりを迎える。

「やば、宿題残ってる…」

「手伝うわ、お兄様」

 二人は机にノートを広げた。ぬるい風がカーテンを揺らし、二人の髪を撫でた。




 8月30日。宿題に追われる零音に、一息入れようと莉音が紅茶を入れていたときだった。

「あれ、誰からだろう?」

 零音が傍らに置いた携帯を手に取った。うるさく着信音を鳴らし続ける電話の液晶には、『非通知』の文字が並んでいる。

「…もしもし」

 零音は訝しげに電話に出る。莉音も手を止め、彼の傍らに座った。

「もしもし? 誰ですか?」

 電話の向こうからは返事は返ってこない。うっすらとノイズのように喧騒が聞こえるだけだ。しばしの後、ぷつりとそれは切れた。零音は首を傾げると、通話を切った。その隣に莉音が寄り添い、心配そうな声を上げる。

「…誰? 今の…」

「わからない。非通知だったし、無言で切られた」

「気味が悪いわ…」

 そう呟いた莉音は、かき抱くように自らの肩をさすった。

「大丈夫。ただの悪戯さ…そろそろ休憩しようか」

 零音はかぶりを振って立ち上がり、キッチンの戸棚を漁った。しかしそこは空っぽで、零音の掌は棚板をさすっただけだった。

「しまった、買い置きのお菓子、切らしてたみたいだ…」

「何か、買ってくる?」

 莉音が腰を浮かす。それを制し、零音は無造作に置いた財布をポケットにねじ込んだ。

「いいよ、僕が行ってくる。すぐ戻るから、少し待ってて」

 そう言って彼は莉音の頭を撫で、玄関を出た。彼らの住むマンションの一階はコンビニになっている。利便性もあったが、何より一人で遠出することを極端に恐れる莉音への配慮が大きかった。この距離ならば彼女一人で買い物に行けるし、今のように零音が買い物に行く場合でも彼女が一人きりになる時間が少なくて済むからだ。

 零音はエレベーターのボタンを押した。間もなく到着したそれに乗り込み、一階へ。手早く商品をかごに入れ、会計を済ませる。お菓子の詰まったビニールを片手に、再びエレベーターを待つ。

 少し経って、鉄の扉がゆっくりと開いた。出てきたサラリーマン風の男が会釈をし、零音もそれに返す。扉が閉まる。遮断された空気は異常なまでに蒸し暑い。

 八階に着いた。やや小走りで彼は莉音の待つ家に駆け込む。

「ただいま、リオン。適当に選んで…」

 リビングに入った所で、彼の言葉が止まった。数分前と同じ景色。書きかけのノート、風に揺れるカーテン、ケトルから立ち上る蒸気。しかし一つ、欠けているものがあった。


 莉音が、いない。


 彼はビニールをその場に取り落とすと、妹の名を呼びながら風呂場へ駆け込んだ。洗面所は暗い。手洗いの電気も消えている。

「リオン? どこにいるの?」

 今度は彼らの寝室に入る。しかしそこも真っ暗で、人のいる気配はない。零音の背中を、嫌な汗が伝った。

「リオン? リオン!」

 彼は半ば叫ぶように呼びかけながら、家中を回る。和室、物置、クローゼット、ベランダ。ところが莉音の姿はどこにも見当たらなかった。

 もしかしたら、自分を追って外に出たのだろうか。店の中で入れ違いになったのかもしれない。そうだ、きっとそうだ。零音は自分に言い聞かせるように胸で反芻すると、廊下に飛び出した。ドアノブに手をかける。

 刹那、家中の電気が消えた。

「?!」

 不意に視界を奪われた零音は音にならない声を上げ、その場に立ち竦んだ。


 そこからの記憶は酷く不明瞭だ。

 彼の背後で影が揺れた。

 振り向く。口元に布の様な物が押し当てられる。

 嫌な匂いがする。

 意識が遠のく。


 暗転。

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