第3話「人が死ぬゲーム」
フェルゼン公爵邸は、王都でも指折りの壮麗な屋敷だった。
白亜の壁、手入れの行き届いた庭園、門を守る衛兵たち。私の実家とは比べものにならない。
かつては同じ貴族として肩を並べていたはずなのに、今となってはその差は歴然としていた。
「リーゼロッテ様がお越しです」
取り次ぎの使用人が私の名を告げると、すぐにクラリッサが姿を現した。
「リーゼ!」
クラリッサ・フォン・フェルゼン。艶やかな黒髪と、深い紫の瞳を持つ美しい公爵令嬢。私より2つ年上で、幼い頃から姉のように慕ってきた存在だった。
「急に押しかけてごめんなさい、クラリッサ」
「何を言っているの。あなたはいつでも歓迎よ」
クラリッサは私の手を取り、屋敷の奥へと導いた。
彼女の私室に通されると、使用人が紅茶を運んできた。湯気の立つカップを見つめながら、私はどう切り出すべきか迷っていた。
「婚約破棄の件は聞いたわ」
クラリッサが先に口を開いた。
「ローゼンハイムの坊やが真実の愛だなんて、笑わせるわね。社交界では、あの男の軽薄さは有名よ。あなたが悪いわけではないわ」
「ありがとう」
私は小さく答えた。けれど、今はそんなことはどうでもよかった。
「クラリッサ、実は……」
「何かあったのね」
クラリッサの紫の瞳が、私を見つめていた。
私は、話した。借金のこと。明日、娼館に売られること。父と母の決定。すべてを、言葉にした。
話し終えると、クラリッサはしばらく黙っていた。紅茶のカップを手に取り、一口含んでから、静かに言った。
「金貨8000枚ね。私が貸しましょうか」
「え……」
「フェルゼン家にとっては、大した額ではないわ。あなたを救えるなら、安いものよ」
私は言葉を失った。
公爵家の財力なら、8000枚など端金なのかもしれない。けれど、それを受け取ることはできなかった。
「ありがとう、クラリッサ。でも、受け取れない」
「どうして?」
「借りたところで、返す当てがないもの」
私は首を横に振った。
「慰謝料と持参金が届いても、それは8000枚にしかならない。家の借金の総額は10万枚。私が娼館に行かなくても、いずれ家は潰れる。あなたに借りた金も、返せない」
「返さなくていいわ。贈与にしましょう」
「それは駄目よ」
私は強く言った。
「あなたの好意は嬉しい。でも、施しを受けて生き延びるくらいなら……」
言葉が途切れた。
施しを受けて生き延びるくらいなら、何だというのか。死んだ方がましだとでも言うのか。
クラリッサは、私をじっと見つめていた。その瞳には、何か測りかねるような光があった。
「リーゼ。あなた、本気で言っているの?」
「何を?」
「施しを受けるくらいなら死んだ方がまし、という顔をしていたわ」
図星だった。
私は俯いた。言い返す言葉が見つからなかった。
「娼館に行くのも嫌。施しを受けるのも嫌。でも、死にたいわけでもない。そうでしょう?」
「……わからない」
正直に答えた。
「今の私には、何もわからない。どうすればいいのか、何を選べばいいのか。頭が真っ白で、何も考えられないの」
クラリッサは紅茶のカップをテーブルに置いた。立ち上がり、窓辺に歩み寄る。外を見つめながら、彼女は言った。
「1つだけ、方法があるわ」
「方法?」
「人が死ぬゲームよ」
私は、耳を疑った。
「人が死ぬ……ゲーム?」
「死亡遊戯と呼ばれているわ」
クラリッサは振り返り、私を見た。
「メイドだけが参加できる脱出ゲームよ。生き残れば、金貨1万枚が手に入る。ただし、参加者は死ぬこともある」
「メイドだけ……」
「そう。貴族の令嬢は参加できない。でも、もしあなたが一時的にうちのメイドになれば、参加資格は得られる」
クラリッサは淡々と説明した。まるで天気の話でもするかのように。
「どうして、そんなものを知っているの?」
「社交界の裏では、知る人ぞ知る話よ。困窮した者たちが、一攫千金を夢見て参加するの」
「本当に、人が死ぬの?」
「死ぬわ」
クラリッサは断言した。
「ゲーム中に死んだ人は、存在しなかったことになる。生まれていなかったことになるの。誰の記憶からも消えて、最初からいなかったことになる」
