6話 金と無関係の世界
酒場を出て、少し歩いたところで――
「待ってよ!」
背中に声が飛んできた。
振り返ると、サラが息を切らして立っている。
明らかに、全力で走ってきた様子だった。
「……なんだよ」
「なんだよ、じゃないでしょ。急にいなくなるから......」
一度、言葉を切る。
それから、俺の顔を見て続けた。
「どこ行くのよ」
「街を出る」
サラは一瞬黙ってから、視線を逸らす。
「……私も、行く」
「は?」
「私も、世界をもっと知りたいって思ったの」
言い訳みたいだったが、引き下がる気は全くなかった。
すっかり夜になっていた。
スラムの通りには、ところどころに吊るされた灯りがあって、
濁った光が道を照らしている。
明るいとは言えない。
ただ、闇に沈まないための最低限の光だった。
建物は密集していて、
壁と壁の隙間を縫うように、道が続いている。
腐った匂いと、湿った空気が肌にまとわりつく。
人の気配は少ない。
賑わっているわけでも、完全に静かなわけでもない。
眠りきれない街が、重たい呼吸をしているみたいだった。
サラは、俺の少し後ろを堂々と歩いている。
お互いに言葉を発することもなく、石畳を踏む足音だけが、通りに残っていた。
やがて、建物の間隔が、少しずつまばらになり、壁に囲まれていた感覚が、気づけば薄れていた。
吊るされた灯りも、いつの間にか見当たらなくなり、
背後には、街の光がぼんやりと滲んでいるだけだ。
足元の石畳が途切れ、どこまでが通りで、どこからが外なのか、曖昧になっていた。
腐った匂いが消える。
湿った空気も、街特有の重さも、いつの間にか抜け落ちていた。
――街の気配は、完全に消えていた。
完全に暗闇と化した夜道を、
俺たちはなんとなく、まっすぐ進んでいた。
道標はない。
街を出た実感だけが、背中に残っている。
足元は見えないが、
引き返す理由も、立ち止まる理由もなかった。
しばらくして、音が変わる。
風に混じって、
どこからともなく、甲高い声が届いた。
「……ほーっ」
次の瞬間、それに呼応するように連続してその声が鳴り響く。
「ほーっ、ほーっ」
その直後、
別の音が重なった。
シャーーーー……。
何かが、広い面積で揺れている。
布でも、壁でもない。
無数の薄いものが、風を受けて擦れ合う音。
足元の空気が変わる。
街で感じていた湿った重さとは違う、
生ぬるく、青臭い匂いが混じり始めた。
前方は、闇がさらに濃い。
ただ暗いだけじゃない。
奥行きのある暗さだ。
一本や二本じゃない。
数え切れないほどの木の影が、
行く手を埋め尽くしている。
道は、もう道とは呼べなかった。
ただ、踏み固められた跡が、
そのまま暗闇の奥へと伸びている。
俺は、街とはまったく違う場所に
足を踏み入れたんだと、
ようやく理解した。
闇の奥へ進むにつれて、
足元の感触が変わっていく。
石の硬さはなくなり、
踏み出すたび、靴裏がわずかに沈んだ。
湿り気を含んだ地面が、遅れて戻る。
街の夜とは違う。
乾いた反発がなく、音が吸われる。
サラが、少しだけ距離を詰めてきた。
「……ねえ、ここ、街の外だよね」
サラの声が、普段より細い。
「さあな」
俺は前を見たまま答える。
「灯りもねぇし、道もねぇ」
「外だろ」
それ以上、会話は続かなかった。
頭の上から、葉が擦れ合う音が降ってくる。
影が、揺れる。
ただ風に動かされているだけなのに、
それが“自分の意思で動いている”みたいに見えて、
思わず視線を逸らした。
「……さっきの声」
サラが、ぽつりと言った。
「生き物、だよね」
「たぶんな」
「聞いたことない」
「俺もだ」
街で聞く音じゃない。
人の喉から出る音でも、
犬や獣の吠え声とも違う。
空気を押し分けるように、
細く伸びて、消えきらずに残る音。
「ほーっ……」
また聞こえる。
今度は、途中で途切れず、長く引き延ばされた。
遠い。
なのに、方向が分からない。
