35
その日の夜。
鬼人領にある屋敷の一室で、わたしは鏡に向かっていた。
帯の位置を直しながら、ぼんやりとつぶやく。
「まさか魔界にも浴衣があるなんてねぇ……」
正直、西洋人形のような人工精霊の外見に、網代模様の薄藍の浴衣は、似合っているとは言い難い。それでもこの格好が落ち着くのは、前世で着慣れた和装だからだろうか。
はぁ、と思わず息がもれる。
また前世を引き合いに出してしまった。
鏡に映るのは、黒滝まつ江とは似ても似つかない十五歳の少女。
この身体にもともとの人格は存在しないそうだけれど、それでも中身がいきなりお婆さんになってしまったのは、なんだか申し訳ない気もしてしまう。
空っぽの器にぽとりと落とされた、老いた魂。
冗談のような話だけれど、今のわたしはたしかにそれでできている。
せっかく転生したのだから中身もしっかり若返ろう、と意気込んでいたけれど、レイさんは漫画の続きが読みたくてわたしを転生させただけなのただから、無理して若者ぶる必要もないのかもしれない。
「……だめねぇ」
考えが堂々巡りを始める前に、お散歩でもして気分転換しよう。
と、古い旅館のような廊下を歩いて数分。
「どうしてわたしはこう、道も思考もすぐに迷ってしまうのかしら……」
頭はちゃんとしているつもりなのに、方向感覚だけはどうにもならないらしい。
庭に面した長い廊下の板目をしょんぼりと見つめていると、聞き慣れたいつもの声が聞こえた。
「──先生!」
振り返ると、立涌模様の浴衣を着たレイさんの姿があった。
わたしと違って、意外と和装が似合っている。ちょっと悔しい。
「レイさん……」
「お部屋にいらっしゃらなかったので、つい探してしまいました」
「発見していただけて助かりました。実は迷子になっていたんです」
「この屋敷の構造は複雑ですからね。迷ってしまうのも無理はありません」
優しく言いながら、レイさんはいつものように、すっと手を差し出してくれる。
「お部屋に戻られますか?」
「……もう少しだけ、お散歩がしたいわ」
「では、お供させてください」
そのまま手を取るのがどうにも恥ずかしくて逡巡していると、レイさんが不思議そうな顔で覗き込んできた。
「先生?」
「……レイさんって、いつも手を差し伸べてくださるわよね」
「も、もしかしてお嫌でしたか!?」
何気ない一言のつもりだったのだけれど、レイさんは思いがけずビャッと両手を上げて仰け反った。
「自分で動けますから、介護はご無用ですよ」
「……介護?」
「ええ。年寄り扱いは不要です」
そう告げると、レイさんはぎょっとした顔になった。
「決してそのようなことは!!」
「えっ?」
彼がこれほど過保護なのは、わたしの前世の姿を知るがゆえの、介護支援の一環なのだと思っていた。
レイさんはあたふたと、しかし一生懸命な様子で言葉を継いだ。
「先生の前世のお姿も品があって素敵でした! エスコートは淑女に対する礼儀であって、介護ではなく……。あっ、そのっ、下心はありませんからね!? どんなお姿であれ、先生はまつ江さんであり、クロエさんなのです! 誓って、お年寄り扱いも子供扱いもしておりません!!」
「そうでしたか……」
胸の中に引っかかっていたものがやわらかくほどけていくのと同時に、レイさんの慌てぶりおかしくて、ぷっと吹き出してしまう。
「そんなに必死にならなくても。ほんと、おかしいったら……。ふふ、あははっ」
「……そのように笑ってくださったのは初めてですね」
レイさんが嬉しそうに顔を綻ばせた。
たしかに、今まで声を上げて笑う余裕はなかったかもしれない。
「実を言うと、少し混乱していたの。わたしはいったい、なんなのかしらって……」
まつ江としての記憶、クロエという人工精霊の身体。
心と体がちぐはぐで、なかなか違和感を拭えずにいた。
「私のせいで困惑させてしまっていたのですね。申し訳ございません」
レイさんはまっすぐに、わたしの不安を受け止めてくれる。
「漫画の続きを描いて欲しいというのは、私のわがままです。もし先生が、普通の人工精霊として真っ新な状態で生きていきたいとお望みなら──」
「いいえ」
わたしは小さく首を横に振った。
「レイさんが仰ったんじゃありませんか。私は、まつ江であり、クロエなのだと」
そう。
わたしは『どちらか』ではなく『どちらでも』あるのだ。
「こう見えて、わたしもけっこうわがままなんです。描けるなら、もっと描きたい。そのためには、まつ江の意識とクロエの身体、そして、強力なスポンサーが必要なのよ」
いたずらっぽくおどけてみせると、レイさんも笑顔を返してきた。
「先生……」
「クロエと呼んでと言っているのに」
「えっと、クロエ、さん……」
「はい」
わたしはそっと彼の袖をつまんだ。
「せせせ先生っ!?」
「……また戻ってる」
「クロエさん!!」
「はいはい。なんですか?」
レイさんは狼狽した様子でわたしの指先を見つめる。
「そ、袖がっ、袖を……袖に……っ」
「先に手を差し出してくださったのはレイさんでしょう? エスコートしていただけるのは嬉しいのだけれど、手をつなぐのは、ちょっと恥ずかしかったの」
日本人はエスコートに慣れていないのだ、と言って、わたしはレイさんの袖をきゅっと握り直した。
「お行儀が悪いかもしれないけれど、これなら……ね?」
「先生。いえ……クロエさん。私には、袖クイのほうが恥ずかしいです……」
レイさんは顔を真っ赤にして、小さくうめいた。




