32
魔法の訓練を終えて、数日。
今日はいよいよ、鬼人領へ向かう日だ。
訓練初日に、レイさんがわたしにお守りをくれた時のことは、今も胸の奥に温かく残っている。
あれ以来、彼のことを前よりも少しだけ近くに感じるようになっていたけれど、その気持ちをどう言葉にしたらいいのかは、まだよく分かっていない。
鬼人領までは、魔界の技術で造られた航空機で向かうことになった。
飛行船のような飛行艇のようなその乗り物は、甲板がついていて外に出られるようになっているという。
風を感じることができると知って、わたしはたまらず外へと飛び出した。
「あら〜!」
空に飛び込んだような光景に、思わず感嘆の声がもれる。
視界いっぱいに広がる青と白。足元を雲が流れ、地上がはるか下に小さく見える。澄んだ空気に、心がすうっと軽くなる。まるで、自分自身が空を飛んでいるかのように思えた。
「高いわねぇ! すごいのねぇ!」
髪を撫でる風が気持ちいい。
手すりに寄って身を乗り出し、夢中で眼下を覗き込んでいると、背後からやや引きつった声が聞こえた。
「せっ、先生! そんなに身を乗り出しては危のうございます……!」
振り返ると、欄干から少し離れた場所でがっしりと柱にしがみついたレイさんが、眉をひそめてこちらを見ていた。まるで自分が落ちそうになっているかのように青い顔をしている。
「見てください! 雲が下に見えますよ!」
「はしゃいじゃって、可愛いねぇ」
壁際でくつろいでいたアルさんが、尻尾を揺らして笑った。
少しだけ照れくさくなって、肩をすくめる。
「実は生前、飛行機に乗ったことがなくて。空飛ぶ乗り物は初めてなんです」
「ババアが小出しになるのはもう諦めてるけど、せめて前世と言いなさい」
冗談混じりの年上口調で、アルさんが笑う。
「クロエちゃんのいた世界にも、こういう乗り物はあったんだ?」
「ええ。でも、これほどの技術じゃありませんでした」
それに、こんなふうに甲板に出て風を浴びたり、雲を見下ろすなんて、人間の体では到底できない。
本当に魔界にいるのだと、何度も思った当たり前のことが、少し遅れて胸に迫る。
「てっきり、竜かなにかに乗って移動するのかと思ってました」
そう付け加えると、アルさんがふっと笑った。
「昔はそうだったみたいだけど、今じゃ翼竜は絶滅危惧種だからね。それに、魔界は有翼種も多いだろ? 自力で飛んだほうが小回りが利いて楽なんだってさ」
なるほど、たしかに魔族は空を飛べる種族も多い。
自分で飛べたらさぞ楽しいでしょうね。
「そういえばレイも──って、レイ?」
「レイさん?」
いつもは少し鬱陶しいくらいに話しかけてくるレイさんが、今日はやけに静かだ。不思議に思ってレイさんを見ると、彼の顔は真っ青を通り越して真っ白になっていた。
「レイさん!?」
「大丈夫……この魔空艇は落ちないから大丈夫…………」
柱にしがみついたままブツブツと呟いていて、明らかに様子がおかしい。
表情もこわばっているし、額にはうっすらと汗が浮かんでいる。
「レイさん? 大丈夫ですか?」
「キャ────ッ!?」
突然声をかけたせいで驚かせてしまったらしい。
レイさんは悲鳴を上げて、その場にしゃがみ込んでしまった。
「レイさん、もしかして」
「なんでもありません……先生はどうぞ景色をお楽しみください……」
顔を伏せたまま蚊の鳴くような声でささやくレイさんを見下ろして、アルさんが面白がるように言った。
「こいつ、高いところダメなんだよ。しかも乗り物酔いしやすい体質」
「余計なことを言うな、アルフォル……」
やっぱり。
「高所恐怖症なんですね」
「…………ハイ」
俯いたままぐらぐらと揺れているレイさんの背中をさすってやると、彼は小さく頷いた。
「女もダメ、高いところもダメ、魔力もスライム以下……いいとこなしだな」
「うるさい……」
アルさんの冷やかしに反論する声にも力がない。
「魔力に関しては、リディアや、他の術者にも調査させている……」
そう呟きながら、顔を両手で覆ってさらにぐったりと項垂れる。
その体勢は余計に気持ち悪くなるのでは、と思ったそばから、レイさんの情けない声が聞こえた。
「うぅ……気持ち悪ぅ……」
「おい、吐くなよ!?」
アルさんが慌ててレイさんの顔を上げさせる。
わたしもとっさに欄干の向こうを指差した。
「遠くを見ると、吐き気が和らぎますよ!?」
「逆効果です……」
アルさんがレイさんの首根っこを掴んで手すりの方へ引き摺っていく。
「吐くなら船縁の外に顔を出して吐け!!」
「無理に決まっているだろう……!!」