距離感が、狂う。
サラが、無意識に拳を握っているのが見えた。
「……ねえ、レイ」
「なんだ」
「ここ、進んで大丈夫なのかな」
俺は一瞬、考えたが、
大丈夫かどうかなんて、
判断する材料は何一つない。
戻る道も、はっきりしてない。
進んだ先に何があるかも、分からない。
「分かんねぇよ」
正直に言った。
「でも、止まってても意味ねぇ」
そう言って、足を前に出す。
その瞬間だった。
――ドン。
音じゃない。
地面の奥が、押し上げられた。
空気より先に、地面が揺れた。
腹の内側が、ぐっと持ち上がる感覚。
サラが、息を止めたのが分かった。
「……今の」
――ドン、……ドン。
一定じゃない間隔。
重さだけが揃っている。
一歩ごとに、
地面の中で何かが位置を変えている。
これは、足音だ。
しかも、かなり大きい。
風が止む。
葉の擦れる音も、一瞬だけ消えた。
周囲の気配が、
その振動に引き寄せられているみたいだった。
そして――
闇の奥から、
空気を震わせる音が漏れた。
吠える、というより、
胸の奥で圧縮した息を、一気に吐き出したような音。
長く、荒く、
途中で歪む。
闇が、わずかに薄くなった。
最初は気のせいかと思ったが、
目を凝らすと、黒一色だった前方に、
濃淡の差が生まれている。
夜が終わりかけている。
空のどこかが、白み始めたらしい。
光そのものは、まだ届かない。
ただ、闇が“均一じゃなくなる”。
木の影が、
一本一本、分かれ始める。
地面も、起伏があることだけは、ようやく見えるようになった。
「……朝?」
サラの声にさっきまでの震えは残っているが、
ほんの少しだけ落ち着きが戻ったようだった。
「みたいだな」
そう答えながら、
俺は前を見続ける。
――ドン。
また、来る。
今度は、さっきより近い。
振動が、足裏からではなく、
膝のあたりまで直接伝わってきた。
距離が、詰まっている。
「……っ」
サラが、息を呑む。
その瞬間だった。
前方の闇が、
“盛り上がった”。
最初は、地形だと思った。
小さな丘か、岩の塊か、
そういうものに見えた。
いや――違う。
動いた。
朝の薄い光の中で、
黒い塊が、ゆっくりと形を変える。
前脚が、地面を踏みしめ、爪が、湿った土を抉る。
顔が、こちらを向いた。
濁った目。
焦点が合っていないのに、
確かに、こちらを見ている。
口が、わずかに開き、
息が漏れる。
湿った吐息が、
白く揺れた。
俺の背丈の倍近い塊が、
道を塞ぐように立っている。
毛並みは乱れ、
体のあちこちに、泥と葉が絡みついている。
「……嘘でしょ」
サラの声が次第に震え出す。
俺も、言葉が出なかった。
ただ一つ分かるのは、
あれが、この場所の“通行人”じゃないってことだ。
ここを通るなら、
避けては通れない。
朝の光は、まだ弱い。
世界はぼやけたままなのに――
もう、引き返せる場所じゃなかった。
サラの立ち位置が、いつの間にか少し後ろに下がっている。
靴先が、俺の影に半分隠れていた。
視線は外れていない。
逃げる準備をしているわけでもない。
ただ、その場で固まっている。
それが分かる。
なのに――
俺の意識は、そこに向かなかった。
でかい。
距離感じゃない。
存在感の話だ。
あの塊は、
「脅威」より先に、
別のものとして認識されていた。
食える。
腹が鳴ったわけじゃない。
今すぐ何かを欲している感覚もない。
ただ、
金を使わずに腹を満たせる、
その可能性だけが、妙に鮮明だった。
――ああ。
そうか。
金、いらねぇじゃん。
そう思った瞬間、
顔が勝手に、にやけていた。
「……レイ」
横から名前を呼ばれる。
サラの声は、張っていない。
でも、引きつってもいない。
逃げたい、とも
進みたい、とも言っていない。
ただ、
俺が“何かおかしい方向を見ている”のが分かっていて、
それを確かめるために呼んだ声だった。
俺は、ようやく瞬きをした。
獣が、動いた。