背筋が凍った。存在しなかったことになる。それは、死ぬよりも恐ろしいことのように思えた。
クラリッサは続けた。
「でも生き残れば、金貨1万枚。それだけじゃないわ。ゲームの中でボーナスを得られることもある。うまくいけば、金貨10万枚以上になることもあるそうよ」
「10万枚……」
家の借金の総額と同じだった。
「生き残った人は、どうなったの?」
私は、聞いた。
クラリッサは、答えなかった。ただ微笑んで、私を見つめるだけだった。
「クラリッサ?」
「それは答えられないわ」
「どうして?」
「答えられないの。それだけよ」
クラリッサの声には、有無を言わせない響きがあった。
私は、黙った。考えるべきことが多すぎた。
娼館に行くか。施しを受けるか。死ぬかもしれないゲームに参加するか。
どれも嫌だった。どれも選びたくなかった。
けれど、選ばなければ、明日には娼館に連れて行かれる。
「今夜よ」
クラリッサが言った。
「今夜、ゲームが開催される。参加するなら、今すぐ決めなければならないわ」
今夜。あまりに急だった。考える時間もない。
「リーゼ。あなたは私の大切な友人よ。だから、無理に勧めるつもりはないわ。娼館に行くのが嫌なら、私の金を受け取ればいい。プライドが許さないなら、ゲームに参加すればいい。どちらを選んでも、私はあなたを責めない」
クラリッサの言葉は優しかった。けれど、私の心は決まっていた。
「参加するわ」
私は言った。
「金貨10万枚。それだけあれば、借金を返せる。家を立て直せる。もう誰にも、施しを受ける必要がなくなる」
「死ぬかもしれないのよ」
「知っているわ」
私は立ち上がった。
「でも、娼館で生きるくらいなら、死んだ方がまし。それが私の矜持よ。伯爵令嬢としての最後の誇りよ」
クラリッサは、私を見つめていた。その紫の瞳に、何が映っているのかはわからなかった。
「わかったわ」
彼女は、頷いた。
「では、今からあなたはフェルゼン家のメイドよ。書類は私が用意する。着替えも必要ね」
クラリッサは使用人を呼び、指示を出した。すぐにメイド服が運ばれてきた。
「着替えて。鏡はそこよ」
私は言われるまま、メイド服に袖を通した。いつも着ていたドレスとは全く違う感触。簡素で、動きやすくて、けれど自分のものではないような違和感があった。
姿見の前に立った。鏡に映る自分の姿を見つめる。
淡い金色の髪。母譲りの青い瞳。白い肌に、薄い唇。伯爵令嬢として生まれ、伯爵令嬢として育てられた。しかし、今はメイド服を纏っている。
不思議な気分だった。自分が自分でないような。別の誰かになったような。
「似合っているわ」
クラリッサが後ろから声をかけた。
「あなたは元々美人だもの。メイド服でも、十分に映えるわね」
「お世辞はいいわ」
「お世辞じゃないわよ。その金髪と青い瞳、メイドにしておくのは勿体ないくらい」
クラリッサは、笑った。
私は、笑えなかった。
鏡の中の私は、不安そうな顔をしていた。当然だった。これから死ぬかもしれないゲームに参加するのだ。怖くないはずがない。
「リーゼ」
クラリッサが私の肩に手を置いた。
「あなたなら、きっと生き残れるわ」
「どうしてそう思うの?」
「あなたは賢いもの。それに、諦めない強さがある。婚約破棄されても、娼館送りになりかけても、折れなかった。その矜持があれば、どんなゲームでも乗り越えられるわ」
クラリッサの言葉は、まるで予言のように響いた。
「ありがとう、クラリッサ」
私は、答えた。
「もし生き残れたら、必ずあなたに恩返しするわ」
「そんなものいらないわよ」
クラリッサは、肩をすくめた。
「あなたが無事に戻ってきてくれれば、それだけで十分よ」
その言葉を聞いて、私は少しだけ心が軽くなった。
日が暮れ始めていた。窓の外が、茜色に染まっていく。
今夜、私は死亡遊戯に参加する。生き残れば、金貨1万枚以上。死ねば、存在すら消える。
怖かった。足が震えるほど怖かった。けれど、もう決めたのだ。
私は伯爵令嬢としての矜持を胸に、死地へ向かう。それだけが、今の私にできる唯一の選択だった。




