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想像する後悔  作者: haru
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 智也は、新宿駅駅ビルの2階、スペイン料理店の前で典子を待っていた。約束の20時までには後5分ある。智也はもう一度携帯電話を取り出し、メールの内容を確認する。

 『ちょっと相談したいことがあるんだけど、今日時間作れない?』という簡単なもの。それに、『じゃあ、新宿の「シエスタ・デマシアーダ」前に20時でどうですか』、という返信をしたのである。彼女からの簡単な連絡の文面を見ていると、前の連絡から1ヵ月は空いているのだから、もう少し何かあっても良いのでは、と智也は思う。思いながら、自分には彼女にそんなことを望む資格がなかった、と思い直す。

 「ありがとう。待った?」

 声のする方に振り返る。典子である。堅い取引先とでも会ったのか、紺のスーツにスカート、という格好に、手にコートとマフラーを持っている。智也は、いや、と小さく言うと、結婚していた時のように彼女の手にしていた荷物を持とうとしたが、典子は自分の荷物を手放さなかった。智也は思い直したように彼女の荷物から手を放し、店へと入った。

 店員に案内されるまま、窓際の席についた。結婚生活を送っていた時に、何度かこの店に2人は訪れていた。その時の習慣で、智也は典子に夜景の見える側の席を譲ろうとしたが、「最近夜景は嫌い」との彼女の言葉に、智也が夜景の見える側の席についた。

 少しウェーブのかかった長い黒髪、切れ長の少し細い目、少し高い鼻、小さな唇。智也は彼女の顔を眺めながら、こんな顔だったかな、と記憶にある典子の顔と照合する。智也と典子が離婚したのは半年程前のことであるが、智也は離婚後に典子に会う度に、ある種の違和感を覚えていた。知っているものがどんどん知らないものになってしまう、そんな感覚を覚えていたのである。

 「水子供養の件なんだけど。1年経つからさ…」

 典子にそう切り出され、やはりそれか、と思うと共に、どうしようもなく暗い気持ちに自分が沈んでいくのが分かる。

 典子が流産したのは、ちょうど1年前の2月3日の事だった。その日の夜、妊娠5か月の典子を、それまで彼女が感じたことのない鈍痛が襲ったのである。しかしどうしても我慢できない程の痛みではなかったため、典子はソファーにうずくまり、救急車を呼ぼうかどうしようかを思案していた。そこに智也が帰ってきた。智也は典子の様子がおかしいとは思ったが、彼女の「大丈夫」の言葉を額面通りに受け取ってしまった。更にその日は、彼自身の昇進祝いで会社の同僚と酒を飲んだ日であり、智也も気が大きくなっていたのである。ソファーの上でうっすら脂汗を浮かべる彼女を尻目に、智也は缶ビールで一人祝杯の続きを挙げていた。挙句、うずくまる彼女の腹を押して、気楽に「大丈夫」などと声を掛けていた。結局、典子は自分で救急車を呼び、その結果の流産であった。

 その後、智也は素面に戻った後、一通りの謝罪と励ましを典子に贈り、それらは典子に受け取られた。それから数日は『それまでと同じ』生活を送った。会社の愚痴を智也が零せば、典子が笑う。典子が海外旅行を智也にせがめば、智也がそれを苦笑でもって黙殺する。それらはそれまでの夫婦の間で4年間普通に行われてきたことである。しかしそれらは全て、智也自身には滑稽に映った。大切にしていたものが崩れていくのをただ眺めているような感覚。それが自分の責任であり、自分には止める権利がないことを知る感覚。智也はその感覚から逃げ出すように離婚を切り出した。典子もすんなりとそれに応じ、特に争う事もない、スムーズな形での離婚となった。

 「今年もあのお寺…円満院だったっけ?に連絡してお経上げてもらおう?」

 典子のその提案を、智也は受け入れることしか出来なかった。日時は2週間後の2月8日。それが決まると、典子は早々に席を立った。席を見ると、マフラーが忘れられている。それを手に取ると、智也も慌てて後を追った。

 「おい、忘れ物。久しぶりに会ったのに…」

 典子に追いついた智也はそう言った。

 「久しぶりだと、何?…そのマフラー、要らないからあげる。」

 毅然と言い放つ彼女に、二の句が継げない。智也には、新宿駅の雑踏に飲み込まれていく典子の背中を見送ることしか出来なかったのである。

 智也は部屋に戻ると、荷物を投げ出して万年床の布団に倒れ込む。しばらくして、典子から渡されたマフラーを何となく眺めてみる。何という事もない灰色のマフラー。その端に、紫色のイミテーションの宝石があしらわれていることに気付いた。

 「…ラスティも同じような色のピアスを付けてたなぁ…」

 そう独り言を言うと、智也の意識はまどろみへと飲み込まれて行った。

智也が目を覚ますと、件の闘技場控室だった。取り敢えず襲撃に備えながらラスティを探す。しかし。

 「脇が甘いぞ!」

 両足を揃えた見事なドロップキックを左側から喰らい、吹き飛ばされる智也。立ち上がり、改めてラスティをじっと見る。薄茶色のショートボブの髪型。大きな瞳に整った鼻筋、それに大きな口。いつものラスティがそこにいる。

 「何じーっと見てんの、気持ち悪。…もしかして、何かに目覚めちゃった?」

 いつもの軽口にそっと目を閉じる。今だけは、命を代償にするだけの事で何もかもから解放されるこの空間がとても居心地が良かった。しかし、智也のそんな思いはラスティの言葉にかき消された。

 「…トモヤ。そのマフラーどうしたの?」

 典子のマフラーが自分の右手に握られていることに、ラスティの言葉に気付かされた。眠る前に手にしていたためであろうか。智也は説明をしようかと考えたが、ラスティがマフラーを見つめるその真剣な眼差しに圧倒され、すぐには口を開けないでいた。その智也の雰囲気に気付いたのか、「趣味の悪いマフラーね」とラスティが茶化し、その回答は保留となった。

 何故ラスティが典子のマフラーを気に掛けるのか?智也にはその答えは分からなかったが、それとは別に智也は自身の中のある感覚に気付いた。現実が夢の世界に介入することへの失望感。それを自分が抱いていることに気付いた智也は、苦笑を浮かべることしか出来なかった。智也は気分を切り替えようとするかのように、ラスティに次の対戦相手の事を尋ねるのだった。


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