5話 完全じゃない救い
奥の扉の前で、女は立ち止まった。
不思議そうに、俺を見ている。
フォルテが、短く言う。
「……なんでもない」
「サラ、戻っていなさい」
……サラ。そう呼ばれた。
フォルテは落ち着いている。
叱るでもなく、突き放すでもない。
「……そう?」
サラは頷いた。
酒場の空気は、まだ重い。
何かが、静かにずれている。
サラは目をわずかに丸くした。
「フォル爺が、あんなふうになるなんて」
「……珍しいね」
責めるでもなく、かばうでもない。
ただ、そこにいる人間を見る目だった。
「あなたも」
「少し、落ち着こう?」
柔らかい言い方なのに、
逃げ場を作らない声音だった。
フォルテも、俺も――
その言葉には答えなかった。
酒場に、短い沈黙が落ちる。
フォルテは、俺から目を逸らさずに言った。
「……薬はない」
「ないもんは、ない」
それだけだった。
誤魔化しでも、怒りでもない。
その答えは、最初から変わらない。
「薬……?回復薬なら、裏に――」
サラが、反射的に口を開いた。
「違うんだ」
フォルテが、低く言った。
その声に、被せるように俺が続ける。
「使った」
「普通のやつだ」
言葉を選ぶ気はなかった。
「でも、治らねぇんだ」
「あいつ、死ぬかもしれねぇ」
サラの表情が、はっきりと変わる。
さっきまでの余裕が消え、
血の気が引いたような、
それでいて、急に現実を掴んだ顔だった。
「……それ、大変じゃない!すぐに行かなきゃ!」
状況を聞く気配はない。
誰が、どこで、どうなっているのか――
そんなことより、動くことが先だった。
サラはそれだけ言って、もう体を動かしている。
椅子を避け、カウンターを回り込み、
酒場の出口へと足を向ける。
「おい――」
俺が声をかけるより早く、
サラは、扉に手をかけていた。
「お前が行って何が出来る!?
......それに、場所、わかんのか」
引き止めるように、というより
馬鹿なこと言ってるやつを止める口調だった。
サラの足が、ぴたりと止まる。
「……あ……わかんない」
俺は、即座に顔をしかめた。
「はぁ……」
「来てぇなら来いよ、俺が案内する」
そのやり取りを、黙って聞いていたフォルテが口を開く。
「サラ」
フォルテが、そう呼んだ。
「もうすぐ夜だ。こんな時間に、外を出歩くんじゃねぇ」
サラは振り返る。
一瞬だけ迷う素振りを見せて――
すぐに、首を振った。
「……そんなこと言ってる場合じゃないでしょ」
人が......死ぬかもしれないんでしょ
それを知ってて、放っておけない!」
フォルテは、しばらく黙った。
それから、短く息を吐く。
「……そうか」
次の瞬間、包帯が投げられる。
「持っていけ」
視線は向けないまま。
「役に立つかは知らん。だが、丸腰よりはマシだ」
サラは包帯を受け取り、強く握る。
「……ありがとう」
それだけ言って、扉を押し開けた。
昼の名残りと、夜の気配が混ざった、生ぬるい風が流れ込んでくる。
迷いのない足取り。
振り返りもしない。
俺は、その少し後ろを走る。
「……っ」
小さく舌打ちする。
場所も分かってないくせに、
一直線に進むところだけは一丁前だ。
瓦礫の影に、蹲る影がある。
チンピラだった
「おい……!」
チンピラが、俺たちに気づいて顔を上げた。
血走った目で、縋るように叫ぶ。
「こいつは……こいつは助かるのか……!?」
声が、震えている。
さっきまで必死に押し殺していたものが、もう隠せていなかった。
俺は、何も答えない。
その横を、サラが迷いなく通り過ぎる。
「……どいて」
チンピラは一瞬きょとんとしたが、
すぐに慌てて身を引く。
サラは、倒れている男の前に膝をついた。
血。
浅く速い呼吸。
濁った顔色。
一通り見てから、静かに息を吸う。
「よかった……まだ、生きてる」
その一言で、
チンピラの肩が、がくりと落ちた。
「た、助かるのか……?」
縋るような声。
サラは、はっきりとは答えなかった。
「……わからない。でも、やれることはやってみる」
そう言って、包帯を広げる。
俺は腕を組んだまま、それを見下ろす。
「おい!ほんとに、それで治るのか?」
サラは、ちらりと俺を見る。
「治す、ってほどじゃないよ」
「身体が、自分で治ろうとするのを
.....ちょっと、手伝うだけ」
次の瞬間――
空気が、わずかに変わった。
サラは、目を閉じた。
それから、倒れた男の胸元に手を置いた。
祈るようでも、集中するようでもない。
ただ、そこにある傷に手を添えるみたいに。
しばらく――
何も起きない。
光も、音もない。
俺は、思わず鼻で笑いそうになる。
……やっぱり、か。
だが。
男の胸が、さっきより上下し始めるのがわかる。
さっきまで浅く、途切れがちだった呼吸が、
ほんのわずかに、深くなる。
顔色も、劇的には変わらない。
血も、完全には止まらない。
それでも――
苦しそうに歪んでいた表情が、
少しだけ、緩んだ。
まるで、
身体を締め付けていた何かが、
一瞬だけ、手を離したみたいに。
チンピラが、息を呑む。
「……お、おい……」
声を落として、震えるように言った。
「顔が……」
「さっきより……」
サラは、ゆっくりと手を離す。
額に、うっすらと汗が滲んでいた。
「……これ以上は、無理」
正直な声だった。
「傷は塞がらない、
血も、完全には止まらないよ」
それでも、と続ける。
「......でも、ちゃんと生きてるよ」
サラは、男の顔を見下ろす。
「少しは、楽になったはずだよ!」
その言葉に、
チンピラはその場に崩れ落ちるように座り込んだ。
「……あぁ……」
震える手で、顔を覆う。
泣いているのか、笑っているのか、
もう分からなかった。
俺は、その様子を横目に見て――
小さく、舌打ちした。
「……治ってねぇじゃねぇか」
サラは、俺を見た。
責めるでもなく、反論するでもなく。
「うん」
「治ってないよ」
はっきりと、認めた。
「でも、もう死なないよ」
その一言が、
やけに重く、耳に残った。
「……約束の金だ!」
チンピラが、弾かれたみたいに顔を上げた。
慌てて懐を探り、
震える手で、小さな袋を掴み出す。
中で、金属が触れ合う音がした。
「助けてくれたんだ!
