第19話「夢」
私は、夢を見ていた。
庭園にいた。見覚えのある場所。ヴァイセンブルク伯爵家の庭園だ。色とりどりの花が咲き誇り、蝶が舞っている。空は青く澄んでいて、柔らかな陽射しが降り注いでいる。
私は、幼かった。背丈も低く、手も小さい。お気に入りの白いワンピースを着ている。
「リーゼ!」
声がした。振り返ると、黒髪の少女が駆けてきた。
クラリッサだ。幼い頃のクラリッサ。紫色の瞳を輝かせて、私に向かって手を振っている。
「クラリッサ」
私は、笑った。
「今日は何をして遊ぶ?」
「お話をしましょう」
クラリッサ、は私の手を取った。
「新しい本を読んだの。とっても面白かったのよ」
庭園の奥にある東屋に向かった。白いテーブルと椅子がある。そこに座って、よく2人でお話をしたものだった。
「どんなお話だったの?」
「王子様と姫様のお話よ。でも、悲しいお話なの」
クラリッサは、少し俯いた。
「姫様は病気になって、死んでしまうの。王子様は姫様を助けられなくて、ずっと泣いていたわ」
「それは……悲しいわね」
私は眉をひそめた。
「そんな悲しいお話、好きなの?」
「好きよ」
クラリッサは顔を上げた。その紫色の瞳には、不思議な光があった。
「悲しいお話は、心に残るの。読み終わった後も、ずっと姫様のことを考えてしまう。忘れられないの」
「私は嫌だわ」
私は、首を横に振った。
「悲しいお話は、胸が痛くなる。読んでいると、泣きたくなってしまう」
「リーゼは、どんなお話が好き?」
「幸せな結末のお話」
私は、即答した。
「みんなが笑って終わるお話。王子様と姫様が結婚して、末永く幸せに暮らしましたって。そういうお話が好き」
「そう」
クラリッサは、微笑んだ。
「リーゼらしいわね」
「悲しいお話も、最後は幸せになればいいのに」
「でも、そうじゃないお話もあるのよ」
「どうして?」
「どうしてかしら」
クラリッサは、空を見上げた。
「きっと、悲しいお話も必要なのよ。幸せなお話だけじゃ、幸せのありがたみがわからないから」
「難しいことを言うのね」
「お母様が言っていたの」
2人で笑った。
幸せな時間だった。何も心配することがない穏やかな午後。
「ねえ」
幼い少女の声がした。クラリッサではない別の声。
私は、振り返った。
東屋の入り口に、誰かが立っていた。小さな影。幼い少女のようだった。けれど、顔がよく見えない。逆光になっているのか、暗い影に包まれている。
「あなたは誰?」
私は、尋ねた。
少女は、答えなかった。ゆっくりと近づいてくる。
「幸せな結末のお話が好きなの?」
少女が言った。高くて、澄んだ声だった。
「うん。みんなが笑って終わるお話が好き」
「どうして?」
「だって、悲しいお話は……悲しいもの」
「悲しいお話の中にも、美しいものがあるわ」
少女は、私の向かいに座った。相変わらず、顔は暗くてよく見えない。
「知っている? 悲しいお話を読んで泣くとき、人は誰かのことを想っているの。自分じゃない誰かの痛みを、自分のことのように感じているの」
「それは……」
「それって、素敵なことだと思わない?」
少女の言葉に、私は何も言えなかった。
「あなたのお名前は?」
私は、聞いた。
少女は、黙っていた。
「教えてくれないの?」
「名前は、あまり好きじゃないの」
「どうして?」
「名前があると、縛られるから」
よくわからない答えだった。
「私はリーゼロッテよ。リーゼって呼んで」
「知っているわ」
少女は、小さく笑った。
「リーゼは、優しい子ね」
「あなたは、クラリッサのお友達?」
「さあ、どうかしら」
少女は、曖昧に答えた。
クラリッサを見ると、彼女は眠っていた。テーブルに突っ伏して、静かな寝息を立てている。いつの間に眠ってしまったのだろう。
「クラリッサ?」
「起こさない方がいいわ」
少女が言った。
「疲れているのよ。あの子は、いつも頑張っているから」
「あの子って……クラリッサのこと?」
「ええ」
少女は、頷いた。
「あの子は、悲しいお話が好き。でも、本当は幸せな結末を望んでいるの。誰よりも」
「どういう意味?」
「いつかわかるわ」
少女は、立ち上がった。
「私、もう行かなきゃ」
「待って」
私は、手を伸ばした。
「また会える?」
「さあ、どうかしら」
少女は、背を向けた。
「でも、覚えていて。悲しいお話にも、意味があるの。誰かの涙は、誰かの愛なの」
その言葉を残して、少女は東屋を出て行った。
「待って!」
私は立ち上がり、追いかけようとした。けれど、足が動かなかった。体が重い。視界がぼやけていく。
庭園が遠ざかる。花の香りが薄れていく。陽射しの温かさが消えていく。クラリッサは、まだ静かな寝息を立てて寝ている。
けれど、あの少女のことが頭から離れなかった。名前を教えてくれなかった少女。暗くて顔が見えなかった少女。
最後に、あの少女の言葉が聞こえた気がした。
悲しいお話にも、意味があるの。誰かの涙は、誰かの愛なの。




