4話 助けを求める声
俺は、戻ってきてしまった。
……あの場所に。
建物も、瓦礫も、何ひとつ変わっていない。
崩れた壁。
割れた床。
踏めば粉になるほど乾いた埃。
あの時と、まったく同じだ。
俺は立ち止まり、周囲を見渡した。
だが――
そこに、蜘蛛はいなかった。
破片も、糸も、動いた痕跡すらも
影も形も残っていない。
「……」
何か言おうとして、やめた。
本当に、何も残っていない。
あの時、確かに拾ったはずの証拠の破片も、もうここにはない。
建物の中は静かで、さっきまでの出来事が嘘みたいだった。
音も、気配も、全部消えている。
俺はもう一度だけ周囲を見回してから、踵を返そうとした。
その時だった。
「……たす、けて……」
助けを呼ぶには、あまりにも力のない声。
泣きながら、ただ吐き出しただけのような。
聞き覚えのある声だった。
俺は、足を止めた。
助けようと思ったわけじゃない。
ただ、なんとなく気になっただけだ。
声の質が、さっき聞いたものと違った気がした。
次の瞬間には、足が勝手に声の方へ向いていた。
影の向こうにいたのは、男だった。
壁にもたれかかるように座り込んでいる。
顔を上げた拍子に、月明かりが当たった。
……スキンヘッド。
酒場で見た顔だ。
「……お前は……酒場のガキか」
掠れた声だった。
喉が潰れているみたいに、音が途中で引っかかる。
「生きてたんだな」
俺はそう言って、少しだけ近づいた。
笑ってやろうと思った。
逃げたこととか、腰が引けてたこととか。
でも――
その後ろに、もう一人いるのが見えた。
地面に横たわっている。
動かない。
胸が鼓動しているのかどうかも、ぱっと見じゃ分からない。
「……」
言葉が、喉で止まった。
チンピラは、歯を食いしばったまま言った。
「……笑うなら、笑えよ」
肩で息をしながら、それでも視線は仲間から離さない。
「逃げたのは……認める」
「……」
俺は、地面に倒れているそいつを見下ろした。
動かない。
「……おい」
俺は、少しだけ顎をしゃくる。
「それ、もう死んでんのか?」
声は、驚くほど平坦だった。
チンピラが、びくりと肩を震わせる。
「……は?」
「だって、動いてねぇだろ」
「死体に見えるぞ」
本気でそう思っただけだ。
悪気はない。
男の顔が、ぐしゃりと歪んだ。
「ふざけんな……!」
声を荒げようとして、途中で咳き込む。
「まだだ……!」
「まだ死んでねぇ……!」
俺は、その言葉に少しだけ目を細めた。
「……なんだ」
「死んでねぇのか」
視線を、倒れている男からチンピラに戻す。
「仲間なんだろ」
「助けてやらねぇのか?」
震える手で、男は瓶を持ち上げた。
中身は、ほとんど残っていない。
「回復薬だ……」
「全部、使った……!」
瓶を傾ける。
わずかに残った液体が、傷口にかかる。
だが、何も変わらない。
血と土に混じって、ただ流れ落ちるだけだった。
「……効かねぇんだよ」
吐き出すみたいな声だった。
「なんでか知らねぇけど……」
「全然、効かねぇ……」
男は、仲間の顔を見下ろしたまま、拳を握りしめる。
「……なぁ……」
チンピラは、ゆっくりと顔を上げた。
喉が引きつるように動き、唾を飲み込む。
「……助けてくれ」
それだけだった。
声は弱い。
けれど、逃げ道を探す余裕もない言い方だった。
「頼む……」
「こいつを……助けてくれ……」
地面に手をつき、仲間の方へ視線を向ける。
歯を食いしばっているはずなのに、
唇が、わずかに震えていた。
ぽた、と。
地面に、何かが落ちる。
涙だった。
俺は、一度だけ倒れている男を見た。
それから、すっと目を逸らす。
瓦礫の影でも、崩れた壁でもない。
ただ、そいつらを見ない場所へ。
「……そうか」
短く息を吐いてから、続ける。
「残念だったな」
「......俺には、関係ねぇ」
淡々と、突き放すように。
「そいつが生きようが死のうが」
「俺には、どうでもいい」
それだけ言って、俺は踵を返した。
立ち止まる理由も、
振り返る理由も、なかった。
「……ま、待て……!」
声が裏返る。
「ただでとは言わねぇ……!」
「金だ……金なら払う……!」
膝をついたまま、必死に首を振る。
「持ってるもんは全部出す……!」
言葉が、次々と零れ落ちる。
「頼む……!」
「このままじゃ……こいつ……!」
喉が詰まったのか、最後まで言えなかった。
俺は、視線を外したまま言った。
「……諦めろ」
声は低く、淡々としていた。
「そいつは、もうすぐ死.......」
事実を口にしようとして、急に途切れた。
チンピラの言葉が耳に引っかかった。
(金なら払う.......!)