受け取ってくれ……!」
サラは、首を振った。
ゆっくりと。
はっきりと。
「いらないよ」
「……は?」
俺の口から、間抜けな声が漏れる。
サラは、男の顔を見る。
「何もいらないよ」
静かな、優しい声。
「生きてさえいれば、それでいい
......どんなにみっともなくても
生きてるだけで、価値はあるんだから」
俺は、何もない空間を睨んだ。
どうでもいい場所を。
「……金がなきゃ、生きてる意味ねぇんだよ!」
足元に転がっていた小さな瓦礫を、
思い切り蹴った。
乾いた音が、虚しく跳ねる。
チンピラは、しばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと立ち上がる。
「……おい」
俺を見る。
「お前、レイって言ったな。
ここはスラムだ。
金をやるって言葉......簡単に信じるんじゃねぇ」
一瞬だけ、目を伏せる。
「……けどな
これは、せめてもの礼だ」
そう言って、
懐から、別のものを取り出した。
小さな破片。
黒く、硬く、
嫌な感触を想像させる――
蜘蛛の破片だった。
「これを、やる」
俺は、躊躇しなかった。
奪うみたいに、それを掴み取る。
掌に伝わる、冷たい硬さ。
その瞬間――
頭の中が、一気に軽くなる。
さっきまでの空気が、嘘みたいだった。
俺は、何も言わずに踵を返す。
「お、おい……!」
背中から声が飛んでくるが、
もう聞いていなかった。
酒場の方向へ、全速力で走り出す。
口元が、勝手ににやける。
さっきまで絶望していた顔なんて、
最初から存在しなかったみたいに。
――金だ。
それだけが、頭にあった。
酒場の扉を、俺は蹴飛ばすように開けた。
「フォル爺!」
胸の奥が、妙に軽い。
勢いづいた気分のまま、調子に乗って叫ぶ。
「見ろ!」
「証拠だ!」
カウンターへ駆け込み、
掌を開いて、蜘蛛の破片を叩きつける。
乾いた音。
硬い感触。
それだけで、胸の奥がざわついた。
フォルテは、驚いた様子もなく、
ただ一度だけ、その破片に目を落とす。
それから、俺を見る。
「……そうか」
それだけだった。
肩透かしを食らったみたいで、
俺は思わず眉をひそめる。
「……なんだよ」
「もっと、なんかねぇのかよ」
フォルテは、破片を手に取ると、
ゆっくりと裏返し、確かめる。
「十分だ」
淡々とした声。
「これで、話は通る」
そう言って、カウンターの下から袋を取り出す。
中身を確かめるまでもない。
音でわかる。
「……報酬だ」
袋を、こちらへ滑らせた。
俺は、即座に掴み取る。
ずしりとした重み。
「……やっとだ」
小さく、呟いた。
フォルテは、それを咎めもしない。
ただ、視線を外したまま、続ける。
「だがな」
声が、少しだけ低くなる。
「この街じゃ、もう稼げねぇ」
俺の動きが、止まった。
「蜘蛛の騒ぎも終わりだ」
「次は、別の街に行け」
カウンターの端を、顎で示す。
「道は、二つある
片方は、表の街だ
もう片方は……」
一瞬だけ、言葉が切れる。
「……面倒なほうだ」
俺は、袋を握りしめたまま、考える。
表の街。
他の街の事なんて考えたこともなかった。
でも――
金になる匂いも、する。
「……どっちだ?
自分で決めろ」
それだけ言って、グラスを拭き始めた。
いつもの、何もなかったみたいな仕草。
俺は、舌打ちする。
「……ケチくせぇ」
そう言いながらも、
袋の重みを、もう一度確かめた。
金がある。
今は、それでいい。
俺は踵を返し、出口へ向かう。
背中越しに、フォルテの声が飛んだ。
「金が欲しいならーー
生き延びろ」
俺は、振り返らない。
夜の気配が滲む外へ出る。
――次の街へ。




