19
「ここは……」
足を踏み入れた瞬間、胸の奥がざわついた。
レイさんに連れてこられたのは、こじんまりとした部屋だった。柔らかな間接照明が部屋全体を優しく包み込み、どこか懐かしい雰囲気を醸し出している。
壁際には本棚が並び、画集や資料になりそうな書籍が詰まっている。本棚の横には業務用のコピー機があり、机の上には最新型のパソコンやタブレットが鎮座していた。どうやって入手したのかは、もはや問うまい。
「仕事部屋……ですか?」
レイさんはまっすぐにこちらを見つめたまま頷いた。
「アナログにも対応できるよう、原稿用紙やGペン、丸ペンの用意もございます。他に必要な物があれば、なんなりと」
そして、一歩わたしに近付くと、真剣な面持ちで言った。
「先生、もう一度お願いします。『異類恋手帖』の続きを描いてください」
「…………っ」
あまりにも真剣な眼差しに、目を逸らすことができない。
息苦しさを覚えてようやく、わたしはレイさんから顔を背けた。
「……こちらに住まわせていただく以上、働かなくてはならないことは承知しております。宮廷画家として、肖像画や風景画、衣服のデザイン画などは承ります。ですが──」
わたしは言葉を絞り出した。
「漫画は描きません」
「どうしてですか」
レイさんの声が、悲しげに揺れる。
「描かない──ではなく、描けない、と言ったほうが正しいでしょうね」
目を伏せると、頭の中に遠い記憶が浮かび上がってくる。
私は二十代で漫画家デビューを果たした。結婚したのもその頃だ。
有難いことに、お仕事が途切れることはなかったけれど、三十代に入ってすぐ、夫が病で亡くなってしまった。
現実を受け入れる間もなく、日常が容赦なく押し寄せてきた。悲しんでいる暇などなく、子育てと連載の両立で必死だった。朝も夜も関係なく、寝る間も惜しんで夢中で原稿を仕上げる毎日。
描くことで生活を守ろうとしていた。描くことで自分を保っていた。
やがて、子供たちが大きくなり、それぞれの道を歩み始めた頃。
静まり返った部屋で、ペンを持つ手が、不意に止まった。
日々の喧騒がサーッと消え、頭の中も原稿も、真っ白なまま動かない。
わたしは、なにを、描きたかったのだろう。
かつては自然に浮かんできた台詞や情景が、霧のように消えていく。
物語の続きも見えず、キャラクターの声も聞こえない。
描く手が止まったのは、技術や体力の問題ではなかった。
描いても意味がないのではないか、と思ってしまった、その絶望が原因だった。
「その瞬間、心のどこかでパチンとスイッチが切れてしまって……」
そんな状態のまま連載を続けてはいたけれど、原稿に向かうたび、心が擦り切れていくのが分かった。
ページはなんとか埋まっても、物語は一向に前に進まない。どれだけ時間をかけても、かつてのようには描けない。
時代は変わっていく。漫画の表現も、読者の求めるものも、目まぐるしく変化する。
なのにわたしは、同じ場所でずっと足踏みすることしかできなかった。情けなくて、恥ずかしくて、自分の漫画を読まれるのが怖かった。
「それで、休載を……?」
「本当は連載を中止にしたかったんです。けれど……」
わたしの最後の担当編集者、榊くんの姿を思い出す。まだ二十代前半で、学生のような初々しさが残っている男の子だった。まだ若いのに、わたしの作品をすべて読んでくれていた。好きな場面や台詞を語って、照れくさそうに笑った顔を、今でも覚えている。
そんな彼に、わたしは思いきって弱音を吐いた。
もう描けない、読者の期待には応えられない、と。
「榊くんが、連載終了だけは止めてくれと言ったんです。『ここまで続けてきたのだから、読者に、物語に責任を持て』、『作者は、物語を完結させる義務がある』と……」
話し合いの末、ひとまずは休載という形を取ることになった。
もう描けないと思いながらも、物語を終わらせる決断もできなかった。
未完成のまま投げ出すのは卑怯だと、どこかで分かっていたから。
「でも結局、義務も責任も果たさないまま死んでしまった。わたしは駄目な漫画家なんです。……いえ、漫画家と名乗るのもおこがましいわね」
自嘲気味にそう付け加えた時だった。
「そんなことはありません」
レイさんの声が、ハッキリと響いた。
「私が何度、先生の漫画に勇気づけられ、元気をもらったか。何度、登場人物たちの言葉に感動し、心を揺さぶられたか──。その言葉を、物語を紡いできた先生が、 駄目な漫画家なわけありません!!」
その言葉は、あまりにもまっすぐ、わたしの胸に突き刺さった。
誇張でもお世辞でもなく、彼は心からそう思ってくれているのが、表情から伝わってくる。
「先生は続きを描くべきです。そして、物語を完結させるべきです。少しでも後悔があるのなら、そして、読者に申し訳ないと思っているのなら、今こそ再び、ペンを執るべきなのではありませんか? 生まれ変わったあなただからこそ、描けるなにかが、きっとあるはずです!」
生まれ変わった、わたしだからこそ。
レイさんの真剣な想いが、わたしの心に波紋のように広がっていく。
「レイさん……」
名前を呼ぶと、彼はハッとしてみるみる顔を紅潮させた。そして慌てたように頭を下げる。
「失礼を申しました!! 何も知らぬ素人が、生意気なことを──」
「レイさん」
わたしはしゃんと背筋を伸ばした。
「……少しだけ、時間をください」
すぐに応えることはできない。
けれど、彼の言葉は、たしかにわたしの心に届いた。
長く閉ざされていた創作の扉が、ほんのわずかに開いた気がした。