俺は、一歩踏み出しかけて――止まった。
「……ん?」
今、なんて言った。
ゆっくりと、視線を戻す。
「......金!?」
その一言だけだった。
俺は、少しだけ間を置いてから口を開いた。
「……おい」
視線を、チンピラに戻す。
「ひとつ確認だ」
「いくらだ」
チンピラは、一瞬きょとんとした顔をして――
すぐに、必死に首を縦に振った。
「……わかんねぇ」
「でも、払う……!」
「持ってる分は全部出す!」
俺は、少しだけ黙った。
「……」
一瞬だけ、舌打ちしそうになるのを堪える。
「薬、それしかねぇのか」
地面に転がった瓶を、顎で指した。
チンピラは、悔しそうに歯を噛みしめる。
「……俺は、持ってねぇ」
「それしか、ねぇよ」
一瞬だけ、間が空く。
それから、思い出したみたいに言った。
「……でも」
「これより、効くやつがあるのは……確かだぜ」
その言葉に、俺の眉がわずかに動いた。
倒れている男。
血。
効かない回復薬。
全部を一度に見て、頭の中に放り込む。
考える、というより――
思い当たるものを、順に浮かべていくだけだ。
「……」
酒場。
あのカウンター。
白髭のジジイ。
「……あ」
声にならない音が、喉から漏れる。
「……フォルテんとこなら」
自分でも驚くくらい、あっさり出てきた。
「何か、あるんじゃねぇか?」
それだけ言って、俺は踵を返した。
後ろは見ない。
説明もしない。
――俺が薬を取りに行く。
これでやっと.....飯が食える!!
俺は一人で、その場を飛び出した。
息が切れるほど走り、酒場に着いた。
俺は扉を蹴飛ばすように開けた。
そして一直線に、フォルテのいるカウンターへ駆け込む。
俺が口を開く前に、フォルテが言った。
視線は、グラスのままだ。
「……で」
「証拠は、あったのか」
さっきまで希望に満ち溢れていた空気が、一気に重くなった。
「……なかった」
俺は短く言った。
「もう、見つけられなかった」
言い切ったつもりだったが、語尾がわずかに落ちる。
少し間を置いて――
すぐに続けた。
「それよりだ」
カウンターに、片手をつく。
「怪我してるやつがいる」
「回復薬が、効かねぇ」
フォルテの手が、ぴたりと止まった。
「……効かねぇ?」
俺は頷く。
「瓶、全部使った」
「なのに、傷がそのままだ」
少しだけ言葉を選ぶ。
「……もっと効く薬とか」
「そういうの、ねぇのか?」
フォルテは、ようやくこちらを見た。
視線は低く、俺の顔というより、その奥を見ているみたいだった。
「そんな都合のいいもんはねぇ」
一言だった。
「……は?」
思わず、声が漏れる。
フォルテは、淡々と続ける。
「回復薬が効かねぇ傷はな」
「そういうもんだ」
「理由は分からん」
「だが、この街じゃ珍しくもねぇ」
俺は、カウンターを叩きそうになるのを、ぎりぎりで堪えた。
「じゃあ……」
「じゃあ、どうすりゃいいんだよ」
フォルテは、肩をすくめる。
「諦めろ」
あまりにも簡単に言った。
「助からねぇやつは、助からねぇ」
「それだけだ」
腹の奥で、何かが音を立てた。
「……なんだよ、それ
見捨てろって言うのかよ
目の前で、死にそうになってるやつを」
うるせぇ。
俺は腹が減ってんだ。
フォルテは、黙ったまま、グラスを置く。
「この街はな」
「助けられるやつだけ助ける場所だ」
その言い方が、妙に冷たく聞こえた。
「……腐ってんな」
気づいた時には、口が動いていた。
「お前もだ」
「そんな言い方しかできねぇのかよ、ジジイ」
酒場の空気が、一瞬だけ張りつめる。
フォルテの眉が、ぴくりと動いた。
「だいたいな」
低い声。
「そんな都合のいい薬があったとしても」
「金もねぇクソガキに、渡せるもんなんて――」
「……っ!」
俺は、拳を強く握る。
「金だよ……!」
吐き出すみたいに言った。
「金なら、払うって言ってんだ」
「払うから、助けたいんだよ!」
フォルテは、俺をじっと見た。
怒っているわけでもない。
呆れているだけだ。
「金が欲しいだけだろ」
その一言が、胸の奥に突き刺さる。
返せなかった。
否定も、できなかった。
重たい沈黙が落ちた、その時――
奥の扉が、きぃ、と音を立てて開いた。
「ちょっとうるさいんだけど」
場違いなくらい、落ち着いた声だった。
酒場の奥。
今まで気にも留めていなかった扉の向こうから、その声はした。
「……何の揉め事?」
フォルテの手が、ぴたりと止まる。
グラスを拭いていた布が、宙で静止したまま、わずかに揺れた。
一瞬だけ。
本当に、一瞬だけ。
空気が、変わった。
フォルテは小さく息を吐いてから、視線を落とす。
「……悪い」
「少し、熱くなってた」
それだけ言って、何事もなかったみたいに、またグラスを拭き始める。
俺は、その様子が気に入らなかった。
奥から出てきた女に、視線を向ける。
細い体。
派手でも、強そうでもない。
ただ、そこに立っているだけの――知らない女。
「……誰だ、お前」
声には、まだ棘が残っていた。
女は少しだけ首を傾げる。
「え?」
困ったみたいな顔で、俺を見る。
「あなた、そんなに怒ってるけど」
「何があったの?」
さっきまでの重たい空気が、完全には消えていない。
でも、確実に違うものに変わっていた。
俺は、答えなかった。
ただ、睨んだ。
――知らないやつだ。
なのに。
なぜか、この場にいるのが、当たり前みたいな顔をしていた。




