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 レイさんは庭を突っ切って、敷地の一角にあるガラス張りの小さな建物へと足を運んだ。


「温室……?」

「はい。私の秘密基地です」


 レイさんが扉を開くと、土と草木が混ざり合ったあたたかな空気が流れてきた。どこか懐かしくて、落ち着く香りがする。

 温室の中は色とりどりの草木が並び、鮮やかな花のあいだを蝶に似た生き物がひらひらと舞っている。天井には光が満ちていて、まるで小さな植物園のようだった。


「素敵……」


 レイさんに導かれて、わたしは静かに足を踏み入れた。


「少し座りましょう。どうぞこちらへ」


 促されるまま進むと、花壇に囲まれた長椅子があった。腰を下ろすと草花の香りに包まれて、心がふっと軽くなる。

 しばらく無言の時間が流れたあと、レイさんがそっと口を開いた。


「すみませんでした。訓練とはいえ、先生に怪我をさせてしまうなんて……」

「誰のせいでもありません。魔法をきちんと使えるようにしておくべきだと思ったから、訓練をお願いしたんです。このくらい──」

「このくらいではありません!」


 思いがけず、強い語調が返ってきた。

 レイさんはこちらに向き直ると、恐る恐る手を伸ばして、そっとわたしの左頬に触れた。もう傷は治っているはずなのに、彼の指先が触れた場所が、じんわりと熱を帯びる。


「……傷は治癒魔法で癒せるかもしれません。だけど、怪我をしたら痛いでしょう?」

「それは……」


 レイさんの言葉に、思わず目を伏せる。

 魔法の残滓が頬を掠めた時の鋭い衝撃がよみがえり、わずかに肩がすくむ。

 恐怖と痛みに、思考が一瞬止まったのは事実だ。前世だったら救急車を要請するか悩んだかもしれない。

 あの時、レイさんがすぐに駆けつけてくれたから、わたしは取り乱さずに済んだのだ。

 

「たしかに、けっこう痛かった……です」


 正直に打ち明けると、レイさんはわたしの頬をひとなでしてから手を離し、懐から大事そうになにかを取り出した。


「……これを、受け取ってください」


 それは、ジュエリーケースのような箱だった。

 両手で受け取ると、レイさんが蓋を開く。箱の中には、桑の実色の宝石が埋め込まれたペンダントが収まっていた。宝石の表面には精巧な魔法陣が刻まれていて、ほんのりと光を帯びている。


「これは……?」

「お守りのようなものです」


 それだけ言うと、レイさんは箱からペンダントを取り上げた。


「つけさせていただいても?」

「えっ? あの……」


 お中元でもお歳暮でも、ましてや誕生日でもないのに、こんな物をいただいてもいいのかしら。

 戸惑うわたしに構うことなく、レイさんはペンダントの留め具を外して構えている。断るという選択肢は選べなさそうだ。


「……お、お願いします」

「失礼します」


 レイさんの手がそっと伸びてきて、ひんやりとした鎖がわたしの首にかけられた。首の後ろでカチリと小さな音がして、桑の実色の宝石が胸元で静かに揺れる。


「瞳の色と同じですね。よくお似合いです」

「ありがとうございます」


 宝石が正しい位置にあることを確かめて、レイさんが静かに微笑んだ。

 首元から彼の手が離れていくのが、ほんの少しだけ名残惜しく感じてしまった。


 わたしったら、なにを考えているのかしら。


 自分をごまかすように、花壇の方へ視線を向ける。すると、レイさんが小さく息をついて、ぽつりと呟いた。


「本当は、訓練なんてして欲しくなかったんです」

「レイさん……」

「魔法を使わなければならないような状況にするつもりなんてなくて、先生には執筆に集中してもらえるようにするはずだったんです。全部、私の落ち度です」


 不器用というか、繊細というか。まがりなりにも魔王さまなのだから、もう少し鷹揚に構えていてもいいでしょうに。

 顔を両手で覆ってどんよりと俯いてしまったレイさんに、わたしは思わず声を上げた。


「何度も言わせないでちょうだい!」

「えっ?」


 レイさんが目を丸くして顔を上げる。


「わたしは、わたしのために魔法を習得しようとしてるんです。自分のことは自分で守れるようになりたいし、レイさんの魔力を引き継いだ以上、みんなのことも守りたい。たしかに怪我には驚いたし怖かったけど、魔界で生きていく以上、避けては通れないことでしょう? それを、わたしを転生させた張本人のあなたが、いつまでぐじぐじと感傷的になっているんです!」


 勢いのままに言葉をぶつけてから、わたしはハッと口をつぐんだ。ついじれったくなってお説教じみたことをしてしまった。

 レイさんは驚いたようにしばらくわたしを見つめていたけれど、やがてふっと目を細めた。


「……先生は、お強いですね」

「できることを増やしたいだけですよ」


 わたしは、この世界をちゃんと知りたい。自分の足で立っていたい。そう思うから。

 レイさんはペンダントの宝石に目をやってから、再びわたしに視線を戻した。


「……分かりました。訓練、続けてください。私も、先生を支えられるように頑張ります。いや、その前に迅速な魔力回復の手立てを探す方が先ですね」

「ふふ。お互い頑張りましょうね」

「はいっ」


 午後の陽射しが、温室いっぱいに降り注ぐ。

 草花たちが、このやりとりを見守るように、やわらかい光をまとって揺れていた。

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