隼人③
ジョギングから村に戻った隼人は、駐在所の前で声をかけられた。
「隼人さん、うちの人、みませんでした?」
振り返ると、駐在の妻の栞里が立っていた。
スマホを握りしめ、困り果てた様子で小首をかしげながら隼人を見上げている。
「いくら電話しても連絡、つかなくって……東京からお客さんが来るのに、部屋の準備もまだだし……皐月さんが、点検しに来るのよ……あの人、厳しいから……私、怒られちゃうわ……どうしましょう……」
(どうしましょうと言われても……)
隼人は困惑しながら栞里を見た。
こんなところに突っ立っていても、何も解決しないだろうと隼人は思う。
「……お布団も、古いのしかなくって……お客さんに出せるようなもの、何もないのよ……」
栞里の声には甘えが含まれていた。
視線は隼人を見つめたまま、どこか期待するような色を帯びている。
「祖母の遺品に新しい布団があります。それを持ってきますよ。あと何か必要なものはありますか?」
「まぁ、ありがとう! 本当に助かるわ!」
栞里は胸のあたりで手を合わせ、笑顔を浮かべた。
「何がいるのか、私には、さっぱり……隼人さん、中を見てもらえません?」
栞里はそう言うと、駐在所の引き戸を開けた。
隼人を招き入れるように、奥を示す。
自分が見てもしょうがないだろうと思いつつ、隼人は中に入った。
駐在所の中に入るのは初めてだった。
中は想像以上に殺風景だった。古い木造建築特有の匂いが漂っている。
スチール製の机とパイプ椅子が並び、奥の四畳半程度の板敷きの間は、変色し反り返った床板が目立つ。
板の間の隅には、ビールや缶チューハイの空き缶がいくつか転がっている。
「(こんな状態で人を泊める気だったのか……)この床に合う敷物を取ってきます。ゴミを片付けていて下さい」
そう伝えても返事がないので、隼人は振り返って栞里を見た。
見れば、栞里はパイプ椅子に腰掛けて、気だるそうに机に頬杖をついている。
「——隼人さん、うちの人、捕まるんじゃないかしら……」
「田所さん、何か悪いことしたんですか?」
隼人は土足のまま、板敷きの間に足を踏み入れた。
他に何が必要なのか見てみようと思ったが、靴を脱いで上がる気がしない。
「東京から来る人、研修なんかじゃなくて、あの人のこと調べに来るんじゃないかって……」
隼人は板の間を見回した。
右には急な階段が、左には簡素な台所を見つけた。
流しの中には、タバコの吸殻が数本捨てられている。
「大丈夫ですよ。知り合いに聞いたんですが、警察庁の人間が交番や駐在所に研修に来ることは本当にあるらしいです。現場が混乱して、面倒がられているらしいですけどね」
流しの下に妙なものが落ちていた。
車の鍵だった。
隼人は身をかがめ、『L』のロゴが入っている鍵を拾い上げ、それを栞里に見せた。
「これ、落ちてました」
「やだあ! そんなとこにあったの?」
鍵を見た栞里は勢いよく立ち上がった。
「車があるのに、鍵がないから困ってたのよ!」
隼人から鍵を引ったくるように受け取ると、栞里はそそくさと駐在所の外に向かう。
「私、あの人を捜しに行ってくる! あとのことはお願いね!」
「えっ……?」
隼人は呆然とその背中を見送った。
栞里は全てを隼人に押し付けるつもりらしい。
小走りで『蜿り橋』を渡っていく栞里の姿が見えなくなるまで、隼人はその場に立ち尽くした。
仕方がないと思いなおし、隼人は台所を点検することにした。
小型の冷蔵庫は動きそうだが、ガスは止まっているのか点火しない。
鍋類も食器も何もなかった。
通用口のたたきに何かが落ちていた。
拾い上げると、それは蛇の面だった。
(懐かしいな……)
隼人の家にもかつて飾られていた魔除けの面だ。
どこから落ちたのかと見回しても、面を飾るような位置に釘は見当たらない。
隼人は蛇面を手に、二階へと続く急な階段を上がった。
二階は真っ暗だった。
下からの明かりを頼りに、隼人は窓にたどりつく。
固く閉ざされた雨戸を開けると、日の光と共に風が入り、川の音が聞こえた。
『蜿り橋』もよく見える。
反対側の窓も開けると、蛇面神社へ続く石段と、両脇に植えられたアカシアの木々が見えた。
アカシアは今が花の盛り。
甘い匂いが風に乗ってやってきた。
(あった――)
蛇面をかけられる釘を見つけた隼人は、そこに面をかけた。
蛇面は正しい位置にかけなければならないと、祖父から厳しく言われた。
正しい位置——お面に向かい頭を下げると、蛇面神社に頭を下げるのと同じになる位置——その場所にしか、蛇面はかけられない。
だが階下には、その位置に釘は刺さっていなかった。
隼人は蛇面をかけると、手を合わせて頭を下げた。
昔、祖父母と一緒に行ったように。