前触れはなかった。
唸り声も、溜めもない。
黒い塊が、いきなり距離を詰める。
空気が押し潰される感覚だけが、先に来た。
視界が、横に吹き飛ぶ。
次の瞬間、
背中に、硬い衝撃。
息が、肺の外へ叩き出された。
大木だと理解したのは、
背中が軋んでからだった。
樹皮が、服越しに擦れる。
ざらついた感触が、皮膚に残る。
――速ぇな。
そんなことを考えている時点で、
頭は、まだ冴えていた。
獣は、すぐには追ってこなかった。
ほんの、一瞬だけ。
それだけで十分だった。
俺は、身を低くして走る。
逃げる、じゃない。
潜り込む。
巨体の影の内側へ。
視界いっぱいに、
毛と泥と、筋肉の動きが迫る。
前脚が、振り下ろされる直前――
俺は、その根元に滑り込んだ。
距離が、ゼロになる。
考えるより先に、
口が、開いていた。
俺は何を思ったか、
生きている獣の前脚に、噛みついた。
――硬い。
歯が食い込まない。
噛み砕ける感触が、どこにもない。
その瞬間――
「……っ、あんた馬鹿なの!?」
サラの声が、真横で弾けた。
歯が、弾かれる。
舌に、血の味が広がった。
俺は、すぐに口を離す。
獣が、咆哮した。
空気が、震える。
さっきまで腹の奥で圧縮されていた音を、
今度は外に叩きつけるみたいに。
完全に、怒らせた。
次に何が来るのか、
俺には分からなかった。
避け方も、
殴り方も、
正解もない。
考える前に、身体が動いた。
「走れ!」
叫んだのが俺だったのか、
サラだったのかは覚えていない。
ただ、次の瞬間には、
二人とも地面を蹴っていた。
背後で、重い音が鳴る。
枝が折れる。
地面が、また震える。
来る。
そう思って、
一度だけ、振り返った。
――来ていなかった。
獣は、そこに立っていた。
さっきまで俺たちを睨んでいたはずの位置で、
巨体を揺らしもせず、
ただ、固まっている。
首が、わずかに傾いている。
まるで、
何をしようとしていたのか、
忘れてしまったみたいに。
咆哮の余韻だけが、
空気に残っているのに――
獣の視線は、
もう俺たちを追っていなかった。
数秒。
いや、もっと短かったかもしれない。
やがて、
獣はゆっくりと体の向きを変えた。
迷いがあるわけでもなく、
警戒する様子もない。
“そこにいる理由がなくなった”みたいな動きだった。
そしてそのまま、
木々が作り出す闇の中へと、
静かに消えていった。
俺とサラは、
しばらく、その場から動けなかった。
追われていない。
助かった。
……はずなのに。
胸の奥に、
言葉に出来ない違和感だけが、
じっと残っていた。
しばらくして、ようやく息が落ち着いた。
足元の感触が、
さっきまでとは違っている。
湿った土じゃない。
踏みしめると、硬い。
俺は、周囲を見回した。
……分からない。
来た方向も、
進んでいた方向も、
全部、同じに見える。
木々が、どこまでも重なっている。
影と影の区別がつかない。
「……ここ、どこ?」
サラの声が、少し遅れて届いた。
答えようとして、
その途中で、気づく。
前方――
木々の密集が、
不自然に、途切れている。
俺は、無言でそこへ近づいた。
すると、
影の向こうに、
“形”が浮かび上がる。
自然のものじゃない。
石を積み上げたような、
明らかに、人の手が入った構造物。
それは、
建物と呼ぶには、少し歪で――
壁のあちこちに、
“顔”があった。
笑っているのか、
無表情なのかも分からない。
ただ、
こちらを“見ている”気がした。
「……なに、あれ」
サラが、思わず呟く。
俺も、言葉が出なかった。
街の建物とも違う。
住むための形でもない。
何のために作られたのか、
想像も出来なかった。
ーーそれでも。
人がいるかもしれない。
理由は、それだけだった。
「……入るぞ」
この時はまだ、
俺たちが、取り返しのつかない出来事に
足を踏み入れるきっかけになるなんて、
考えもしなかった。




