13
「……広いわねぇ」
静まりかえった廊下に、わたしの足音だけがコツコツ響く。
右を見ても左を見ても、同じような扉と豪奢な装飾が並んでいて、方向感覚を狂わせるには十分だった。すでに来た道の確信が持てなくなっている。
「このまま迷子になったら徘徊老人だと思われてしまうわ!」
なんとか元のお部屋に戻らなければ、と数歩進んだところで、足が止まった。
「どちらから来たのだったかしら……」
わたしは迷子になっていた。
「困ったわねぇ」
途方に暮れていると、不意に背後から、子供のような甲高い声が聞こえてきた。
「おねーサン、どうカしたの?」
「ちょっとお部屋の場所が……」
「分からナクなっちゃっタの?」
「実はそう──」
振り向くと、ぷるんとした紫色のゼリーのような物体が落ちて──いや、佇んでいた。
よく見ると目と口がついている。バスケットボールほどのサイズのそれは、ぷるぷると揺れながら話しかけてくる。
「迷子になっちゃっタ?」
「きゃぁあああーっ!! 水羊羹のお化けーっ!!」
「ミズヨーカンってなァに?」
「違うの!? それじゃあ寒天!? ところてん!? わらび餅かしら!?」
「……なにソレぇ」
どうやら食べ物のお化けではないらしい。
ぽよぽよと不思議そうな声をあげる物体に、わたしは慎重に問いかけた。
「あなた、いったい……なに?」
「おねーサン、スライム知らなイの?」
「スライム……?」
そういえば、孫が遊んでいたゲームにそんな名前のモンスターがいたような。
「浩介の遊んでいたゲームじゃ、水色のおにぎりみたいな姿だったけれど……」
「コースケ?」
「あ、浩介っていうのは長男のところの子供でね」
ふと懐かしさが込み上げて、スライムさん相手に孫語りを始めてしまう。
「孫の一人なんだけど、これがまた可愛くて」
「コースケはカワイイ……」
「そうなのよ~。浩介はもう少しで三十歳になるんだけど、最近、急に漫画家になりたいって言い出して──」
「コースケはさんじゅッさい」
「そうそう。それで──」
その時、冷静な声が割り込んできた。
「こんなところでなにをしているのです?」
「あら……?」
スライムさんに熱心に話しかけるわたしを見下ろしていたのは、この国の宰相さんだった。
「ストライク・レインウェア・シルバーウィークさん……!」
「わざとですか?」
彼は深々とため息をついた。
「ストラスール・レンサイト・シルヴィスです。スライム相手になにを話し込んでいるのです」
「コースケはかわイくてサンじゅっさい!」
「は?」
誇らしげに飛び跳ねるスライムさんに、ストラさんは困惑した顔になった。
「こちらのスライムさんに、孫自慢を聞いていただいておりましたの」
「はぁ、左様で……」
「この時間までお仕事ですか?」
「ええ。どこかの馬鹿が魔力をスカスカにしたので、警護を強化しなくてはなりませんからね」
考えるまでもなくレイさんのことだ。
自分の仕える主を馬鹿呼ばわりするあたり、ストラさんは容赦がない。
「私のせいで、ごめんなさいね」
「いえ…………」
ストラさんはしばし沈黙した後、深く息をついた。
「八つ当たりのようなことを言って申し訳ございません。あなたのせいではない、むしろあなたは被害者だと理解はしているのですが」
「被害者だなんて、そんな……。たしかに驚きはしましたけど、新たな生を得るという貴重な体験をさせていただきました。クロエとしてなにができるのか分かりませんけれど、精一杯頑張りますね」
ストラさんは少し驚いたように私を見つめると、それから静かに微笑んだ。その表情があまりにも柔らかなものだったので、つい見とれてしまいそうになる。
「あなたは想像以上にたくましい方のようですね」
「たくましい……」
「それに精神的に自立している」
「まあ、年の功と言いましょうか」
彼はくすりと笑うと、表情を改めてすっと頭を下げた。
「これまでの非礼、どうかお許しください」
「そんな、頭を上げてください。あなた様の言動は、すべてレイさんを心配してのものでしょう? 謝っていただく必要はありません」
「クロエ殿……」
「できればクロエと呼んでください。一応、そちらのほうが年上ですからね」
念押しするように言うと、ストラさんは小さく笑った。
「フッ……。そうですね。では、クロエと呼ばせていただきましょう」