2
「ここは……」
「気がつかれましたか!」
霞がかったような意識が晴れると、薄暗い天井を背景に、見知らぬ男性がこちらを覗き込んでいた。
燕尾服のような装いに、紫の階調が美しい外套。その上を流れる長い銀灰色の髪。頭には、ジャコブヒツジのような立派な角が生えている。
往診のお医者さま──ではないわよね。
宝石のように赤い瞳を潤ませながら、男性はわたしの上半身を支えて助け起こした。
「滝松黒江先生でいらっしゃいますね?」
「ええ、そうですが。……あら?」
なんだか声がいつもより高い。それに、喉の通りが良くて話しやすい。
首元に手を伸ばそうとして、その指に皺もペンだこもないことに気がついた。まるで若い人の手のようにすべすべしている。
「あらあら?」
いったいどうしたことかしら、と自分の手を眺めていると、角の生えた男性が、わたしの手を取り頬を寄せた。
「お会いしとうございました!」
「まあまあ」
最近の子は初対面から距離感が近いのね。ちょっとドキッとしてしまったわ。
「ええと……?」
たしかわたしは、自宅で家族に見守られながら、老衰で息を引き取った──はず。
辺りを見回すと、そこは見慣れた自室ではなかった。
窓のない石造りの小部屋で、壁には松明がかけられている。床には不可思議な円陣紋様が描かれていて、わたしはその中央にいた。
もしかしてここは天国の入口で、目の前の男性は天使さまなのかしら。
「わたし、キリスト教徒ではないのですけれど、ここにいてよろしいのかしら?」
「もちろんです、滝松先生」
「天使さまがわたしのペンネームをご存知だなんて、光栄です」
「私は天使ではありません」
「あら……?」
てっきり天国にいけるものと思っていたけれど、どうやら違ったみたい。
なにか悪いことをしたかしら、と考えてすぐに、未完の『異類恋手帖』が頭に浮かんだ。完結を待ってくれていた読者さんたちを裏切ってしまったことが、わたしの罪ね。
そう考えると、たしかに目の前の男性は、天使とは言い難い風貌だった。
美しい顔立ちをしているけれど、白い翼ではなく鋭利な角が生えている。どちらかというと悪魔を彷彿とさせる出で立ちだ。
「天使さまでないのなら、閻魔さま? わたし、地獄に落ちてしまったの?」
「落ち着いてください、先生」
「あら、ごめんなさい。天使さまと閻魔さまを同列に語ってしまったわ。でもこれは、日本人独特の死生観と言いますか──」
「滝松先生」
穏やかな声に、わたしはハッと我に返った。
知らず握りしめていた手を優しくぽんぽんと叩かれて、肩の力が抜けていく。予想外の出来事に、思いのほか混乱していたようだ。
男性は静かに立ち上がると、外套を軽く翻して姿勢を正した。驚くほど背が高い。角を含めると、優に二メートルを超えるのではないかしら。
「私は冥府の王でもなければ、ここは地獄でもございません」
そして、男性は凛とした佇まいでこう告げた。
「ここは、魔界ヴァンダドラル。私は魔界の王、レイヴィダス・アルグレール・ヴァンダドラルでございます」
「……魔界、ですか」
まがりなりにも漫画家。
それに、孫や曾孫が読んでいた漫画やライトノベルを借りていたおかげもあって、魔界という単語はすんなりと頭に入ってきた。
「ええと、レイビダス・アールグレイ・パンタグラフさん?」
「レイヴィダス・アルグレール・ヴァンダドラルです。レイとお呼びください、先生」
「レイ、さん……」
「はい」
「レイさんはつまり、魔王さまでいらっしゃるの?」
「仰る通りです、先生」
レイさんはにっこりと、およそ魔王らしくない顔で笑った。