第2話「娼館送り」
あれから3日が経った。
屋敷の空気は、日を追うごとに重くなっていった。使用人たちは私と目を合わせようとしない。廊下ですれ違っても、足早に通り過ぎていく。
婚約破棄の噂は、すでに屋敷中に広まっているのだろう。
私は自室に籠もることが多くなった。食事も部屋に運ばせ、1人で口にする。
4日目の朝、父に呼び出された。
応接間に入ると、父と母が揃って座っていた。テーブルの上には、紙の束が積み上げられている。借用書だ。見覚えのある印章がいくつも並んでいる。
「座りなさい」
父の声は平坦だった。怒りでも悲しみでもない、何か諦めたような響き。
私は言われるまま、2人の向かいに腰を下ろした。
「リーゼロッテ。我が家の財政状況について、お前に話しておかねばならないことがある」
父はそう切り出した。母は俯いたまま、何も言わない。
「ローゼンハイム家からの慰謝料と持参金の返還については、先方も応じる意向だ。ただし、手続きには時間がかかる。早くても届くのは2週間後になるだろう」
「そうですか」
それ自体は、悪い知らせではないはずだった。けれど父の表情は晴れない。
「問題は、それまで持たないということだ」
「……持たない?」
「借金だ」
父は紙の束に手を置いた。
「我が家の借金の総額は、金貨10万枚になる」
息が止まった。
10万枚。金貨1枚に含まれる金の量は20グラム。それが10万枚。途方もない額だ。中規模の領地がまるごと買えるほどの金額。
「そのうち、今週中に返済しなければならない分が、金貨8000枚ある」
「8000枚……」
「商会からの借り入れだ。期限は3日後。払えなければ、屋敷は差し押さえられる」
父の声は淡々としていた。まるで他人事のように。いや、もう何度も繰り返してきた会話なのかもしれない。債権者との交渉、期限の延長、利子の支払い。その繰り返しの果てに、今があるのだ。
「慰謝料と持参金が届けば、8000枚は払える。だが、届くのは2週間後だ。間に合わない」
「他に方法は……」
「ない」
父は首を横に振った。
「借りられるところからは、すべて借りた。売れるものは、すべて売った。この屋敷とお前の持ち物を除いては」
私の持ち物。その言葉の意味を、理解したくなかった。
「お父様、それは……」
「お前を売る」
母が小さく息を呑んだ。父は私から目を逸らさなかった。
「娼館に話をつけてある。お前ほどの器量と家柄があれば、金貨8000枚以上の値がつく。明日、先方の者が迎えに来る」
頭が真っ白になった。
娼館。
高級娼館であっても、そこで働く女たちがどのような扱いを受けるか、知らないわけではなかった。
社交界の裏で囁かれる噂。夜会で見かけた、どこか虚ろな目をした女たち。彼女たちがかつて何者であったか、今はどうなっているか。
「お待ちください」
私の声は震えていた。
「それは……そのような……」
「他に方法がないのだ」
父は立ち上がった。
「恨むなら、婚約を破棄したローゼンハイムの息子を恨め。あの男がお前を捨てなければ、こんなことにはならなかった」
違う。そう叫びたかった。
借金を作ったのはあなただ。身の丈に合わない生活を続けたのはあなただ。私を道具のように扱い、金で解決しようとしているのはあなただ。
けれど、言葉が出なかった。喉が詰まって、声にならなかった。
父は私の横を通り過ぎ、応接間を出て行った。残されたのは、私と母だけ。
「お母様」
私は母を見た。母は俯いたまま、顔を上げようとしなかった。
「お母様、私は……」
「仕方がないのよ」
母の声は小さかった。
「あなたが犠牲になれば、この家は守られる。伯爵家の名は残る。それが、貴族の娘としての務めよ」
務め。その言葉が、胸に突き刺さった。
「リーゼロッテ。あなたは昔から聞き分けの良い子だった。今回も、わかってくれるわね」
母はそう言って、応接間を出て行った。
1人残された私は、椅子に座ったまま動けなかった。
あまりに突然で、現実感がなかった。昨日まで伯爵令嬢として生きていた私が、明日には娼婦になる。
男たちに身体を売り、尊厳を踏みにじられ、いつか心が壊れて、あの虚ろな目をした女たちの仲間入りをする。
嫌だ。
心の奥で、何かが叫んでいた。
嫌だ。そんな生き方は、嫌だ。
私は伯爵令嬢だ。ヴァイセンブルク伯爵家の一人娘だ。たとえ家が没落しても、たとえ婚約を破棄されても、私には私の誇りがある。
幼い頃から叩き込まれた、貴族としての矜持がある。
身体を売ることだけは、許せなかった。他の何を失っても、それだけは。
私は、立ち上がった。
足が震えていた。けれど、動かなければならなかった。このまま座っていたら、明日になってしまう。迎えが来て、連れて行かれて、すべてが終わる。
部屋に戻り、外出用の服に着替えた。手が震えて、ボタンがうまく留められなかった。何度かやり直して、ようやく支度を整えた。
どこに行くのか、自分でもわからなかった。ただ、じっとしていられなかった。
屋敷を出て、馬車を呼んだ。行き先を聞かれて、口から出たのは1つの名前だった。
「フェルゼン公爵邸へ」
クラリッサ。幼馴染の公爵令嬢。私が没落してからも、変わらず接してくれた唯一の友人。
彼女なら、何か知恵を貸してくれるかもしれない。少なくとも、話を聞いてくれるはずだった。
馬車が走り出す。窓の外を、街並みが流れていく。
もう戻れないかもしれない。この街を、この景色を、見られるのは最後かもしれない。
そんな考えが頭をよぎった。振り払おうとしたけれど、振り払えなかった。
明日になれば、私はもう伯爵令嬢ではなくなる。その事実だけが、重く胸にのしかかっていた。




